内村鑑三 マタイ伝 32講 再臨信者の祈祷として見たる主の祈祷

32マタイ伝
 
再臨信者の祈祷として見たる主の祈祷
馬太伝六章九―十三節研究(五月十九日大阪天満基督教会に於ける講演の一部)
大正7610日『聖書之研究』215 署名内村鑑三
 
○主の祈祷は基督信者の祈祷の模範であつて彼が毎日繰返(くりかえ)す所の者である、而(しか)して何ぞ知らんや是れ基督再臨信者の祈祷と見て其意味の最も明白になる事を。
○天に在(いま)す我等の父よ天とは後にいふが如く地に対して云ふのである、天とは霊界を指して云ふのではない、聖旨(みこころ)は必しも霊界に於て行はれない、天とは神の聖旨(みこころ)の完全に成る所であつて或る場所(ロ-カリチー)をして云ふのである、其何処(どこ)である乎を知らない、只(ただ)此地(このち)でない事丈けは明かである
「父よ」と云いて「神よ」と云はない、又「我等の父よ」と云ふ、キリストの父であつて又信者の父である、彼は言ひ給ふた「我は我が父即〔すなわ〕ち汝等の父に昇る」と( 約〔ヨハネ〕二十の一七)、我等の父の家は天に在るのである。
○願くは爾名(みな)を尊崇(あが)めさせ給へ爾名を聖〔きよ〕めさせ給へ、聖き者として尊(とうと)ませ給へ、権威ある者として崇(あが)めさせ給へ、此祈祷は後(あと)に「爾旨(みこころ)の天に成る如く云々」とある如く「天に於けるが如く地に於ても」の句を附して為すべきである、即ち「願くは天に於けるが如く地に於ても爾名を尊崇めさせ給へ」と、神の聖名〔みな〕は天に於ては尊崇(あが)めらる、然れども地に於ては尊崇められない、地に於てはイエスキリストの父の聖名は今や軽(かろ)んぜられ、嘲(あざ)けられ、辱(はずか)しめらる、是れ彼の威権が地に於て行はれざる最も明白なる証拠である、地は今や其主人たる神に叛〔そむ〕きて其名を辱しめつゝあるのである、而して全地が其正当の君たる神を君として崇むるに至らんことをと祈る、而して是れ
「彼が鉄の杖を以て列国(くに〴〵)を牧(つかさ)どり給ふ」時であるは我等の知る所である(黙十二の一五)、聖名の尊崇は神の威権に係はる大問題である、愛の普及と称するが如き道徳問題とは其性質を異にする、「王其国に臨(きた)りて其名の民の間に尊崇(あが)められんことを」と云ふが如き祈祷である。
爾国(みくに)を臨(きた)らせ給へ「国」とは希臘〔ギリシア〕語のbasileia バシライア即ち王国である、而して王国は王(basileusバシルース)ありて始めて成立する者である、故に爾国(みくに)を臨(きた)らせ給へと云ふは「国王を送り給へ」と云ふか、又は「王よ臨り給へ」と云ふと同じである、而して是れ基督信者の口を以て唱へらるゝ時に基督再臨の祈祷たるは何人が見ても明かである、殊に「臨り」と云ふは俄然的来臨の意である、即ち旧約馬拉基(マラキ)書三章一節に謂〔い〕ふ所の「汝等の求むる所の主、即ち汝
等の悦楽(よろこ)ぶ契約の使者、忽然(たちまち)其殿(そのみや)に臨(きた)らん」とある其事である、「臨る」と云ふ言辞(ことば)の中に「忽然(たちまち)」と云ふ意味が含まれてある、「爾国(みくに)を臨らせ給へ」と云ふは現代人が思ふが如く「人類全体が教会の指導の下に徐々として基督信者と成らんことを」と云ふが如き事ではない、キリストは人の知らざる時に忽然と臨り給ひて其国を建設し給ふとは聖書全体の明かに教ふる所である。
爾旨の天に成る如く地にも成らせ給へ原語を直訳すれば「爾旨(みこゝろ)をして成らせ給へ天に於けるが如くに地に於ても」となる、此祈祷の中に特に注意すべきは「成らせ給へ」と云ふ言辞(ことば)である、是れ文法に所謂〔いわゆる〕命令法(イムペレチーブ)である、「命じて爾旨(みこころ)をして成らしめ給へ」と意訳して差支(さしつかえ)ない者である、而して是れ王の来臨に因り権威宣揚の結果として実現する事たるは明かである、即ち王の名の崇められん為に彼れ臨り給ひて其命令の行はれん事をとの祈祷である、何処(どこ)までも王の来臨を乞ふの祈祷である、聖霊の内在に加ふるに大王の天地万物の上に来臨し給ひて之を一変して義の王国を建設し給はんことを求むるの祈祷である、以賽亜〔イザヤ〕書二章十節以下廿二節まで等と対照して解すべき祈祷である。
