内村鑑三 マタイ伝 34講 金の価値

34 マタイ伝
 
金の価値
昭和21210日『聖書之研究』329  署名内村鑑三
馬太〔マタイ〕伝六章一九―二一節○路加〔ルカ〕伝十六章一―九節○同十二章十三節以下
 
○金は決して無価値のものでない。金銭の無価値を唱ふる人に対しフランクリンの曰〔い〕うた言〔ことば〕は有名である
往〔ゆ〕いて之を稼(かせ)いで御覧なさいと。
金銭は之を稼いで取つて見て其価値が判明〔わか〕るのである。此は勤労の汗の結晶である。正直なる労働に報ゆる天の賜物である。之を浪費してはならない。軽んじてはならない。我国に於〔おい〕ても二宮金次郎の如〔ごと〕き、佐藤信淵の如きは金銭の真の価値を知つた人達であつて彼等に由て日本人全体がどれ程教へられた乎〔か〕は人の能〔よ〕く知る所である。
○金は之を人生の至上善と見る時に其無価値が認めらる。金は比較的に貴いのであつて絶対的に貴いのでない。
或る場合に於て必要欠くべからざる者であつて他の場合に於て何の用もなき者である。我等は金に全然何の価値なき多くの場合を知つてゐる。難船に遭(ただよ)ふて洋上に漂ふ場合に、一片のパンは千斤の金よりも貴くある。北極圏内のエスキモ人の内に住んで金は装飾品としての外何の価値もない。金は如何〔いか〕なる時にも、如何なる場合にも貴
いものではない。そして人は死に臨んで金は何の力にもならない。富者は貧者の如くに死なねばならぬ。金の価値は比較的であると同時に暫時的である。世に憐れなるものとて富者の死の床の如きものはない。富者たるは唯〔ただ〕つかの間である。百年足らずして百万長者も乞食〔こじき〕同様に死なねばならぬ。
○そして万事万物を永遠の立場より評価し給ひしイエスは富の真価を我等に教へ給うたのである。「我等の日用の糧(かて)を今日も与へ給へ」と祈り給ひし彼は金銭を無用視し給はなかつたのである。
 
