内村鑑三 マタイ伝 6講ーその2

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(前稿からの続き)
然るに見よ、茲に明白なるモーセ律違犯(ゐはん)の実例が示されてあるのである、ボアヅ、ルツに由りてオベデを生みとある、真(まこと)のイスラエル人なるボアヅはモーセの律法の明文に叛(そむ)きて異邦モアブの婦人を娶りて其妻となしたのである、而してヱホバは其結婚を祝福し給ひて、之に由りてオベデ生れ、而してオベデの孫としてダビデ王は生れたりとの事である、茲に明白なる歴史的事実を以て律法は其根柢より覆(くつが

へされたのである、ボアヅルツに由りてオベデを生み。

人の義とせらるゝは信仰に因る、律法(おきて)の行為(おこない)に因るにあらず(羅馬〔ロマ〕書三章二十八節)
 
エス曰ひけるは……我れ汝等に告げん、多くの人々東より西より来りてアブラハムヤコブと共に天国に坐し、国の諸子(こども)(自称選民、教会信者)は外(そと)の幽暗(くらき)に逐(おい)出されて其処(そこ)にて哀悲(かなしみ)歯がみすることあらん(馬太〔マタイ〕伝八章十一、十二節)、斯くて乾燥無味と称せらるゝイエス系図の中に大なる福音が蔵(かく)れて居る、ボアヅ、ルツに由りてオベデを生めりと云ふ、喜べよ不信者、慰めよ無教会信者、神の選択は寧〔むし〕ろ汝等に在りて聖別を以て誇る所謂信者に在らず、信者は不信者と婚姻すべからずと云ふ乎、馬太伝第一章に曰く、ボアヅルツに由りてオベデを生みと、黙せよ監督と牧師と伝道師、我等は明白なる聖書の指示(しめし)に従ひ、汝等の声に聞かざるべし。
而してウリヤの妻とは誰ぞ、事は撒母耳〔サムエル〕後書十一章に詳かである、人が犯せし罪の中で最醜最悪の罪はダビデに由りて此婦人に対して犯されたのであるダビデ王ウリヤの妻に由りてソロモンを生みとある、簡単なる記事其物が姦淫罪の宣告である、他人の妻に由りて子を生めりと云ふ、大王ソロモンはユダヤ人がイエスに対して言ひしが如くに我は姦淫に由りて生れし者に非ずと言ひて自己の清浄を誇る事の出来ない者である彼は彼の父が他人の妻に由りて生みたる子である、姦淫の子である、而かも彼は「ソロモンの栄華の極(きわみ)の時だにも其装(よそほひ)この花の一に及ばざりき」と謳(うた)はれし其ソロモン大王である、父の恥辱、母の恥辱、子の恥辱、然るに人類の救主(すくひぬし)はダビデの子と称へられて、此父と此母と此子とを其祖先として有(も)つた者である、期(とき)至るに及びて神其子を遣し給へり、彼は女より生れ、律法の下に生れたり、是れ律法の下に在る者を贖(あがな)ひ、我等をして子たる事を得せしめんがためなりとある(加拉太〔ガラテヤ〕書四章四、五節)ダビデの子と称へられしはイエスに取ては名誉でなくして却〔かえつ〕て恥辱であつた、然かも彼は能く此恥辱を忍びダビデの罪を己が罪と做〔な〕し、之を十字架に釘(つ)けてダビデの罪を贖ふと同時に、すべてダビデに傚ひて悪むべき姦淫の罪を犯せし者の罪を贖ひ給ふたのである、ダビデの罪を遺伝に受けしイエスは自身罪を犯さゞりしと雖も罪を感ぜざる者ではなかつた、故に謂ふ彼れ自(みず)から誘(いざな)はれて艱難(くるしみ)を受けたれば誘はるゝ者を助け得るなりと(希伯来〔ヘブル〕書二章十八節)、イエスの完全をのみ認めて彼の不完全に及ばざる者は救主としての彼の能力(ちから)を充分に享くることの出来ない者である。
タマルとラハブとルツとバテシバ、姦淫の婦と異邦の婦(をんな)、特に彼等の名をイエス系図の中に掲げて馬太伝の記者は系図を以て大なる福音を説いたのである、耳ありて聴ゆる者は聴くべしである、神に由らずして何人も斯かる系図を書くことは出来ない、乾燥(かんそう)砂(すな)を噛(か)むが如き系図も茲に一篇の詩歌となりて罪に苦しむ人の子を慰め且(か)つ癒(いや)すのである。
いや
ソロモンよりヱホヤキンに至るまで十四代に渉〔わた〕りてイエスの祖先は悉ことごと〕ユダヤの王であつた、其内に善き王があつた、又悪き王があつた、アビヤとアサと、ヨサパテとウツズヤと、ヨタムとヘゼキヤとヨシアとは善き王であつた、其他は悉く悪しき王であつた、ヨシアに就て聖書は云ふて居る、ヨシアはヱホバの目に適(かな)ふ事を為し、其父ダビデの道に歩み、右にも左にも転(まが)らざりきと(列王紀略下二十二章二節)、之に反して悪しき王なるマナセに就ては云ふて居る、マナセはヱホバの前に悪を為し、ヱホバがイスラエルの子孫(ひと〴〵)の前より逐払ひ給ひし国々の人が為す所の憎むべき事に傚(なら)へりと(仝二十一章一節)国王としてのダビデ家の歴史も亦(また)甚だ誇るべき者ではなかつた、而して積悪其極に達して国は亡び民は徙(うつ)されて七十年の間バビロンの河の畔(ほとり)に懺悔(ざんげ)の涙を灑(そそ)ぐべく余儀なくせられた。
ユダヤ王国の滅亡と同時にダビデの後裔は王位を失ひて再び旧(もと)の庶民に化した、ヱホヤキン囚(とら)はれてバビロンに攜行(つれゆ)かれバビロン王の隷属(れいぞく)と成りてより、栄華に誇りしダビデの末葉(まつえ)は社会の地平線下に降り、名も無き聞(こえ)もなき者と成つた、ヱホヤキン王より十四代の孫に方〔あた〕りしヨセフは「ナザレより何(なん)の善者(よきもの)出(いで)ん乎」と謂はれしガリラヤのナザレに於ける一人の貧しき大工職であつた、家門の零落も茲に至て其極に達せりと謂ふべきである、然し乍ら神の契約は廃(すた)るべきに非ず、聖書は明かにダビデの座位(くらい)の再興を預言して言ふた、曰く我れダビデに虚偽(いつわり)をいはじ、其裔(すえ)は永久(とこしえ)に継続(つづ)き、其座位(くらい)は日の如く恒〔つね〕に我が前にあらんと(詩篇八十九篇三十五、六節)、又曰く一人の嬰児(みどりご)我等のために生れたり……彼れダビデの座位(くらい)に座(すわ)りて其国を治め、今より後永遠(とこしえ)に公平と正義とを以て之を立て、之を保たんと(以賽亜〔イザヤ〕書九章六節以下)ダビデの後裔(すえ)はヱホヤキンを以て尽くべくなかつた、ダビデよりも大なる者出て彼
の後を嗣ぐべくあつた、然し乍ら、布衣六百年、草は枯れ其花は落ちた、然れどエツサイの根は絶えなかつた、
ヱホヤキンシアテルを生み
シアテルゼルバベルを生み
ゼルバベルアビウデを生み
アビウデエリアキンを生み云々
(十二節以下)、シアテルは誰なりし乎、ゼルバベルは誰なりし乎、其他ヨセフの父ヤコブに至るまで、我等は彼等の如何なる人なりし乎を知らない、歴史も亦彼等に就て何の録(しる)す所が無い、彼等は僅〔わず〕かに各自其名を一家の系図に留めて無名の墓に葬られたのである、然らば彼等は此世に在りて何等(なんら)の為す所がなかつた乎、彼等は唯〔ただ〕生れて成長(そだ)ちてうんで死んだのである乎、即ち生き甲斐(かい)の無き生涯を送つたのである乎、彼等の祖先はアブラハムと云ひ、イサクと云ひ、ヤコブと云ひて信仰の父として謳(うた)はれ、或ひはダビデと云ひソロモンと云ひて英名を青史に垂れしと雖も、彼等は無為無能の生涯を送りて草として生え花として消へて了(しま)つたのである乎、否な、否な、決して爾うではない、彼等も亦能く大なる天職を完(まつた)した、彼等はアブラハム家の家伝を守り、祖先の信仰を維持して之を子孫に伝へた、彼等各自が洵(まこと)にアブラハムの子であつて又ダビデの子であつた、名を歴史に留むる事、必しも誉むべき事ではない、人は何人も歴史的人物たるべきでない、総(すべ)て信ずる者の父なるアブラハムは唯一人あれば足りるのである、野の百合花の如くに装(よそほ)ひしソロモンも亦一人あれば足りるのである、余は悉く平凡の人である、而して神は特に凡人を愛し給ふのである、世に知られず、又知られんと欲せず、静かに生れて静かに逝く、エノクの如く神と偕(とも)に歩み、父より受けしものを子に伝へ、家訓の中継者(なかつぎ)たるを以て終る、
 