○以上は神に係(かか)はる祈祷である、以下は信者に係(かか)はる祈祷である、神に係はる者三つ、人(信者)に係はる者三つ、而して之に最後の頌讃の辞一句を加へて七つ即ち完全の祈祷となるのである。
○我等の日用の糧(かて)を今日も与へ給へ此祈祷を文字の儘(まま)に解して其意義は甚(はまは)だ解し難くある、主は他(ほか)の所に於て(而かも直ぐ後に) 「生命(いのち)の為に何を食ひ何を飲まんとて思ひ煩ふ勿(なか)れ」と教へ給ふた、然るに此所(ここ)には日用の糧を我等に与へ給へと祈るべしと教へ給ふと云ふ、其間に確(たしか)に矛盾がある、勿論糧の為に祈るは悪しき事ではないとして信者が自己(おのれ)の為に祈るべく教へられし三ケ条の中に其一ケ条が肉体の糧(かて)の為であるとは甚だ受取り難き事である、之には何にか他の意味がなくてはならない、之れ基督信者に取り応ふさ」はしい祈祷(いのり)でなくてはならない、而して再臨信者の祈祷として見て其意味が明瞭になるのであると思ふ。
○此祈祷の中に難解の辞が一つある、それは「日用」と訳せられし希臘語のepiousion(エピウーシオン) である、是れ何を意味する辞(ことば)なるや言語学者と雖(いえど)も今に至るも解らないのである、之を「日用」又は「日毎」と訳せしは拉典(ラテン)訳聖書に由るのであつて原語の確実なる意味ではない、或は「明日」の意なりと云ひ、或(あるい)は「上より降る」の意なりと云ふ、其の孰(いず)れが真正(まことただ)しきや判定することは出来ない、信者が日毎に復誦しつゝある祈祷文の中にも斯(か)かる難解の辞あるを知つて聖書研究の容易ならぬ事であることが判明(わか)る、然し乍(なが)ら此辞を別として祈祷全体の意味は解するに難くない、「糧(かて)」は確かに肉体を養ふための糧である、之を或人の云ふが如くに「上より降る霊のマナ」と解すべきでない、又「今日」といふ辞も其意味は明白である、故に祈祷の意味は「今日といふ今日此肉体を養ふための糧を我等に与へ給へ」と云ふことである、而して信者は何故に斯かる祈祷を毎日繰返さなくてはならない乎、彼は明日を知らざる今日限りの者であるからである、主は何時(いつ)来り給ふ乎判明(わから)ない、今日(けふ)か今日かと彼の来臨は待たるゝのである、斯かる心の状態に於て在る者は明日又は明年に対し肉の準備(そなへ)を為すの必要はないのである、信者は「今日と云ふ今日に必要なる肉の糧を与へ給へ」と祈りて日に日に主を俟望(まちのぞ)むのである、糧の要求ではない、慾の制限の要求である、「明日(あす)の事を思ひ煩ふ勿れ、明日は明日の事を思ひ煩へ、一日の苦労は一日にて足れり」とある主の教訓の実行の要求である、天空(そら)の鳥を養ひ給ふ天の父が其子を養ひ給ふは必然である、糧の与へられん為に父に祈るの必要はない、唯我等の糧の要求の今日以上に渉らざらんこと、是れ信者の特に祈るべき事である、此祈祷の意味を解せんと欲せば須(すべか)らく路加〔ルカ〕伝第二十一章第三十四節に記(しる)せるイエスが其の弟子等に与へ給ひし警誡の辞を参照すべきである、曰く「汝等自(みず)から心せよ、恐らくは飲食に耽(ふけ)り、世の煩労(わずらい)にまとはれて心鈍(にぶ)り、思ひがけなき時に、かの日(基督再臨の日)羂(わな)の如く来らん」と、而して此事あらんことを知るが故に信者は日に日に祈るべきである「願くは今日、今日丈けの糧を我等に与へ給へ」と、信者の陥(おちい)り易き危険は糧の与へられざらんことではない、明日又は明年又は子孫の事を思ひ煩ひて、世の煩労(わずらい)にまとはれて主再臨の日に於ける救拯(すくい)の好機を逸せん事である。
 
