内村鑑三 マタイ伝 39講 悪の処分

39 マタイ伝
 
悪の処分
馬太伝六章三十四節より七章六節までの研究三月十五日今井館附属柏木聖書講堂に於て
大正3510日『聖書之研究』166  署名内村鑑三
一日の苦労
神が我等に賜ふ善に疆(かぎり)なきが如くに、亦(また)我等に臨む悪にも疆(かぎり)がない、肉に属(つ)ける悪がある、霊に属ける悪がある、自己(おの)が悪がある、他人(ひと)の悪がある、我等は神が何故に悪の存在を許し給ふか其理由を知らない、然し悪の実在することは確実(たしか)である、而〔しか〕してイエスの弟子は如何〔いか〕にして悪に対せん乎〔か〕、是れ彼が茲〔ここ〕に教へ給ふ所である。
身に属(つ)ける悪、我等は之を不幸(ふこう)と称(よ)び、凶事(きょうじ)と称び、災禍(わざわい)と称ぶ、貧困の如き、疾病の如き、事業の失敗の如き、肉体の死の如き、是れ皆な身に属ける悪である、我等は其の我等の身に臨(のぞ)まざらんことを希ふ、我等は之に遭遇(そうぐう)せんことを恐るゝが故に苦労するのである、悪は苦労の原因である、悪の襲来(しうらい)を恐るゝが故に我等は苦労するのである。
是故(このゆえ)にイエスは我等に教へて言ひ給ふたのである、
明日の事を憂慮(おもひわづら)ふ勿(なか)れ、明日は明日の事を憂慮(おもいわずら)へ、一日の苦労は一日にて足れりと(七〔六〕章三十四節)、茲に苦労と訳されたる辞(ことば)が余が謂ふ所の悪である、希臘〔ギリシヤ〕語のカキヤ(κακία)である、苦労の原因たる悪である、何人の身にも臨む不幸、艱難(かんなん)、災害(わざわい)等である、而してイエスは我等に告げて言ひ給ふのである、
汝等悪に就て多く思ふ勿れ、悪は前以(まえもって)て予防(よぼう)する能(あた)はず、過ぎにし悪は歎(なげ)くとも及ばず、日に日に臨む神の恩恵を享受(きょうじ)し、凶事は之を深く心に留むる勿れと、一言を以て之を言はん乎、汝等楽天的なれとの事である、而して斯〔か〕く教へ給ひしイエス御自身が甚〔はなは〕だ楽天的であり給ふたのである、彼は「世の罪を任(お)ふ神の羔(おひつじ)」であり、「悲哀(かなしみ)の人にして病患(やまい)を知」り給ひしと雖〔いえど〕も、而かも其短き一生を悲哀の中に過(すご)し給はなかつた、彼の言語(ことば)は詩歌(うた)であつた、彼の祈祷は感謝であつた、彼の無邪気(むじやき)なる、一日の労を終へ給へば、颶風(ぐふう)吹荒(ふきすさ)む波の上に漂(ただよ)ふ小舟の艄(とも)のかたに、枕(まくら)して寝ね給へりとの事である(馬可〔マルコ〕伝四章三七、三八節)、而已(のみ)ならず、彼が敵に附(わ)たさるゝ其(その)夜、恐るべき死は面前に迫(せま)り居りしにも拘(かか)はらず、彼は弟子等と逾越(すぎこし)の節筵(いわい)を共にし、諄々(じゆん〳〵)として彼等に教ふる所あり、彼等歌を謳(うた)ひてのち橄欖山(かんらんざん)に往けり
とありて、讃美歌を以て彼等の質素なる聖き筵(むしろ)を賑(にぎ)はしたる事が判明る(馬太〔マタイ〕伝廿六章三十節) 英雄の胸中閑日(きやうちうかんじつ)月ありと云ふも、イエスの如くに未来を知覚するの能力(ちから)を有(も)つ人にして、此場合に於ける此静謐(せいひつ)は我等の想ひ及ばざる所である、実に悲哀の人なりし彼は同時に又歓喜(よろこび)の人であつたのである、彼は能く悲痛を抑制(よくせい)するの途(みち)を知り給ふた、彼れ御自身が明日の事を憂慮(おもいわずら)ひ給はなかつた、彼は曾(かつ)て世に在りし最大の楽天家であつた。
何故に世に悪がある乎、又何故に神を信ずる者と雖も不幸患難を免(まぬ)がるゝ事が出来ないか、何故なる乎其理由は判明(わか)らない、然し信者と雖も人類普通の憂苦(わずらい)を免(まぬ)がるゝ事の出来ない事は確(たしか)である、茲に至つて我等は身の憂苦(わずらい)を軽く見る必要があるのである、免がるべからざる者は成るべく平易(へいい)に之を経過(けいか)するに若(し)くはない、無窮(むきゅう)の栄光に其希望を繋(とりつ)ぐイエスの弟子と雖も、亦悪を取扱(とりあつか)ふに此技術が必要である。
曾て米国の大説教家なるビーチヤーが言ふた事がある、
人は一事を為すに方〔あたつ〕て三度苦労する、為す前に失敗せずやと憂慮(おもひわづら)ひて苦労する、為すに方て労力消費のために苦労する、而して為して後に其結果如何にやと憂慮ひて苦労する、故に一事を為すに方(あたって)て苦労を三度重ぬるを以て恒(つね)とする、然れども余は唯(ただ)一回苦労するに過ぎない、余は為す時に苦労するに止(と)まり、其前にも後にも苦労しない、是(こ)れ余が普通の人よりも三倍の事業を為し得るの秘訣である。
と、実(まこと)に智慧の言辞(ことば)と称(い)せざるを得ない、イエスは曾て弟子等に教へて曰ひ給ふた、人、汝等を解(わた)さば如何(いか)に何を言はんと憂慮(おもいわずら)ふ勿れ、蓋(そは)其時汝等の言ふべき事は汝等に賜はるべければ也と(馬太伝十章十九節)、信者が神の為めに事を為すに方て世の所謂〔いわゆる〕「準備」なる者は要らないのである、「汝の齢(よわい)に応じて能力(ちから)は汝に加へらるべし」との事である、人生の苦労は免(まぬ)がる能はずと雖も余計の苦労は決して求むべきでない信仰は信頼を意味し信頼は時に応(かな)ふ能力(ちから)の供給を意味するのである、信者がさき苦労(くろう)を為し又後(あと)心配を為すは彼の信仰の足りない何よりも善き兆候(しるし)である。
 