エリアキンアゾルを生み
ゾルザドクを生み
ザドクアキムを生み
アキムエリウデを生み
エリウデエリアザルを生み
エリアザルマツタンを生み
マツタンヤコブを生み
ヤコブマリヤの夫ヨセフを生めり(十三―十六節)アブラハムの信仰とダビデの権威とは如斯(かくのごと)くにしてイエスにまで伝へられたのである、偉人
英雄は容易に世に出る者でない、之を産するに長き間の準備が要(い)る、イエスはマリヤ一人に由て世に生れ給ふたのでない、家運衰頽の長き年月、能くアブラハム家の信仰を維持し、エツサイの根を絶たざりし彼等無名の聖徒も亦、神子出顕(しんししゆつげん)の栄誉に与(あづ)かつたものである。
然らば我等も亦、世に知られず名は揚らずとも何をか歎かん、我等も亦、アゾルたりザドクたりエリウデたるを得べし、我等も亦、地平線下に能くアブラハムの信仰を維持し、神が我等の子孫をして、我等が密室に於て彼等に告げしことを、屋根の上より宣播(のべひろめ)し給はん其時を俟(ま)つべきである(馬太伝十章廿七節)
 
此驚くべき系図に就て猶ほ語るべき事は多くある、又問題となるべき事も尠〔すくな〕くない、然し之は他日に譲ることゝなし、其決して乾燥無味の人名の序列にあらざる事丈けは明かである、四福音が伝記を以てしたる福音であるとならば、是れは系図を以てしたる福音である、我等は路傍の礫(こいし)に宇宙の構造を悉く読むことが出来るやうに、馬太伝記者の編纂に成りしイエス系図の中に神の愛に関し、人類の救済に関する宏遠量るべからざる貴き真理を探ることが出来るのである。