内村鑑三 創世記 虹の意味

虹の意味
大正11910  『聖書之研究』266    署名内村鑑三
 
神言ひ給ひけるは、我が我と汝等〔なんじら〕及び汝等〔なんじら〕と共なるすべての生物との間に世々限りなく為〔な〕す所の契約の徴(しるし)は是なり、我れ我が虹を雲の中に起さん、是れ我と世との間の契約の徴(しるし)なるべし、即ち我れ雲を地の上に起す時、虹、雲の中に現はるべし、我れ乃〔すなわ〕ち我と汝等及びすべて肉なるすべての生物の間の我が契約を念(おも)はん、水再びすべての肉なる者を滅す洪水とならじ、虹雲の中にあらん、我れ之を観〔み〕て神と地に在るすべて肉なる者との間なる永遠の契約を念はん、神ノアに言ひ給ひけるは、是は我が我れと地にあるすべての肉なる者との間に立たる契約の徴(しるし)なり(創世記九章十二―十七節)
 
○神の造り給ひし万物に尽〔ことごと〕く意義がある、夏の雲に現はるる美しき虹にも亦〔また〕深い意義がある、雲は単に蒸発気の凝結したる者でない、虹はまた単に太陽の光線が水の細胞に当つて七色に分析されたる者でない、理学的の雲と虹とは心霊的の或る者を示す、其の何たる乎〔か〕は此所〔ここ〕に引用せる聖書の言の示す所である。
 
○雲は雨の貯蔵所である、その破裂して雨水を注出(そそぎいだ)すや、地上に洪水起る、水は患難を意味す、「汝の大滝の響きによりて淵々(ふち〴〵)呼び応(こた)へ、汝の波、汝の猛浪(おほなみ)悉〔ことごと〕く我が上を越えゆけり」とあるは大患難の襲ひ来りて我身を飲まんとする状(さま)を言表はせし言葉である(詩篇四十二篇七節)、「人は水と霊とに由りて生れざれば神の国に入ること能〔あた〕はざる也」とのイエスの言は「人は患難と聖霊とに由つて生れざれば神の国に入ること能はず」と解すべきであると思ふ(約翰〔ヨハネ〕伝三章七節)、水は患難、雲は其発源地「それ我等の先祖は皆な雲の下に在り、皆な海を過(とほ)り、皆な雲と海とにてバプテスマを受けてモーセに属(つ)けり」とのパウロの言は深い実験を語るものである(哥林多〔コリント〕前書十章一、二節)
 
○太陽の光線が雲に当りて虹が起る、神の光輝(かがやき)が人の患難を照らして恩恵生ず、光線其物は無色透明、眼は其光輝に堪へず、身は其熱に焼尽(やきつく)さる、神の光輝も亦同じ、人は直〔ただち〕之を仰いで其前に立つ能はず、タルソのパウロ、己が義を頼みて他を迫害し、ダマスコ途上直に神の光輝に接するや、「我れ天より光あるを見たり、日よりも輝(かがや)きて我れ及び共に行ける者を環(めぐ)り照せり、我等皆な地に仆〔たお〕る」とある( 行伝〔ぎようでん〕六章十三、十四節)、「誰か此の聖〔きよ〕き神なるヱホバの前に立つことを得ん」である(サムエル前書六章廿節)、我等は肉眼を以て太陽を見る能はざるが如〔ごと〕くに、亦霊眼を以てして聖き神なるヱホバを仰ぎ奉ること能はず、日光が雲に当り、其反射分解する所となり、美くしき天の懸橋(かけはし)となりて現はるる時に、人は之と相対して其美を讃へ、其色を賞(めず)るが如くに、ヱホバの光輝(かがやき)も亦人の患難に触れ、其涙の雫(しずく)に当り、憐愍(れんみん)恩愛(おんあい)の虹として現はるる時に、罪人も之を仰ぐを得て、其和照(あたたまり)に傷(いた)める霊を癒すのである。
 
○虹は神が罪に悩める人を救ひ給ふとの契約の徴(しるし)である、洪水は歇(や)み、罪は洗はれ、ノアはヱホバの為に壇を築きて燔祭〔はんさい〕を其上に献げた、ヱホバ之を受納し給ひて虹を雲の中に起して洪水を以て再び地上の諸生を滅(ほろぼ)さゞるべ
しとの契約の徴(しるし)となし給ふた、神、人、生贄(いけにえ)、雲、虹と云ふ、殊にヱホバ其馨(こうば)しき香を嚊(か)ぎ給ひて、我れ再び人の故に因(よ)りて地を詛〔のろ〕ふことをせずと言ひ給ひしと言ふ、言葉は人類幼稚時代のそれであつて、神人同性説の迷信を免れずと雖〔いえど〕も、其内に深い心霊的真理が籠〔こも〕つて居る、罪は苦難(くるしみ)を招き、苦難に由て罪を知る、而〔しか〕して我れ罪の挽回(なだめ)の生贄(いけにえ)を以て神に近づけば、神は赦免(ゆるし)の恩恵を以て苦難の中に現はれ給ひて、再び同一の苦難を以て我を罰せじと誓ひ給ふ、事は人の宗教的実験に属することであつて、其内に少しも不思議はないのである。
 
○而して基督者(クリスチャン)の場合に於ては生贄(いけにえ)は神の備へ給ひし羔(こひつじ)イエスである、彼は我等の挽回(なだめ)の供物(そなへもの)である、我れ彼
に由りて改悔の涙を以て神に近づけば、神は彼の故に我を赦〔ゆる〕し、罪と罪の結果なる苦難(くるしみ)を聖(きよ)め、恩恵の光を以て我を照し給ふ、故に云ふ、罪人は直に神の聖顔(みかお)を仰ぐ能はず、「イエスキリストの面(かお)に輝く栄光」を見て喜ぶのであると(哥林多後四の六)、「それ我等の神は焼尽(やきつく)す火なり」とあるが、イエスキリストの面に輝く其栄光は罪を赦し、疾病(やまひ)を癒す慈光(めぐみのひかり)である、即ち虹である、見るに美(うる)はしき、仰ぐに快き七色の虹である。
 
○此事を知りて黙示録〔もくしろく〕四章二、三節の意味が解る、曰〔いわ〕く「我れ天に一の宝座(くらひ)設けありて其上に坐する者あるを見たり、其の顔は金剛石、赤瑪瑙(めのう)の如く、且つ其の宝座の四囲(まわり)に緑(みどり)の玉の如き虹あり」と、天に在(いま)して罪人の為に執(とり)成し給ふ羔は其の宝座の四囲(まわり)に虹を纏(まと)ひ給ふと言ふ、単に栄光の徴(しるし)として後光が指すと云ふに非ず、虹が輝くと云ふ、羔(こひつじ)の放つ光は緑の玉の如き虹である、仰ぎ見て美しく、望み瞻(み)て慕はしくある、「また城(聖城(きよきまち)なる新しきヱルサレム)に日月の照らす事を需(もと)めず、そは神の栄光之を照らし且(かつ)羔城の燈(ともしび)なれば也」とある(廿一章廿三節)神の国は彼の栄光の光輝(かがやき)なる羔(こひつじ)イエスの照らす所であると云ふ、即ち虹の王国である、悔改めたる罪人の為に備へられたる慈光(めぐみのひかり)の光り渡る国である。(今年夏虹多き浅間山麓に於て述べし所)