内村鑑三 マタイ伝11講その2

11講 王の誕生 その2
大正3年1210日 『聖書之研究』173号 署名内村鑑三
馬太(マタイ)伝二章一―十二節
 

博士等夢に「ヘロデに還る勿れ」との黙示(つげ)に接しければ他(ほか)の道より其国に帰れりとある、神命、王命よりも重しである、真理は伝説よりも貴(とうと)しである、博士等は嬰児イエスに於て真(まこと)の王を認(みと)めたれば、王の安全を計らんがために偽(いつわり)の王に復命しなかつた。

 
○而して今も尚ほ多くの場合に於て科学者は宗教家よりも真理の唱道に於て遥(はるか)に勇敢である、宗教家の教会の権威を恐れて伝説に反(さから)ひて何をも唱へ得ざるに対して、科学者は純科学の立場よりして其確信を述べて憚〔はばか〕らない、
ガリレオ、ブルーノ、ケプラー等が科学的の真理のために受けし迫害の苦難(くるしみ)は往昔(むかし)の事であるとして、今日と雖(いえど)も科学者の勇気は宗教家のそれに優越(まさ)ると言はざるを得ない、今や大胆に非戦論を唱ふる者は基督教会の教
師に非ずして、常に教会の忌嫌(いみきら)ふ所たる社会主義者並に不可思議論者の徒(ともがら)である、今や純科学の立場よりして、人類の自由平等と戦争の廃止とは忍耐と勇気とを以て教会以外の人士に由て高唱せられつゝある、「義のために迫害(せめ)らるゝ」と云ふ祝福(さいわひ)は今や教会には降らずして、教会が其敵と見做〔みな〕す人々の上に裕(ゆたか)に臨みつゝあるは事実である。
○神の子が初めて世に降り給ひし時に爾(さ)うであつた、彼が再たび世に臨み給ふ時に又爾うであると思ふ、再来のイエスを認むる者も亦「祭司と民の学者」ではなくして「東方の博士」、即ち基督教会以外の識者であると思ふ、教会が聖書に於て「此(こ)は何の日、如何(いつ)なる時」なる乎と推究(おしたず)ね、議論を闘はしつゝある間に、神は宇宙の大事実を以て顕著(あきらか)にキリスト再臨の時と所とを教会以外に在る識者に示し給ひて、彼等を導きて彼の所に至らしめ、其(そ)処(こ)に黄金(おうごん)、乳香、(にゅうこう)没薬(もつやく)ならぬ近世の科学的製造品の中より最善最美の物を彼に献げしめ給ふであらふ、「人の子臨(きた)らん時信(しん)を世(よ)に見んや」とイエスは曾て言ひ給ふた、然り、彼を主よ主よと称びまつる教会の中に之を見たまはないであらふ、然し神は教会以外に彼を信ずる者を備へ給ひて、或ひは星を以て、或ひは其他の天然的現象を以て、彼等を彼の許(もと)に導き給ふであらう。
 
