内村鑑三 マタイ伝 38講 神の国と其義

38 マタイ伝
 
神の国と其義
明治44910 『聖書之研究』134  署名なし
汝等先づ神の国と其義とを求めよ、然らば此等の物は皆な汝等に加へらるべし。馬太〔マタイ〕伝六章三十三節。
 
神の国とは信者が神の名を以て自己の努力に由て地上に建設せんとする理想の社会を云ふのではない、神の国とはキリストの再臨に由て彼が万物を己れに服(したが)はせ得る能力(ちから)を以て実現し給ふ未来の聖国である。
義とは世に謂(い)ふ所の正義又は正道を云ふのではない、此所(ここ)に云ふ所の義は「神の国の義」であつて、道義学上の義とは全く性質を異にする者である、之を一名「神の義」と云ふ(羅馬〔ロマ〕書三章廿一節)、人の義に対して爾(し)か云ふのである、即ち人が神に対して行ふ義に非ずして、神が人に被(き)せ給ふ義である、「義の衣を被る」と云ふのは此事である(黙示録〔もくしろく〕十九章八節)、我より生ずる者にあらずして、神より来て我に被(き)せらるゝ者であるからである、故に此所に「義」と云ふは「恩恵」と云ふと異ならないのである、聖書に於ては「義」といふ言辞(ことば)は屡々〔しばしば〕「恩恵」又は「慈悲」の意味を以て用ゐらる、即ち詩篇第七十二篇二節に
()は義を以て其民を審判(さば)き給ふべしとあり、又同第八十五篇十一節に
真実(まこと)は地より生え、義は天より瞰下(はみおろ)せりとあるは此意味に於ての義を云ふのである、神の国の義とは世に謂ふ所の義人の義又は仁者の仁ではない、神が
其慈愛の大御心〔おおみこころ〕よりしてキリストを以て世に示し、聖霊を以て信者の霊に賦与し給ふ一種特別の義である。
キリストを以て世に臨まんとする神の国と、神がキリストを以て彼を信ずる者に与へんとする特殊の義を求めよとの事である、一言以て之を言へば常に待望的態度に居れとのことである、上を瞻(み)よ、未来を望め、此世に在りて此世の属(もの)たる勿〔なか〕れ、常に希望の翼(つばさ)に駕(が)して地の慾望を離れて翺翔(こうしょう)せよとの事である、然らば是等の物、即ち衣食の料、居住の家、総〔すべ〕て不信者が人生最上の捕獲物(えもの)として握扼(あくやく)せんとする所のものは、汝に在ては労せずして
汝に加へらるべしとの事である。
而〔しか〕して是れキリストの垂訓であつて、又彼を待望(まちのぞ)む者の日々に実験する所である、我等希望を此世より絶ち、我等の財(たから)を悉〔ことごと〕く天に移(うつ)して、我等の生涯は甚だ安楽なる者となるのである、野の百合花(ゆり)の如く労(つと)めず紡(つむ)がざるに衣は我等に給(あた)へられ、空の鳥の如くに倉に蓄へざるに我等の食物は絶えないのである、社会主義者の唱ふる衣食の煩慮を去り安心以て業に就くの理想はキリストを信ずるに由て始めて実現せらるゝのである、人世を称して「競争場裡」といふは信者の言ふことではない、不信者の言ふことである、信者に取りては人世は競争場裡ではない、譲退場裡である、彼はすべての善物(よきもの)を上より豊かに与へらるゝが故に他人を退けて其物を奪はんとしない、彼は父として大富豪を持〔も〕つが如き観念を以〔も〕て此世に棲息する、彼が若し窮境に陥ることがあれば、夫〔そ〕れは彼が智慧と努力とに於て不足するからではない、望むことが足りないからである、父は彼より大希望を要求し給ふのである、彼は彼が神の国と其義とを慾望せんことを欲し給ふのである、而して此大希望を懐くに至て彼の身に関する小希望は悉く達せらるのである、誠にパウロの言へるが如く我等は希望に由て救はるゝのである(羅馬〔ロマ〕書八章廿四節)希望は我身を軽からしめ、我が行動を敏(さと)からしめ、我思惟を鮮(あざや)かならしむ、神の国と其義とを求めて我等は飛行機に乗て空中を駛(はし)るが如く、障害多き此地の上を滑らかに走り得るのである
 
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ノルウエーから宣教師の御夫婦がこられて、クリスマス会に参加された。日本人に重荷を追っておられるキリストの僕の方がたである。