内村鑑三 マタイ伝20講

20マタイ伝 
山上の垂訓の読方( 高価なる基督教他)
  
信者に取りては神とは他(ほか)の者ではない、キリストである、天国とは他(ほか)の者ではない、キリストである、キリストを見た者は神を見たのである、神を識ること是れ永生である、而して神を識るとはキリストを識〔し〕ることである、世の罪のために十字架につけられしキリストが信者の神であつて又天国である、信者の最上の幸福は彼れキリストをおのが救主として仰ぎみることである、而して此心を以て山上の垂訓を読んで其意味が一層深く味はれるのである。
心のまずしき者は福(さいわ)ひなり、天国は即ち其人の有なれば也、即ち自己の衷に何の善きものを認めず、自己(うち)に何の頼(たよ)る所なく、又何の誇る所なく、心霊的にいやし難きものを感ずる者は福なり、キリストは即ち其人の有なれば也、彼はキリストを己が救主として有つことを得べければ也。
心の清き者は福ひなり、其人は神を見ることを得べければ也、即ち正直にして偽はらざる者、罪は罪として認め、不義は不義として告白し、直道(ちょくどう)を歩(あゆ)むを以て何よりも幸福なりと做〔な〕す者は福ひなり、其人はキリストに在りて神を見ることを得べければ也、自己の不浄を覚認するの結果、終〔つい〕に神の備へ給へし義また聖なるキリストを仰ぎみることを得べければ也。
平和(やわらぎ)を求むる者は福ひなり、其人は神の子と称(とな)へらるべければ也、神と離絶(りぜつ)せる罪の状態に在るに堪えずして彼と和らがんと欲して止まず、ヨブの如くに仲保者(きょうだい)の出現を絶叫して止まざる者は福ひなり、其人はキリストの弟妹(けうだい)となるを得て、彼と等しく神の子と称へらるべ
 
義のために責めらるゝ者は福ひなり、天国は即ち其の人の有なれば也、正道を践むが故に此世と此世の教会とに責めらるゝ者は福ひなり、殊に神の義たるキリストの聖名のために責めらるゝ者は福ひなり、キリストは益々固く其人の有となるべければ也、衷に己が心霊的空乏を感じて天国即ちキリストを己が有となすを得、斯くて得しキリストを信得するが故に外より世の責むる所となりて益々固く彼を己が有とすることが出来るのである。
 
キリストである、キリストである、キリストは信者の神である天国である、又信者の安慰、飽満(飽くこと)、富貴(地を嗣ぐこと)、矜恤とてキリストを除いて他の者ではないのである、聖書は特にキリストに就て記す書である、馬太(マタイ)伝五章とても勿論爾うである、我等は偶像信者や教会信者にならひ幸福の所在をキリスト以外に於て求めてはならない。