内村鑑三 マタイ伝 26講

26マタイ伝
 
誤訳正解
馬太伝五章二十八節
大正元年810 『聖書之研究』145  署名内村鑑三
 
性慾の罪に就て語るは決して快き事ではない、之に大なる危険がある、罪を語て却〔かえつ〕て罪を想起(おもひおこさしむ)るの危険がある、我等は深き注意を以て此種の研究を為さなければならない。
乍然〔しかしながら〕、性慾の罪に関する研究は全然之を避くることは出来ない、之は此世に最も有勝(ありがち)なる罪である、人は此罪に於て潔白であつて始めてすべてに於て潔白であるのである、姦淫は最も隠微なる罪である、之を排除するに深き思慮と慧(さと)き手練とを要する。
何をか姦淫と云ふとの問題に対してイエスは斯う答へ給ふたと馬太伝は伝へて居る、即ち
凡〔およ〕そ婦〔おんな〕を見て色情を起す者は中心已〔こころのうち〕に姦淫したるなりと(五章二十八節)、若し此の訳文にして誤りなくんば、世に姦淫を犯さざる者とては一人も無きに至るのである、而して多くの誠実なる信者はイエスの此言を以て己れを責め、己れの神の前に立て姦淫の罪人たるを免か
〔しか〕〔ことば〕
る能〔あた〕はざるを知り、苦悶、叫号、以て偏(ひと)へに彼の赦免に与〔あずか〕らんと欲するのである。
然し、イエスは果して斯かる言を発し給ふたのである乎、我等は茲に其事を明瞭(あきらか)にしたく欲(おも)ふのである、我等は勿論(もちろん)姦淫の罪を軽く視んとするのではない、然し、イエスの言を誤解して、罪の軽重を誤るの虞(おそれ)がある、罪に
勝つの途は其罪を明かにするにある、罪を罪以上に見て、或ひは罪以下に見て、我等は一層強く之に悩まさるゝのである。
是れ我等サタンに勝たれざらん為なり、我等彼の詭計(はかりごと)を知らざるに非ず
パウロは言ふて居る(哥林多〔コリント〕後二の十一)、聖書の誤訳は多くの場合に於て悪魔の詭計に力を貸す者である。
 
婦(をんな)を見て色情を起すは善き事でないのは勿論である、然し、是れ姦淫である乎、其事が問題であるのである、
エスは普通の日本訳の聖書が示すが如くに教へ給ふたのである乎。
余は爾うでないと思ふ、馬太伝五章廿八節は爾う訳すべきものでは無いと思ふ、之を正確に訳すれば左の如くに成るべき者であると思ふ。
「凡そ色慾を遂げんとて婦を見る者は中心已に姦淫したるなり」
と、希臘〔ギリシア〕語のpros to epithumēsai を婦を見ての結果となし、「色情を起す者」と訳せしは大なる誤訳であると思ふ、婦を見ての結果ではない、婦を見るの原因即ち動機である、若し「色情」の文字を保存せんとならばラゲ氏の訳の如くに、
「総〔すべ〕て色情を起さんとて婦を見る人は云々」と訳すべきである、然し「色情を起さんとて婦を見る」とは奇異なる心理状態である、epithumeō は慾を起すに止まらない、慾を遂げんとする念を起すことである、故に更らに一歩を進め余の訳せしが如くに訳すれば意味は一層明瞭になるのである、
「凡て色慾を遂げんと欲して婦を見る者は中心已に姦淫したるなり。」
 
