内村鑑三 マタイ伝 16講; 補講

16講 七福の解のための「馬太伝に現はれたる基督の再来」
 
(二月十日神田青年会館に於て) 大正7年310日『聖書之研究』212
署名内村鑑三述藤井武筆記
 
余はクリスチヤンとなりてより四十年後の今日程思想の充溢を覚えたる時はない、此頃自分乍〔なが〕ら何やら若返(わかがへ)りしやうに感ずるのである、従来此処彼処(こゝかしこ)部分的に余の心中にありし聖書が今や全部自己の有(もの)となつて其何れの頁
(ページ)を繙(ひもと)くも限なき感興を惹(ひ)き起すのである、されば茲(ここ)に其一例を語りて以て余が最近の心的状態と問題の性質とを明かにせんと欲する。
 
昨日は珍しき好天気であつた、厳冬去つて春既〔すで〕に来るの感があつた、余は一日の休養を欲して久振りに市へ出た、市は余に取ては何の用あるなし、唯〔た〕だ書店を要するのみ、此日も余は例の如く一書店に入りて何か近頃の問題に関係ある良書はなき乎〔か〕と漁(あさ)つて見た、而〔しか〕して偶々〔たまたま〕米国の学者A・M・ラム氏の小著『微光、一名再来の徴候』と題する書を手に入れた、著者に何等学位其他の肩書を冠せざるより推して多分良著ならんと想像したのである、次に余は茲を去つて更に他の一書店に立ち寄つた、主人の応接を待つ間の小閑を偸〔ぬす〕み余は店頭にある古き英国百科辞典の一冊を抜いて基督再来論の一章を繙読〔はんどく〕した筆者は有名なる教会歴史の大家A・ハーナツクである、ハーナツク自身の信仰は人も知る如く正統的(オルソドツクス)ではない、然し乍ら彼は世界第一流の学者である、而して信頼すべきは彼の如き一流の学者である、彼等は自己の信仰の故を以て真理を蔽はない、彼等は其深邃なる研究の結果自己の信仰如何〔いかん〕に論〔また〕なく真理は真理として之を明白に提唱するのである、ハーナツク亦然りである彼は短き四頁の中に最高の学者的権威を以て断じて言ふ「再来は基督教の根本教義たり、再来思想なくして基督教は起らず、一切の教義は之に関聯す、然るに今日迄此信仰の棄てゝ顧みられざりしは教会の俗化したるが故のみ、再来の信仰の衰微する時は即ち教会の腐敗したる時にして前者の熱烈なる時は即〔すなわ〕ち後者の健全なる時なり」と、而して最後に又繰返して曰〔い〕ふ「福音と再来との間には密接不離の関係あり」と、斯学〔しがく〕の権威ハ氏の此言は蓋〔けだ〕し神学者教役者
等の必読すべき文字であらう。
余は更に歩を転じて上野公園に向つた、時未〔いま〕だ花季ならざれば俗物の蝟集(ゐしう)見るなく満園静寂にして風光絶佳であつた、多くの過去が余の脳底に浮び出でた、彼処(かしこ)に友と共に祈りし杜(もり)あり此処(ここ)に進化論を闘はしたる丘あ
り、余は暫〔しば〕し青年時代に立ち帰つた、かくて余の足は自ら動物園の前に出でた、乃〔すなわ〕ち自身大なる小児となりし積りにて入りて諸動物を観察した、豹は其幼児を抱きて臥し兎は餌を食んで戯る、熊あり狐あり狸あり、余は深き興味を以て彼等を観た、而して帰途には鴬谷停車場に一人の教友を訪ね彼が為しつゝある良き伝道の消息を聞
いて喜んだ。
この動物園の逍遥〔しようよう〕は余をして以賽亜〔イザヤ〕書の大預言を想ひ起さゞるを得ざらしめた、「狼は小羊と共に宿り、豹は小山羊と共に臥し、犢牡獅肥えたる家畜共に居りて小き童子に導かれ、牝牛と熊とは食物を共にし、熊の子と牛の子と共に臥し、獅は牛の如く藁を食ひ、乳児は毒蛇の洞に戯れ、乳離れの児は手を蝮の穴に入れん、かくて我
が聖き山の何処にても害ふ事なく傷る事なからん、そは水の海を蔽へる如くヱホバを知るの知識地に充つばなり」と(十一の六―九)、こは果して文字通に解すべきである乎或は一個の美はしき譬喩〔ひゆ〕に過ぎざる乎、余は試に碩学(せきがく)の此事に関する説明を聞かんと欲して家に帰りて余の書斎に存する多くの註解書を披見した、其第一はオツクスフオード大学教授チーネの註解である、彼の研究は今は稍古(ややふる)しと雖(いえど)も彼は疑ひもなく今猶〔な〕ほ信頼すべき権威である、彼も亦自〔みずか〕ら正統派の信仰を有せざるに拘〔かかわ〕らず此事に関する多数の学者の所説を列挙し就中〔なかんずく〕独逸〔ドイツ〕の旧約聖書学者ネーゲルバツハが之を文字通りに解せざるべからずと做〔な〕せる説を紹介して而して曰〔いわ〕く「余の説も亦然り!」と、次はフランツ・デリツチである、彼の名は若きデリツチのそれと共に父子相並んで学界に喧伝せらる、彼には深き信仰あり温き愛あり而して豊なる常識あり、其研究亦新式ならずと雖も該博なる原語の引証に由て単純なる福音を教ふ、而して彼も亦曰ふ「之を文字通りに解すべし」と。