○而して其時に博士等は再たび「平伏(ひれふ)して嬰児(みどりご)を拝し」奉るであらふ、エスの神性は教会の教義ではない、宇宙の大真理である、是れ単に「聖徒に一たび伝へられし信仰の道」ではない(猶太〔ユダ〕書三節)、天地に内存する宇宙固有の真理である、万物進化の終極、人類進歩の極致(きよくち)はイエスを万物の主として崇〔あが〕め奉るにある、万物は彼に由つて造られ、且(か)つその造られたるは彼の為めなり、彼は万物より前(さき)にありたり、而して万物は彼に由りて存(たも)つことを得るなり、
とは旧(ふるい)い聖書の言(ことば)であるが、然し、単に教会の信仰箇条としてのみ見るべき者ではない(哥羅西〔コロサイ〕書一章十六、十七節)義の太陽なるイエスは又宇宙の中心であることは、深き奥義であると同時に又大なる真理である、ニーブルの如き哲学的歴史家、エヷルトの如き歴史的哲学者、マッキントッシュの如き哲学的法理学者は此真理を認めて疑はなかつた、東方のMAGI マガイのみならず、全世界の科学者と哲学者と法理学者とが「平伏(ひれふ)して嬰児イエスを拝」するに至る時は必ず来るべきである、而して神の子再び世に臨み給ふ時に吾等は此偉観を目撃するのであらふ。
○茲に三箇の面白き対照がある、其第一は偽(いつはり)の王ヘロデに対する真(まこと)の王イエスの対照である、其第二はユダヤ教会の祭司と学者等に対する異教国の識者等の対照である、其第三は聖書智識に対する天然学の対照である、孰(いず)れも驚くべき対照である、而して教会の祭司と学者とが聖書を以て偽(いつはり)の王に事〔つか〕へし時に、異教の博士が天然物に導かれて真の王の許を尋ねて、平伏して彼を拝したりとの事である新約聖書は斯かる意外千万なる記事を以て始まつて居るのである、吾等は聖書は教会の書であると聞いたが、然し事実は其正反対である、世に聖書ほど非教会的の書はないのである、又聖書ほど天真の宇宙に重きを置くの書はないのである、又聖書ほど異教信者に同情
するの書はないのである、聖書は其始めより終りに至るまで、教会と称する信仰の化石体に対し、経典と称する思想の沈澱物に対し、又信者と称する神の子の閥族に対し、徹頭徹尾、激甚の反対を表するのである、実にイエスの誕生を以て革命の火は此沈滞せる人の世に投ぜられたのである、静かなる冬の夕(ゆうべ)、ベツレヘムの空(そら)に異様いよう)の星の輝きし時に幽暗(くらき)に居る民は大なる光を見、死地(しのち)と死蔭(しのかげ)に坐する者の上に光は現(あら)はれたのである(馬太〔マタイ〕伝四章十六節)
吾等は茲に復〔ふた〕たび旧き聖書を読み、読み慣れたる其旧き記事を読みて、天の父が供(そな)へ給ひし、世界の広きが如く広き、天然の新らしきが如く新らしき、人の自由に就て読んで、歓喜と感謝と讃美とに堪えないのである。
附言
第三節に「ヘロデ之を聞て痛む」とある、「痛む」では足りない、原語の意味は「驚駭(おどろ)く」である偽(いつわり)の王は真(まこと)の王の誕生を聞て周章狼狽(しうしやうらうばい)したのである、洵〔まこと〕に左もあるべきである、然し不思議なるは「又ヱルサレムの民も皆な然り」とある事である、「ヱルサレムの全都ユダヤ人の王の誕生を聞て震動せり」との事である、ダビデの邑(まち)なるヱルサレムはダビデの裔(すえ)の誕生を聞て欣〔よろこ〕ぶべきである、然るに其反対に、其偽いつはりの王と共に之を聞て驚駭震動(きやうがいしんどう)したりと云ふ、而して其理由は明白である、ヱルサレムに神の子を迎ふるの準備がなかつたからである、其民は世の権門に阿従し、安逸維れ求め、幸福維(こ)れ追ひ、聖(きよ)き神の聖き治世は反(かえつ)て甚〔はなは〕だしく之を厭ふたのである、故に彼等は彼等を治むべき真(まこと)の王の誕生を聞いて驚き且つ震(ふる)へたのである、人類に臨みし最大の恩恵は最大の刑罰として彼等に臨んだのである、メシヤ(キリスト)の降(ふる)世は彼等の信仰箇条であつたに係はらず彼等は其事実を聞いて震へたのである、嗚呼(ああ)今若しキリストが再来し給ふたならば如何に 教会は之を聞いて欣(よろこ)ぶであらふ乎、駭(おどろ)くであらふ乎、基督教国の君主と称する多くのヘロデ等が震へると同時に、其首府と称せらるゝ数多(あまた)のヱルサ
レムの民等も皆な同じく震駭(しんがい)するのではあるまい乎。
アーメン、主イエスよ来り給へ、速〔すみや〕かに来り給へ、而して汝の聖殿なる此全地を聖(きよ)め給へ。黙示録〔もくしろく〕廿二章廿節。
 
天然の星に導かれて嬰児(おさなご)イエスを訪ねし東方の博士たちは黄金(おうごん)乳香(にゅうこう)没薬(もつやく)を供物として彼に献げたりと云ふ、もの者共に天然の産物に非ずして、当時の最高の化学製造品である、黄金は冶金術の産、乳香は精製の香料、没薬は製薬学の産である、茲に当時の科学者が最上の科学的製産物を嬰児イエスに献げたのである、科学が茲に其最高の製作物を以て敬崇をイエスに表したのである、而して天国が此世に臨む時に再たび此種の献納が行はるゝのである、即ち、高貴なるラヂウムとヘリウムと世界最大の金剛石とが科学者の手によつて、人類の罪の贖主(あがないぬし)にして万物の造主(つくりぬし)なるキリストイエスに献げらるゝのである。
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