蠧(しみ)くひ銹(さび)くさり盗人(ぬすびと)穿(うが)ちて窃む所の地に財を蓄ふること勿〔なか〕れ、蠧くひ銹くさり盗人穿(うが)ちて窃(ぬす)まざる所の天に財を蓄ふべし、そは汝等〔なんじら〕の財の在る所に心も亦〔また〕在るべければ也(馬太伝六章一九―二〇〔二一〕節)
此は財を軽んじた言でない、地を軽んじた言である。財は之を地に積まずして天に積むべしと云ふのである
故に其意味は後に研究せんとする路加伝十六章九節と同じである。「此不安極まる地に大事(だいじ)の財を蓄ふる勿れ」、又は「不義の為に濫用され易き財を以つて永遠の宅(すまい)に於て友を得よ」と云〔い〕ふのである。「此の二つの場合に於て財は決して悪いものでない。寧〔むし〕ろ貴いものである、貴いものを適当に使用せよ」と云ふのである。イエスは多くの人が思ふ如くに富を賎しめ給はなかつた。彼は人は貧ならざれば天国に入る能〔あた〕はずとは教へ給はなかつた。聖フランシスの聖貧主義は決してイエスの主義ではなかつた。基督教が他の宗教と異なる点はまた此に在つた。高遠なる大慈善が基督教国に起つたは故なきに非〔しか〕ずである。
○然し乍〔なが〕らイエスは富を至上善とは認め給はなかつた。彼が富める一青年に教へ給ひし例が其事を示す。「汝の所有(もちもの)を売りて貧者に施すべし、然〔さ〕らば天に於て財あらん」と彼は教へ給うた(馬可〔マルコ〕伝十章廿一節)。又「汝等貧者は福(さいは)ひなる哉(かな)」と云ひ、「汝等富者は禍(わざは)ひなる哉」と云ひ給へるが如き、之に由つて彼の富に関する御意見を窺〔うかが〕ふ事が出来る(路加伝六章廿、廿四節)。同じ御意見を路加伝十二章十三節以下に於ける、財産分配につき彼の助言を求めし人に対し彼が教へ給へる言に由て知ることが出来る。
戒心(こころ)して貪心(たんしん)を慎めよ、夫〔そ〕れ人の生命は所有〔もちもの〕の豊かなるに因らざる也。
無智なる者よ、今夜汝が霊魂取らるゝこと有るべし然らば汝の備へし物は誰が有(もの)になる乎〔や〕。
財のつまらなき物たること如此〔かくのごと〕し。一生涯を蓄財の為に費して、無一物となりて逝〔ゆ〕く、そして其財は他人の有となると珍らしき事に非ずと雖〔いえど〕も、其教訓を覚る者の尠〔すくな〕きは不思議である。
○永遠的に見て価値無き財も使用法如何に由て之を価値あるものと為す事が出来るとは、亦イエスの教へ給ふ所である。其事を明に教へ給ひしは路加伝十六章に於ける不義の番頭の譬話(たとへばなし)である。彼番頭は主人の財を使用して解雇の後に己が身を処するの途〔みち〕を計つた。其如く信者は此世の財を用ゐて永遠の宅(すまい)に入るの途を講ずべしとの事であつた。短く言へば、財を己れの為に用ゐずして他人の為に用ゐて天国に於いて友人を作るべしと云ふのである。教は至つて簡短であつて、簡短なる丈〔だ〕けそれ丈〔だ〕け其意味が深遠である。地に蓄ふれば地と共に銹(さ)び、又窃(ぬす)ま
れ易き此世の財も、天に蓄ふれば、天と共に銹びず又朽(くち)ずと云ふのである。財は全然之を己が為に用ゐざる訳(わけ)には行かずと雖も、己が為に用ゐし分は其儘〔そのまま〕にて効力を失ふ。然れども愛を以つて之を他人の為に用ゐて其効果は永遠に失せずと云ふのである。誠に貴い教訓である。簡短明瞭なりと雖も人が滅多に実行せざる教訓である。然れども実行せし者は凡〔すべ〕て其の大真理なるを知る。イエスの此忠告を納れて財を用ゐし者は凡て彼に感謝して止〔や〕まない。
○最も慧(かしこ)く財を用ゐし人は誰である乎。之を自己と自己の子孫との為に蓄へし者である乎。「然らず」と何人も答へざるを得ない。我等は近頃の財界大動揺に由り、多くの著るしき実例を示された。身を貧困に起して一代の富豪と成り、其身一代は僅〔わずか〕に驕奢(きょうしゃ)の内に終るを得しと雖も、其子は既に無一物の窮境に陥ゐりし者を目撃せしめられた。西郷隆盛は子孫の為に美田を買はずと曰ひしが、其反対に原又原、山又山の美田を買ひし者が、其子の時代に於て、之を全部他人の手に渡さゞるを得ざるに至りし実例を示された。イエスは斯〔か〕かる者を「無智なる者よ」と称び給うた。世人全体が彼等に先見の明あるを誉めつゝありし間に、イエスは彼等の浅慮無謀を憐み給うた。之に反し財を他人の為に用ゐて之を永遠に保存した例は尠くない。大阪の富豪岩本某が当時百万円を市に寄附して公会堂の建築を計画し、未だ竣工せざる間に自身は破産して自殺を遂げた。然るに会堂は立派に出来上り彼の罪は忘れられて其功は大阪市と共に存る。彼が若し僅少の生活費を除くの外は、全部之を他人の為に供(のこ)したならば、彼の全財産は保存せられ、自身は自殺せずして済んだであらう。そして世の大慈善家と称せらるゝ人達は能く此理を解して最も慧(かしこ)く其財を用ゐた人達である。慈善家と称して特別の善人でない、財を最も合理的に用ゐた人達である。其点に於てジヨージ・ピーボデーや、スチーブン・ジラードは最も慧(かしこ)い実業家であつた。彼等は其全財産を他人に与へて、財産と共に彼等の霊魂を永遠に保存した。
○富と云ひ財産と云ひて慈善は之を富者に限る事と思ふてはならない。百万円も富であれば一円も富であるそして一円の金も之を自分の為に用ゐれば、それで効力を失ひ、他人の為に用ゐれば其効力を永遠に保存する。此は神の定めし法則であつて、富の大小に由て変らない。カーライルが嘗〔かつ〕て貧困の時代に於て、彼が著述に従事しつゝありし間に、一人の乞食の彼の窓下に立つ者あるを見て、筆立の内に仕舞ひ置きし大事の五十銭銀貨を与へ、言ふべからざる快感を覚えたりとて、後年再び斯かる快感を得たしとて歎げいた事がある。大富豪が百万円を与へて得し愉快を、貧者は五十銭を与へて得る事が出来る。勿論慈善は考へずしてやたらに為〔な〕すべき事でない。然(しか)れども自己の為に計るが如くに他人の為に計り、能く彼等の為に用ゐて、我等は永遠の満足を之に由て得る事が
出来る。慈善を義務と見るが間違である。義務に非ず、最大の快楽最上の智慧である。
 
 
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天国への入り口?