内村鑑三 マタイ伝 44講 隠顕の理

隠顕の理
 
掩はれて露はれざる者なく、隠れて知られざる者なし(馬太(マタイ)伝十章廿六節)
隠れて明瞭にならざるはなく、蔵みて露はれざる者はなし(馬可伝四章廿二節、路加(ルカ)伝八章十七節)
○是は普通審判(さばき)の言葉として受取らる、隠(かく)れたる罪は其時発(あば)かるべしと、勿論其意味も其内に含まれて居るに相違ない、然し乍ら其れのみが其意味でない、馬太(マタイ)伝の記す所に循(した)へば、イエスは此言葉を弟子等を慰むる為に用ひ給ふた、悪を為す者は悪の露(あら)はるゝを恐れ、善を為す者は善の彰(あら)はるゝを喜ぶ、人の行為如何に由てイエスの此言は恐怖の言とも、亦慰藉の言ともなるのである。
○是はまことに一般的真理である、神の聖旨であるとも言ふことが出来、又自然の法則であるとも言ふことが出来る、隠れたる者は必ず現はると云ふ、宇宙の秘密、其隠れたる真理は何時か一度は必ず現はるべしと聞いて学者は大なる奨励を獲て、益々学究に従事するのである、宇宙は大なる謎である、然し解す能はざる謎ではない、人の衷に在る道理は宇宙を作り之を支ゆる道理である、宇宙の解釈はたゞに時の問題である。
○而已ならず、万物の原則として外は必ず内と一致するものである、内が美しくあれば外も之に応じて必ず美しく、内が醜くあれば外も之に応じて必ず醜くあるべきである、然るに現在の場合には其原理が未だ充分に実現しないのである、否な、多くの場合に於て其正反対が事実である、内の醜きを裹むに美しき外の形があり、内の美くしきを掩ふに外の醜き体がある、内外は一致すべきであるに、未だ一致しないのである、然し是は永久に然か
あるべきでない、体は心に合ふべきである、心は之に相応したる体に現はるべきである、隠れたるにして露はれざるはなし、美き心は美き体として露はれ、悪しき心は悪しき体として露はる、其処に慰安と恐怖とがある。
○復活と云ふも実は此原理の実現に過ぎないのである復活と云ひて死んだ体が活き復へつて来るのではない
霊魂相応の体が之に与へらるゝのである、或は霊魂がその性質に合ふ体を以て現はるゝのである、「神は種毎に
其各自の形体を予へ給ふ」とある(哥林多前書十五章三十八節)、種に合ふ形体がある、形体は種に由て異なる、各人が其霊魂相応の形体を以て現はるゝ事、其事が復活である、決して不思議でなく、斯くあらねばならぬ、荊棘の種から薔薇は生えぬ、春の温気に会ひて荊棘の種が荊棘として露はれ、薔薇の種が薔薇として露はるゝ時に復活がある。
 
○斯くて復活は審判である、審判は内が明瞭に外に露はるゝ時である、但以理書十二章一節―三節に録されたる預言者の言は此事を示す。
……其時汝の民は救はれん、即ち書に録されたる者は皆救はれん、また地の下に眠り居る者の中多くの者目を醒さん、その中永生を得る者あり、また恥辱を蒙りて限りなく羞る者あるべし、穎悟者は空の光輝の如くに輝かん、又多くの人を義に導きし者は星の如くなりて永遠に至らんと、善人の善き心が善き形体を以て露はれ、悪人の悪しき心が悪しき形体を以て現はれ、偽善が不可能になる時に完全なる審判が行はるゝのである。
○然らば基督者は其時の到るを恐るゝであらう乎、然らずである、イエスを信ずる我等は彼の霊を有てる者であるが故に、我等は我等として審判かるゝに非ずして、イエスとして受けらるゝのである、信仰の絶大の利益は茲に在る、復活の時に我等は醜き我等として復活するに非ずして我等の贖主として我等が受けしイエスとして復活するのである、其幸福如何ばかりぞやである、「我れキリストと偕に十字架に釘けられたり、最早我れ生ける
に非ず、キリスト我に在りて生けるなり今我れ肉体に在りて生けるは我を愛して我が為に己を捨し者即ち神の子を信ずるに由りて生ける也」とある、我が信仰に由りて受けし生命、其生命が其れに相応する形体を以て露はるゝのである、其事が基督者の復活である、其生命は或は芥種の如き最も微き種である乎も知れない、然れどもイエスの種である、「神は種毎に各々其の形体を予へ給ふ」とあれば、信仰を以てイエスの種を受けし者は其種の形体を予へられるのである、故に信者は復活を待望み、審判を恐れないのである、「善事を行し者は生命を得るに復活り、悪事を行し者は審判を得るに復活るべし」とイエスは曰ひ給ふた(約翰伝五章廿九節)、我等自身の儘で復活せしめらるゝならば罪の審判を得るに復活らせらるゝより外に途がない、然るに至大の善事を行し者即ちイエスの霊が我に宿り給ふが故に、我等は生命を得るに復活る事が出来る。
○「隠れたる者にして露れざるはなし」、今は我が衷に潜むキリストの霊が栄光の形体を以て外に露はるゝ時が来るのである、我等の希望また歓喜は其時である、「若しキリスト汝等に在らば体は罪に由りて死、霊魂は義に由りて生きん」とあるは此事である。
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