○我等に負債(おひめ)ある者を我等が免(ゆる)す如く我等の負債(おひめ)をも免(ゆる)し給へ是れ如何(いか)なる場合に在るも信者の為すべき祈祷(いのり)である、
然し乍ら前後の関係より見て是れ特に終末(おわり)の審判に備ふるための祈祷であることが判明(わか)る、其直ぐ後(あと)に「天に在〔いま〕す汝等の父も汝等の罪を免し給はん」、「免し給はざるべし」とありて孰(いず)れも未来動詞である、今免すは後免されん為である、今免さずば後に天使等の集議に干(あずか)らん、地獄の火に干るべし(五章廿二)、今兄弟と和(やわ)らがずば、後「訟(うつた)ふる者汝を審官(しらべやく)に附(わた)し、審官(しらべやく)また汝を下吏(いたやく)に附(わた)し、遂に汝は獄(ひとや)に入れられん」(五章廿五)、実際に人の罪を赦すの動機にして主再臨の希望の如く強き者はない、今日までに幾多の怨恨は此希望の起りしが故に取除かれたのである、今日の基督教会内に多くの不和怨恨の蟠(わだか)まりて解けざるは其内に此希望がないからである、論より証拠、基督再臨を霊的にのみ解釈し、其具体的実現を嘲ける者に敵を赦すの心乏しく、仇恨(きんこん)、争闘(そうとう)、妒忌(とき)、分争(ぶんそう)は彼等の間に絶えないのである。
○我等を試誘(こころみ)に遇(あわ)せず悪より拯出(すくひいだ)し給へ是れ甚だ解し難い祈祷(いのり)である、試誘(こころみ)は悪い事ではない、之に由て信者の信仰は益々堅(かた)められ且(か)つ高めらるゝのである、雅各(ヤコブ)書一章二節以下に言へるが如し、曰く「我が兄弟よ若(も)し汝等各様(さまざま)の試誘(こころみ)に遇(あわ)ば之を喜ぶべき事とすべし、そは汝等の受る信仰の試(こころ)みは汝等をして忍耐を生ぜしむるを知れば也云々」と、又曰く「忍びて試誘(こころみ)を受くる者は福(さいわい)なり、蓋(そは)試誘(こころみ)を善しとせらるゝ時は生命の冕(かんむり)を受くべければ也」と(同十二節)、然るに主は茲〔ここ〕に「我等を試誘に遇はし給ふ勿れ」と祈るべしと教へ給ふ、是れと彼れとの間に大なる矛盾が無くてはならない、而して其明白なる解釈は本誌前号に於て中田重治氏が『主再臨の光をもて見たる聖句』の中に示されし通りである、信者に遇ふべき試誘(こころみ)がある、而して又遇ふべからざる試誘がある、而して遇ふべからざる試誘は基督再臨の時に不信の世に臨まんとする試誘である、黙示録〔もくしろく〕三章十節に言へる「地に住む人を試みんが為に全世界に臨まんとする試煉」である、此試誘を遁(のが)るべき事に就てはイエス御自身が弟子等に告げて教へ給ふた、曰く「汝等警醒(つつし)みて此臨まんとする凡の事を避(のが)れ又人の子の前に立ち得るやう常に祈れ」と(路廿〔ルカ〕一の卅六)、而して「我等を試誘に遇せず」との祈りは此祈りに他(ほか)ならないのである、如斯〔かくのごと〕くにして再臨信者の祈祷としては此祈祷に深き意味がある、然れども再臨を信ぜざる者に取りては主の教へ給ひし此祈祷は解する甚だ困難(かた)い者である。○ 「悪より拯出(すくひいだ)し給へ」とある「悪」とは悪者であつて悪魔である、終末(おわり)の日に於て悪魔の誘惑の一層強烈になるが故にしか祈るの必要があるのである。
国と権(ちから)と栄は窮(かぎ)りなく爾(なんじ)の有なれば也 国は神の国であつて基督の再臨に由て地上に建設せらるゝ者、権は国を建立し又維持するの力、栄(さかえ)は万物を己れに服(したが)はせ得る権(ちから)を揮ひ給ふの結果として聖国(みくに)に顕はるゝ栄光である、是れ皆父の有(もの)であると云ふ、父ならでは為す能(あた)はず又有せざる者であるとの意である、父のみ国を建つるの能(ちから)を有し給ふ、故に此父に対(むか)ひて「爾国(みくに)を臨(きた)らせ給へ」と祈る、父のみ此国を治むるの権(ちから)を有し給ふ、故に此父に対〔むか〕ひて「爾旨(みこころ)の天に成る如く地にも成らせ給へ」と祈る、父にのみ窮りなき栄光存して彼れのみ能く我等をして其子の栄光の状(かたち)に象(かたど)らしめ給ふ、故に此父に対(むか)ひて我等を聖(きよ)め給へ、悪者より拯出(すくひいだ)して聖国(みくに)の民たるの栄光に与(あずか)らしめ給へと祈るのである、国と云ひ権と云ひ栄と云ひ皆政治的の言辞(ことば)である、人の子が再び天より降り来りて地上に建設し給ふ義の王国に適用するにあらざれば意味を成さゞる言辞(ことば)である。
○如斯くにして主の祈祷は再臨信者の祈祷として見て意味最も明瞭なる者である、単に之を霊的に解釈せんとして其或る部分は意味を作(なさ)ず、或る他の部分は意義甚だ微弱なる者となる、天国は近づけり、我等項(うなじ)を伸(のば)して之を俟望(まちのぞ)んで此祈祷は自(おの)づから我等の心より湧出(わきいず)るのである、主は勿論今時(いま)と雖も我等と偕(とも)に在(いま)し給ふ、然れども彼が再び顕はれ給ふ時に我等の歓楽(よろこび)は充たされ、其時外なる万物は内なる霊に和して信者の希望は完成(まつた)うせらるゝのである。
 
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