塵埃(ちり)と梁木(うつばり)
 
悪は苦労の素因(もと)として身に現はれる、悪は又悪心として又は品性の欠点として他人(ひと)に現はれる悪が憂患(わずらい)として自己(おのれ)に臨まん乎、成るべく軽く之を受けて其苦痛(いたみ)を減ずべきである、短処(たんしょ)、性癖(せいへき)又は過失(かしつ)として他人にあらわれん乎、寛大以て之に処すべきである、他人の欠点を針小棒大に視〔み〕るは不信者の常(つね)である、信者は其反対に、自己の欠点は塵埃(ちり)の小なるも之を梁木(うつばり)の大に視、他人(ひと)の過失は梁木の大なるも之を塵埃の小に視るべきである、信者は自己を責むるに厳密にて他人を責むるに寛大であるべきである、自己を精査するに検微鏡の緻密(ちみつ)を以てし、他人を月旦(げつたん)するに望遠鏡を逆(さかしま)にしたる遠視眼を以てすべきである、此世に在りて悪は到底之を認めざるを得ない、然れども之を自己に認むるに於ては精密に、他人(ひと)に認むるに於ては疎漏(そろう)にすべきである、信者はパリサイの人に傚〔なら〕ひ孑孒(ぼうふら)を灑(こし)て駱駝を呑んではならない(馬太伝二十三章二十四節)、即ち、他人の過失とあれば孑孒(ぼうふら)の小をも灑(こ)さんとし、自己の罪科(とが)とあれば駱駝の大をも呑まんとする其偽善に傚ふてはならない、我等は他人を議する(審判
とがさば
)が如くに自己(みずから)も議せられ、他人を量るが如くに自己も量(はか)らるゝのである(馬太伝十八章廿三節以下「悪しき家来」の譬(たとへ)を参照せよ)
 
