内村鑑三マタイ伝 9講

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9講 イエス系図中の婦人
十一月十八日大阪天満教会質問会に於て
明治40年1月10日 『聖書之研究』83号「講演」 署名なし
 
馬太〔マタイ〕伝第一章に記されたるイエス系図中四人の婦人(をんな)の名が録(しる)されてある、即ちタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻の夫(そ)れである、五十余人の男子の名が録されてあるのに、何故に唯(ただ)四人の婦人の名が録されてある乎、
何故に「メシヤの母」たるの栄誉に与(あず)かりし他の婦人の名は録されてない乎、何故にサラ、リベカ、レヤ等の名は除かれて、特に前記四人の名が録されてある乎、是れ注意すべき事実である。
タマルとは誰ぞ、彼女はユダの正妻ではない、之を創世記第三十八章に就て見るに、タマルがユダに由りてパレズ、ザラの孿(ふたご)を産みし談(はなし)は決して美(うる)はしき談ではない、媳(よめ)が娼妓の装をなして舅(しうと)を罪に誘ひたりとの事である、
爾(そ)うして斯(か)かる背倫の結果として生れたる者がイエスの祖先の一人なるパレズであるとのことである。
ラハブとは誰ぞ、彼女はヱリコの邑(まち)の娼妓(あそびめ)である(約書亜〔ヨシユア〕記二章参考)、彼女はイスラエル人をカナンの地に導きし功に由り、士師ヨシュヤの副官の一人サルモンの妻となりて、名をイスラエルの歴史に留むるに至つた者である、彼女は異邦カナンの産であつて、而かも娼婦である、賎しきが上にも賎しき者である、而かも彼女も亦(また)「メシヤの母」の一人となるの栄誉に与かりしとの事である。
ルツとは誰ぞ、是れも亦異邦モアブの婦人である、其貞節の故を以てイスラエル人ボアズの迎ふる所となり、
ダビデ王の曾祖母(ひばば)となりて、「メシヤの母」の一人たるに至つた。
爾うしてウリヤの妻とは誰ぞ、其名をバテセバといひ、ダビデ王の誘ふ所となり、王に由て子を設けしと同時に、災害(わざわひ)を其夫の身上に及ぼさしめた者である、世に姦淫の歴史多しと雖〔いえど〕も、ダビデがバテセバに由て犯せし姦淫罪の如く醜悪なるものはない(撒母耳〔サムエル〕後書十一章を見よ)、而〔し〕かもイエスの祖先の中には斯かる姦夫姦婦もあつたとのことである、是れ又驚くべき事実である。
タマルとラハブとルツとバテセバ、是等四人の婦人の名が殊更〔ことさ〕らに人類の救主イエスキリストの系図の中に記されてあるとの事である、嗚呼〔ああ〕、是れイエスに取りては恥辱の歴史ではない乎、背倫者あり、娼婦あり、異教信者あり、姦淫の婦人ありたりとの事である、而して馬太伝の著者はイエスの祖先中に他に多くの淑徳声名の婦人
ありしを知りながら、悉〔ことごと〕く之を省(はぶ)いて、殊更らに是等の悪名(あしききこえ)の婦人の名を掲げたのである、大工の子イエスをキリストと称(よ)び做(な)した馬太伝記者は又殊更らに是等四人の婦人の名を掲げて彼の大胆なる信仰を一層明白に表白した。
然かり、斯かる悪名(あしききこえ)の婦人を其祖先の中に有(も)つたるイエスは世の人の眼から見て卑賎下劣(ひせんげれつ)の者であらふ、然しながら我等罪を贖〔あがな〕はれんためにイエスの許〔もと〕に来る者に取ては是れ又多大の慰藉を供する事実である、我等の中何人か、其祖先の歴史を調べ見て其中に恥辱の記録を認めざる者があらふ乎〔か〕、我等各自の祖先の中にも放蕩児あり、淫婦あり、或ひは娼婦も妓婦もあつたであらふ、我等何人も決して血統的に清浄無垢の者ではない。我等の血液の中には多くの穢汚、多くの罪悪が混(まじ)つて居る、我等各自は己れ一人の犯した罪のためにのみ苦しめられて居るのではない、我等の父母、我等の祖父母、我等の曾祖父母、又其前々の祖先等が犯した罪をも亦身に負ふて居る者である、憐むべきは人の子である、彼等各自は善と悪との遺伝の蓄積所である、然かも善は少くして悪は多い、善は弱くして悪は強い、而かも情なき世の人は、然かり、其基督信者と称する者までが、此人生明白の事実を認めずして、我等が犯せし罪は惟(ひと)り我等自身が犯した罪であるやうに思ひ、我等を責め、我等を其教会より放逐し、我等を其牢獄に投じ、我等に悪名を着せて世の逐放人(ついはうにん)とならしむ、然れども万事(すべてのこと)を能く知り給ふ神は知り給ふ、我等の犯せし罪は我等のみの罪にあらざる事を、我等の先祖も亦我等に在りて多くの罪を犯しつゝある、我等も亦或る意味から云へば「世の罪を負ふ羔(こひつじ)」である、他人の罪のために自から鞭〔むちう〕たるゝ憐むべき者である。
 