而してイエスの此言の正当なるは何人も拒む能はざる所である、罪は単に行為ではない、又意志である、衷〔うち〕に
罪を企てゝ罪は已に熟したのである、其遂行と否とは単に境遇の問題である、イエスは罪はすべて之を人の意志に帰し給ふたのである、外に現はれたる其の動作に由て定め給はなかつたのである、此の場合に於ては色慾を遂げんとした其動機が已に姦淫罪を構成すると教へ給ふたのである。
斯く解して(而して文法上斯く解せざるを得ないと思ふ)、イエスの此訓誡の決して至難を要求する者でない事がわかるのである、婦を見て色情を起すことが果して姦淫である乎否やは此一節の教ふる所ではない、此節の明白に教ふる事は情慾遂行の動機を以て婦を見る者は其時已に心の中に姦淫の罪を犯したのであると云ふ事である、
エスの此言を以て婦人の一瞥〔いちべつ〕より来る情慾の聯想を以て姦淫罪と認むる事は出来ない、斯く為して自他を責むるのは此聖語の濫用である、少くとも誤用である。
ルーテルが曰ふたことがある、「余は鳥が余の頭の上を飛ぶことを妨ぐることは出来ない、然し余は彼をして余の頂に巣を作らしめない」と、謂ふ意は是れである、即ち聯想に因る罪念の喚起は之を妨ぐるの途はない、然れども之を我が意志となし、其実行となりて現はれんことは余の堅く誡めて許さない所であると、色情を喚起せらるゝ事は避け難いかも知れない、乍然、其の我が意志と成りて我に実行を促さん事は我の許さゞる所である、
我は此意味に於て婦を見るも姦淫を犯さずして済むのである。
 
更らに又此節に於て注意すべきものは「婦」と訳せられし原語である、希臘語のgunē は単に女性をいふの詞
ことば
ではない、哥林多前書七章二節に人は各自其妻を有ち、女も各々其夫を有つべし
とある「妻」と訳せられし原語は此gunē である、又以弗所〔エペソ〕書五章廿二節に
 ()なる者よ、主に服(した)ふが如く己が夫に服(したが)ふべし
とある「婦」と訳せられし原語も亦同じく此gunē である、而して同じ馬太伝の第五章に於て我等が今茲処に研究しつゝある一節の直ぐ後にある
凡そ人その妻を出さんとせば云々とある其「妻」なる詞も亦此gunē である、故に「婦を見る」とは「妻を見る」と訳する事が出来る、而して此場合に於ては他人の妻を見る事であるは言ふまでもない、而して斯く解して此節の意味は更らに一層明かに現はれて来るのである、凡そ色情遂行の動機よりして他人の妻を見る者は云々、と、是れ確かに姦淫である、十誡第七条の「汝姦淫する勿れ」に加へて其第十条「汝その隣人の……妻を貪る勿〔なか〕れ」を破る事である、「悪しき眼を以て他人の妻を見る事」、是れ明白なる姦淫の罪である。
エスが茲に誡め給ひし罪の実例は之をヘテ人ウリヤの妻なるバテシバに対せしダビデの行為に於て見るのである、事は撒母耳〔サムエル〕後書第十一章に於て明かである、読者の之に就て読まれんことを望む。
余は茲に此一節を斯の如くに改訳して色情の聯想を無害視せんとするのではない、使徒ヤコブの曰ひしが如く 慾已(よくすでにはらみ)て罪を生み、罪已に熟して死を生む
ものなるが故に(雅各〔ヤコブ〕一の十五)、罪は其胚胎の前に之を除くべきである、罪の想起は其胚胎である、未〔いま〕だ罪となりて生れずと雖も、然かも罪の種子として其排除を努むべきである、最も安全なる事は罪の思念さへも起さないことである、イエスは此清浄の状態に於て在り給ふたのである、我等も亦彼と同じく此状態に達せんことを期すべきである。
然しながら我等は聖書の言を其意義以上に解して自己に無益の苦悶を招いてはならない、
ヱホバは我等の造られし状(さま)を知り我等の塵なることを念ひ給ふとある(詩篇百三の十四)、神は我等より不可能を要求し給はない、防ぎ難き慾念の聯想を以て之を罪とは認め給はない、罪は想の更らに一歩進んだ者である、此事を知て我等は無益の苦悶より免かるゝことが出来る、而して同時に又悪魔の詭計に対して有力なる作戦計画を立つることが出来る、余は再たびパウロの言を繰返して曰ふ、是れ我等サタンに勝たれざらんが為なり、我等彼の詭計を知らざるに非ず、と。
 
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