犬と豚
然し乍〔なが〕ら寛大にも極度があるのである、他人の悪事は之を軽視すべきも否認すべきではない、世には寛大に失して他人の悪事とあれば全然之を認めざる者がある、甚だしきに至ては其悪事が増長して神を嘲けり聖名〔みな〕を涜(けが)すも敢て問はざる信者がある、而して斯かる極端の寛大(若〔も〕し之を寛大と称し得べくれば)を誡めたるものが左の有名なる言である、
犬に聖物(きよきもの)を与ふる勿れ、又豚の前に汝等の真珠を投与(なげあた)ふる勿れ、恐らくは彼等足にて之を践み、振回(ふりかえ)りて汝等を噬(か)まんと(七章六節)、茲に謂ふ犬とは何であらふ乎、多分鄙俗(ひぞく)の中に沈淪(ちんりん)して聖物の何たる乎を弁(わきま)ふ能(あた)はざる不信者であらふ(馬太〔マタイ〕伝十五章廿六節参考)、然らば豚とは誰のことを言ふのであらふ乎、疑もなく堕落信者である。
彼等義の道を識りて尚ほその伝へられし所の聖き誡命(いましめ)を棄(すて)んよりは寧(むし)ろ義の道を識らざりしを善(よ)しとす、犬、帰来(かえりきた)りて其吐きたる者を食ひ、豚洗潔(あらいきよ)められて復(ま)た泥の中に臥すと云へる諺(ことわざ)は真(まこと)にして彼等に応(かな)へり、とある其堕落信者である(彼得〔ペテロ〕後書二章廿一、廿二節)、敬虔(けいけん)の念なき不信者、一たび救済(すくい)の恩恵(めぐみ)に与(あずか)りて惜気(おしげ)もなく之を投棄(なげすて)し堕落信者、即ち犬と豚、信者は之に対して如何なる態度に出ん乎、是れイエスが茲に教へ給ふ所
である。
エスは茲に不信者と交(まじ)はる勿れとは教へ給はない、又堕落信者なりとて之を窘迫(くる)しめよとは告げ給はない、
如何に凡俗(ぼんぞく)の不信者なりと雖も又如何に陋劣(ろうれつ)なる堕落信者なりと雖も、イエスの弟子たる者は之を愛し、其最善(ベスト)を計らなければならない、然し乍ら、茲処(ここ)にイエスの弟子たる者が「犬」と称すべき是等の不信者と「豚」と称すべき是等の堕落信者とに為してはならない事が一ツある、其れは神聖の何たる乎を知らざる不信者に聖(きよ)き真理を説く事と、一たび光明(ひかり)を得、天の賚賜(たまもの)を受けし後に神の子を再び十字架に釘(つ)けし堕落信者に、義と聖と贖(しょく)とに関(かか)はる福音の奥義を語る事と、其事は之を為す勿れとイエスは茲に禁(いまし)め給ふたのである、殊に慎むべきは「豚」である、「豚」に救済(すくい)の真珠を与ふるも彼等は之を斥(しりぞ)くるに止まらない、足にて之を践(ふ)み振回りて之を与へし者を噬(か)むのである、堕落信者が悪(にく)むものにして福音の真理の如きは無い、一たびは蜂の蜜の甘きに比(くら)べられし此真理は彼等の不信の故を以て今や茵蔯(いんちん)の苦(にが)きに化したのである、不信者の福音に対して無頓着なるに対して堕落信者は之を忌嫌ふのである、豚に真珠を投与ふるは無益であるのみならず危険である福音は彼等に由(より)て涜(けが)され、伝道者は彼等の辱(はず)かしむる所となるのである。
而〔しか〕して実際の事実は如何(どう)である乎といふに、信者にしてイエスの此(この)禁誡(いましめ)を守る者は至て尠いのである、伝道の責任を感じない者は措(おい)て問(と)はずとして、之を感ずる者は大抵は無差別的伝道を試むるのである、彼等は基督教は善き者であると思ふが故に、之れは何人(なんびと)に説いても善き者であると思ふのである、彼等は道を説くに人を択〔えら〕ばないのである、犬も豚も之を聞けば何時か其功徳(くどく)に与(あず)かるべしと信ずるのである、殊に一たび道を信じて教会に入りし者に再び不信者の名を被(き)せるに忍びず、其信仰其行為の明白(あきらか)に堕落を示すに関(かか)はらず、彼を称(よ)ぶに兄弟を以てし彼と交はるに聖徒の交際を以てし、彼と語るに福音の歓喜と希望を以てするのである、然し乍ら是れ彼の喜ばざる所、否(い)な、甚だ厭(いと)ふ所である彼は自己が斥けし福音の、辞(ことば)を卑(ひく)うして懇願的(こんがんてき)に彼に薦(すす)めらるゝを見て、福音に対して益々軽侮(けいぶ)の念を起し、自己の傲岸(ごうがん)を増すと同時に又益々深く不信の淵に沈むのである、彼に対する好意と寛大とは少しも彼を益する事なく、福音は是がために反(かへつて)て其威権(いけん)を傷(きずつ)けくれ、主の名は是がために涜(けが)さるに至るのである、豚の前に真珠を投与(なげあた)ふるは豚を益することなきと同時に又真珠をも害(そこな)ふのである、慎むべきは実に堕落信者の豚に貴き福音の真理を提供する事である。
 
人は何人をも愛すべきである、我等は又容易に人を犬と称(よ)び豚と称(よ)びてはならない、然(しか)し乍(なが)ら不信者の中に「犬」の有ること、信者と称せらるゝ者の中に「豚」と称して誤(あやま)らざる者の有ることは疑(うたが)ひなき事実である、而して伝道の熱心に駆られて人と「犬」とを区別せず、交友の情実に絆(ほだ)されて信者と「豚」とを判別せず、犬に聖物(きよきもの)を与へ、豚に真珠を投与へて、信者は反て神の聖名を涜(けが)し、福音の貴尊(とうとき)を傷けるのである、イエスは今日と雖も猶(な)ほ盛に思慮なき信者の間に行はるゝ所の思慮なき威権(いけん)なき無意義の伝道を禁(いまし)めんがために茲に此訓誡(くんかい)を給(たま)ふたのである
 
悪は無限である、我等は悪の世に遣(おく)られたのである、而して悪が身の不幸患難として臨む場合には成る可く軽く之を受け、一日の苦労は一日にて足れりとなし、歓喜の中に一生を送るべきである。
これくらうくわんきしやう
悪が他人の欠点又は過失として現(あら)はるゝ場合には寛大以て之に処し、自己を責むるに厳密にして他人を糺(ただ)すに寛容(ゆるやか)であるべきである。
然し乍ら、寛大にも極度がある、聖(せい)の観念なき者にイスラエルの聖者を紹介すべきでない、又一たび潔(きよ)められしも再び不信の泥に塗(まみ)るゝ堕落信者の豚に福音の真珠を投与ふべきでない、是れ主イエスの禁じ給ふ所である。
 
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