然しながら学者とパリサイの人に類する今の世の人々を見ずして、我等の救主イエスキリストを見奉る時に我等に大なる慰めがある、彼れも亦我等と均しく多くの悪しき汚れたる遺伝性を以て生れ給ふたる者〔ひと〕である、婬婦、娼婦、其他マナセ王の如き、アモン王の如き「ヱホバの眼の前に悪を為したる」多くの悪人の遺伝性を以て生れ給ふたる者である、イエスは聖善の霊性に由れば明かに神の子であるが、然し肉体に由れば確かにダビデの裔(すえ)より生れたる者である(羅馬〔ロマ〕書一章三、四節)、爾うしてダビデの裔より生れ給ひし彼は罪悪と云ふ罪悪を悉く其身に負ひ給ふた、我等の救主イエスキリストは世の人が想ふが如き罪とは全く無関係の者ではない、彼はすべての事に於て我等の如く誘はれ給へり(希伯来〔ヘブル〕書四章十五節)、彼は其身に於てタマル、ラハブ、ルツ、バテセバの罪を悉く感じ給ふた、然れども唯罪を犯さゞりしのみである(仝章仝節)、彼は能〔よ〕く罪の苦痛を知り給ふ、是故〔このゆえ〕に能く我等の荏弱(よわき)を体恤(おもいや)り給ふ(仝章仝節)、我等の救主は身に一点の汚穢を留めずと称する此世の王子王孫の如き者にあらざるを知つて、我等は憐恤(あわれ)を受け、機(おり)に合ふ援助(たすけ)となる恩恵を受けんために憚(はばか)らずして彼の恩寵の座に来るべきである(仝章十六節)
エスは其身に於て人類全体の罪を贖ひ給ふた、然しながらそれと仝時に又すべて彼の祖先の罪を贖ひ給ふた、彼を十字架に釘〔つ〕けた者は彼と同時代の者、又は彼より後に生れし者ばかりではない、彼は又其身に娼婦ラハブの罪をも、姦婦バテセバの罪をも、虐王アハズ、マネセ等の罪をも担〔にな〕ひて十字架に上り給ふた、イエス系図は確
かに彼の担ひ給ひし罪の目録である、馬太〔マタイ〕伝記者は之に由て、イエスの贖罪の事業の如何〔いか〕に広且〔か〕つ大なるものである乎を示したのであると思ふ。
エスにして爾うであつたとすれば我等彼の弟子たる者も爾うでなくてはならない、我等は自身イエスに救はれると同時に又我等の身に於て我等の祖先のすべての罪を贖はなければならない、其迷信、其頑硬、其婬縦、其放肆、其妬忌、讒害〔ざんがい〕、刻薄〔こくはく〕、毀謗〔きぼう〕の罪を悉く我等の身に於て贖はなければならない、我等は現代(いま)の人のため又は後世の人のために十字架に上るの覚悟を定むるのみならず、又過去(のち)の人のため、殊に我等各自の祖先のために罪祭の供物として献げらるゝの決心を為さなければならない。イエスの祖先の中に娼妓がありしと云ふ、然らば娼妓とてイエスに由て救はれない者ではない、イエスは娼妓に対して深き同情を懐〔いだ〕き給ふ、洵〔まこと〕に彼の最始の弟子にして最も誠実なる者の一人は「邑〔まち〕の中に悪行(あしき)を為せる婦〔おんな〕」なりしと云ふ(路加〔ルカ〕伝七章卅七、卅八節)、マグダラのマリヤは娼妓なりしとは一般に信ぜらるゝ伝説である、イエスにありては婦人の娼妓たることは彼女を潔むるための碍害(さまたげ)とはならない、タマル、ラハブを其祖先の中に認め給ひしイエスは娼妓をも其弟子の中に加へ給ふて耻辱(はぢ)となし給はない。
来れ娼婦よ、来れ堕落婦人よ、来れすべての罪人よ、イエスに在りて神はすべての穢汚、すべての罪悪を潔め給ふた、我等も亦彼に来りて我等の罪を潔めらるゝと同時に、又我等の祖先の罪をも悉く滅(け)すことが出来る、多くの婦人の中より殊更らに背倫、汚穢、異教、姦婬の婦人の名を掲げて其系図を示さしめ給ひしイエスはすべての堕落婦人、すべての罪人を己に招き給ふ者である。