ロマ書の研究第43講

 

第四十三講 ユダヤ人の不信と人類の救い(一)
九章一 ~ 五節
 
第八章までにおいて個人の救いは論じ盡くされたれば、第九章よりは、イスラエルおよび人類の救いの問題に入るのである。
ロマ書は大著述であるという。たしかにそうである。しかしこれは内容よりいうたので、分量よりいうたのではない。當時彼はコリント市に滞在していたのである。そしてある日、書記テルテオに口授してこの書簡をしたためしめた。ついに八章末尾の大凱歌となつて、ひとまず休憩したであろう。
休憩ののち、パウロの口授はまた始まつた。書記テルテオも傍聽者も、彼の熱情ますます燃えたつことと思つたであろう。しかるに意外なるかな、彼の樣子は全く一變していた。われはキリストにありて眞實(まこと)を語る。われは僞らず。わが良心は聖靈にありて共に證す、われに大なる憂いあることを。わが心に絶えざる痛みあることを。われは思う、わが兄弟、わが骨肉のためならんには、キリストより離れてアナテマ(のろわれし者、滅亡に定められし者)たるも可なり(一~ 三改譯)
彼はまず自己が眞實を語りて虚僞を語らざることを強調する。「キリストにありて」眞實を語るといい、われの「良心」がその事柄の證明者であるといい、しかもその證明は「聖靈にありて」の證明であるという。さらば彼がキリストにありて眞實を語り、そして彼の良心が聖靈にありて證する事柄は何であるか。
八章を口授しつつある時、パウロの喜びは倍加し倍加しつつ進んだであろう。そしてその末尾の大奏曲に至つては、彼の喜びは彼の胸を張り裂くほどの絶頂に達したであろう。しかるに彼の同胞はいかに少數者を除きては、みなこの喜びの外にありて、のろわるる者となりつつあるではないか。彼はこれを思うて、急に大なる憂悶を心に感じ、その憂悶のおのれにあることを虚僞ならずとして強調しながら、萬感胸に迫りて、その理由を述ぶる餘裕なく、直ちに三節のごとき犧牲的の愛國的熱情を吐露したのである。律法の破毀者(はきしゃ)とそしられ、國を忘れし者とののしられていた彼に、かくのごとき強烈なる愛國心のあることがここに示されたのであるパウロはかくイスラエルの優秀なる點八つを擧げたるのち、最後のキリストについていう、「彼は萬物の上にありて、世々贊美(ほまれ)を得べき神なり、アーメン」と。すなわちキリストを神として、彼はこの贊美をなしたのである。これ注意すべきことである。まことに徹底せるキリスト神性の主張がこれに含まれてゐるのである
かくのごとく、神の大なる恩惠を受けつつあるイスラエルが、今の不信のありさまはいかに。あまりに大なる矛盾ではないか。かかる民の不信なればこそ、パウロは痛恨堪えがたくして、彼らの救いとならば自己をアナテマとせんというのである實に愛國心の絶頂というべきである。ゆえにパウロのこの語はわれらに強く訴えるのである
福音を源として湧き立ちし愛國心のみが、永遠に盡きざる、清き、廣き熱情を保ちて、とこしえに國をうるおすのである。
しかしてキリストの愛國心は、また舊約の偉大なる豫言者に源を發したものである。愛國的思想および情感の最も純粹なる模範を見んと欲せば、今なおこれを舊約の豫言書において見出だし得るのである。ゆえにいう、聖書を除いて眞正の愛國心が起こり得るや、疑問であると。わが國においても、この源泉に至らぬうちは、眞正の愛國心は起こり得ないのである。この國民のために、ここにこの事をいう。
パウロは、前を望みてうめいた。自分の救いは確實(たしか)である。救いにいたる道は明白である。されどもわが同胞はいかに。イスラエルはいかに。パウロのうめきは、夕なぎに遠く響く大洋のうなりのごとくであつた。
ここにキリストは神であるということが明白に敎えてある。「肉体によれば、キリストもまた彼らより出でたり。彼は萬物の上にありて、世々贊美を得べき神なり、アーメン(五)と。パウロのこのことばにまぎらわしきところは少しもない。
ヨハネ傳一章一節がその一つである。「初めに言(ことば)あり。言はすなわち神なり」といいて後、「言、肉体となりて、われらの内に宿れり」としるしてある。ヨハネ傳記者はパウロのこのことばに裏書きしてゐるのである。
ピリピ書二章六節には、キリストは「神の實体にてありしかども、みずから神とひとしくあることを捨てがたきことと思わず」としるしてある。神とひとしき者は神であることは明らかである。
コロサイ書一章十六節には「萬物、彼(キリスト)によりて造られたり」とあり、同十七節には「萬物、彼によりて保つことを得るなり」と書いてある。キリストは宇宙の造り主であつて、またその支持者であるというのである。また
テトス書一章三節においては、キリストを呼ぶに「われらの救い主なる神」なる名稱をもつてしてゐる。同二章十三節においては、信者は「大いなる神すなわちわれらの救い主イエス・キリストの榮えのあらわれんことを待ち望む」者としてしるされてある。その他、かく、はっきりとは示していないが、しかしながらキリストを大能の神として解するにあらざればとうてい解すあたわざる聖書のことばは枚擧するにいとまがない。
キリストは神でなければならない。神でなければ罪をゆるすことができない。信者はキリストに罪をゆるされて、彼がまことに「大いなる神すなわちわれらの救い主イエス・キリスト」であることを知るのである。「人の子、地にて罪をゆるすの権あることを知らせんとて」、彼はしばしばふしぎなるわざをおこないたもうた。「子、もしなんじらに自由(罪よりの釋放)を與えなば、なんじらまことに自由を得べし」と彼はいいたもうた。これ神ならではいうあたわざるところである。しかして、かくいいてそのことばのおこなわるるを知つて、
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