チーネ、デリツチ等の如き権威者の解釈にして斯〔かく〕の如しとせば我等は深く考へなければならない、勿論今の動物学者は之を聞いて笑うて曰ふであらう、「愚なる哉〔かな〕、此〔かく〕の如きは動物の構造の許さゞる所である」と、果して然る乎、現代の大哲学者ベルグソンの教ふる処に由れば生命は無限に変化し進化するといふではない乎、生命の発
展何処に至る乎之〔いずこ〕を予想する能〔あた〕はず人は人以上の者となり宇宙は漸次〔ぜんじ〕霊化すべしとは彼の主張ではない乎、されば進化の終極に於て以賽亜イザヤ書の預言の文字通に実現すべき事も亦学者の立場より見て之を斥〔しりぞ〕くる事が出来ないのである、知るべし、基督再来の一笑に附すべき迷信的教義にあらざることを、碩学の其真理を認むるあり、我等は敬虔の態度を以て其研究に当るべきである。
若〔も〕し聖書中に何か一つ其の最も頻〔ひんぱん〕繁に語る所の真理ありとせばそは基督の再来である、新約聖書中直接に又間接に再来に言及する所実に四百八十箇所の多きに及ぶと云ふ、故に新約聖書が何物かを我等に教ふるならば即ち此事を教ふるのである、然るに多くのクリスチヤンは聖書を貴ぶと称し乍ら之を読まない、彼等は屡〔しばしば〕聖書中の一句を捉〔とら〕へ以て重大なる問題の解決に供せむとする、天主教徒が使徒ペテロに基づく教会の権威を主張するの根拠は一に馬太〔マタイ〕伝十六章十八節に在るのである、果して然らば聖書中之を繰返す事四百八十回にして或る所にては両三章引続き之を論ずるが如き大問題を如何〔いか〕にして看却〔かんきやく〕し去る事が出来る乎、若し之をしも信ぜずといふならば須らく聖書を棄つべきである、聖書を薦むるは再来の真理を薦むるのである、故に再来の真理を厭ふ者は聖書をすべか抛つに如かず、而して聖書抜きのクリスチヤンと成るに如かないのである。
馬太伝はキリストの語を知るに最も確実なる資料である、此書が新約聖書の劈頭(へきとう)に置かれたるは感謝すべき事である、ルナン曰く「古来人類を感化したる書にして馬太伝の如きものあるなし」と、而して此馬太伝中明白に再来を説くの語のみを挙ぐるも尚〔な〕ほ次の如きものがあるのである、我誠に汝等に告げん、汝等イスラエルの村々を廻り尽さゞる間に人の子は来るべし(十の廿三) 人もし全世界を得るとも云々……それ人の子は父の栄光を以て其使たちと共に来らん、其時各自の行に由て報ゆべし (十六の廿七)〔二六、二七〕変貌の記事(十七章) 是れ再来の前兆と見て初めて能く解釈し得る事実である、クリソストムの如きは斯く解〔か〕したのである。
我まことに汝等に告げん、我に従へる汝等は世改まり人の子栄光の位に坐する時汝等も十二の位に坐してイスラエルの十二の支派をさばくべし(十九の廿八)若しそれ廿四、廿五の両章の如きは「汝の来る兆と世の末の兆(しりし)はいかなるぞや」との問題に対しキリストの答へ給ひしものであつて即ち全然再来の問題である、もし此処〔ここ〕に再来なしといはゞ何と言ひて之を弁護し得べき乎、其時人の子の兆天に現はる、又地上にある諸族はなげき哀み且つ人の子の権威と大なる栄光をもて天の雲に乗り来るを見ん(廿四の三十)
十人の童女の喩(廿五の一―十三)
千銀の喩(同十四―卅)
人の子己れの栄光をもて諸々の聖使を率ゐて来る時はその栄光の位に坐し云々(廿五の卅一)
而〔しか〕して特に注意すべきは廿六章六十一〔六四〕節であるイエス此時祭司の前に引出され種々なる妄(いつはり)の証(あかし)を立てらるゝとも黙然として答へず、最後に祭司の長〔おさ〕立ちて「汝キリスト神の子なるか、我汝を活ける神に誓はせて之を告
げしめん」と曰ひたるに対し答へて曰ひ給はく汝が言へる如し、且〔かつ〕我れ汝等に告げん、此後人の子の大権の右に坐し天の雲に乗りて来るを汝等見るべしと、而して言此処に至るや祭司の長其の衣〔ころも〕を裂き「此人は褻涜(さけがし)の事を言へり、何ぞ外に証拠を求めんや」と叫びて直〔ただち〕に彼を死に定めたのである、知るべしイエスの死を決定したるものは実に此一語に在りし事を、されば此事たるイエスに取ては彼の生命を賭したる最大問題であつたのである、人其の生命を賭〔と〕するの問題より重大なるものなし、再来はイエスの死を以て守りたる真理中の大真理であつた。
人或は曰ふ純粋なる基督教は山上之垂訓に在り彼処(かしこ)に教義あるなく奇跡あるなしと、故に基督教を最も簡単に伝へんと欲する時常に選ばるゝものは山上之垂訓である、而して此山上之垂訓にのみは再来思想を含まずと言ふ、果して然る乎、「天国に於て至微(いとちいさ)き者と謂はれん……天国に於て大なる者……天国に入る事能〔あた〕はじ」といひ「審判(さばき)に干(あづか)らん、集議に干らん、地獄の火に干らん」といひ、「隠れたるに鑒(しふぎ)給ふ汝の父は明顕に報ゐ給ふべし」といひ、
「我を呼びて主よ主よといふ者尽〔ことごと〕く天国に入るに非ず云々」といふが如きは是れ再来の思想に非ずして何である乎、然らば山上之垂訓も亦此思想を以て充ち満つるものと謂はざるを得ない。
而して其最初の所謂〔いわゆる〕「美訓」も亦然りである、「美訓」は純道徳であるといふ、然し乍ら注意すべきは聖書に於ける道徳の教訓は大抵再来の思想と関聯して説かれてある事である、「心の貧しき者は福(さいはい)なり」、之れ純道徳である、然し之れ丈ではない、何故に福である乎、曰く「天国は其人のものなればなり」、此の理由より離(はな)して彼の道徳を解する事が出来ないのである、「哀む者は福なり」、何故?「其人は安慰(なぐさめ)を得べければなり」、此世に於てに非ず哀む者は此世に於て十分なる安慰(なぐさめ)を得る事が出来ない、天国に於て初めて全〔まつた〕き安慰を得るのである、「柔和な
る者は福なり」、何故? 「其人は地を嗣(つ)ぐ事を得べければなり」、然り我等の踏める此の堅き地である、此地が時至らば獰猛(どうもう)なる者の手より移されて柔和なる者に与へらるゝといふのである、以賽亜〔イザヤ〕書十一章の文字通りに実現する日が即ち其時である「饑渇(うゑかは)く如く義を慕ふ者は福なり」何故?「其人は飽く事を得べければなり」、亦此世に於てに非ず、彼国に入りてゞある、「矜恤(あわれみ)ある者は福なり」、何故?「其人は矜恤を得べければなり」、矜恤とは雅各〔ヤコブ〕書二章十三節に所謂「審判(さば)かるゝ時亦憐まる云々」の意味であつて聖書中の術語の一である、「心の清き者は福なり」、何故?「其人は神を見る事を得べければなり」、見神とは漠然たる精神的経験の謂〔いい〕ではない、其事の何たるかは黙示録〔もくしろく〕最後の二章に徴して明白である、「和平(やわらぎ)を求むる者は福なり」、何故?「其人は神の子と称(とな)へらるべければなり」、単に良きクリスチヤンとなるの謂に非ず、神の子の栄誉を荷(にな)はせらるゝのである、其栄光の冠を被せらるゝのである、而して最後に「義しき事の為に責めらるゝ者は福なり」といひて又「天国は即ち其人の有なればなり」と繰返して居る、聖書は希伯来(ヒブライ)人の筆に成りしものなれば亦之を希伯来(ひぶらい)思想を以て読まなければならない、而して希伯来(ひぶらい)の文章に於て聯語(パラレリズム)は其特徴である、又七なる数は神の数にして完全を示すのである、美訓は通常之を九福と称するも良き聖書学者は是れ亦七福にして而も一思想を聯語を以て反覆したるものなりと説明する、九福の第九は「汝等云々」と其人称を異にするを以て之を他と離すを可とすべく又其第八の後半は明白、、
に第一の繰返しである、故に「心の貧しき者」以下「和平を求むる者」に至る迄を以て七福と解するに如〔し〕くはない、而して此七段は同一思想の敷衍(ふえん)である、即ち何〔いず〕れも其前半に於てクリスチヤンの何たる乎を定義し其後半に於て天国の定義を与ふ、美訓畢竟信者と天国との関係を教ふるものに外ならないのである。而して馬太伝に於て
「天国」と「神の国」とは判然区別せらる、前者は卅二回後者は四回用ゐらるゝも其意義は全く異なる、「神の国」と言へば唯〔ただ〕に天国のみならず心の状態も亦其中に含まるゝのである、
 
神の国と其義きとを求めよ(六の卅三) たゞし若し我れ神の霊に由りて鬼を逐出しゝならば神の国はもはや汝等に至れり(十二の廿八)
 
富者は天国に入る事難し又汝等に告げん、富者の神の国に入るよりは駱駝〔らくだ〕の針(はり)の孔(め)を通るは却〔かえつ〕て易し(十九の廿四)〔二三、二四〕
是故に我れ汝等に告げん、神の国を汝等より奪ひ其果(み)を結ぶ民に予へらるべし(廿一の四三)
是れ皆な路加〔ルカ〕伝に「神の国は顕はれて来るものに非ず……夫〔そ〕れ神の国は汝等の衷〔うち〕に在り」(十七の廿一)と言へると同様に解すべきである、然るに「天国」とは是〔かく〕の如き霊的状態に非ず、希臘〔ギリシア〕語に於て天国とは長き語にし
て「幾多の天の国」を意味す、而して其起源は但以理〔ダニエル〕書七章十三節〔一三、一四〕の「人の子の如き者雲に乗りて来り……之に権(ちから)と栄(さかえ)と国とを賜ひて云々」に在るのである(万国批評的註解中アレン氏馬太伝註釈参照)、天国は即ち人の子、雲に乗りて来る時に実現すべき其具体的の国である、「天国は其人の有なれば也」とあるは斯かる国の事を謂ふのである。
故に聖書は始より地的天国の実現を教ふるのである、是れ解するに難き真理なりと雖も亦人心の最も深刻なる要求に応ずるの真理である、見よ美(うる)はしき此地は悉く〔ことごと〕利己心の化体たる富豪等の手に帰して心の貧しき者哀む者柔和なる者は生涯寸地を獲る能はず、若し世が此儘〔このまま〕にて終るべくば義者の悲憤此上なしである、然れどもイエスは其弟子等に曰ひ給ふのである「忍び待て時到らば我再び来らん、人の手に藉(よ)らず万物を己れに服(したが)はせ得る能(ちか)力を有てる我れ……我れ万物を一変し新天新地を実現して之を義者に与へん」と、実に斯くあれかしである、斯くてこそ我等の心に感謝が充つるのである。
饑渇(うえかわ)く如く義を慕ふ者、矜恤(あわれみ)ある者、心の清き者は此世に於て蹂躙(ふみにじ)らる、平和を求むる者は決して此世に於て神の子と称へられない、然し乍ら来るべき天国に於て彼等は必ず神の子たるの冠を戴き其栄光と権利とに与(あずか)る事が出来るのである。
 
(別稿『七福の解』参照)