ロマ書の研究第25講

第二十五講 義とせらるることの結果(二)
- 第五章一節 ~ 十一節の研究 -

 

 
 ロマ書第五章の一節 ~ 五節は、ある意味において崇高なる詩というべき箇處である。もとよりパウロが専門の詩人であるからではない。およそ偉大なる信仰の士は、宗敎家にして、哲學者にして、かつ詩人であるからのことである。前講において、我らは四節までを窺つたのであるが、實は三節 ~ 五節が一の成文(センテンス)をなしてゐるのであるゆえ、ここになすところの五節の研究は、前講を補足するものとなるのである。
 
 まず五節の初めには「希望は恥を來らせざるを知る」とある。こは、この希望がかならず實現せらるべくして、決して空望に終らぬこと意味するのである。この世のことにおいて、人々は種々の希望を抱くをつねとする。しかしその希望の多くは實現せられずして、その人々はついに恥を抱くに至るのである。あたかも砂漠の渓川(たにがわ)を望み慕いしテマの隊旅客(くみたびびと)、シバの旅客が、その枯渇せるに會して、「彼らこれを望みしによりて恥をとり、かしこに至りてその面を赦くす」る類である(ヨブ記六章)。しかしながら、クリスチャンが迫害を經て錬達し、錬達のために生れし希望は、決してむなしく終るものではない。かのときに至つてかならず實現成就せらるべきものである。このことは、クリスチャンがみずからよく知つてゐるのである。
 
 然らば問う、この希望が空望として終らぬ證據は何處にあるか。答えて言う、「こはわれらに賜うところの聖靈によりて、神の愛われらの心にそそげばなり」(五節後半)と。今これを原意のままに、充分にかつ正確に譯出せんとせば、左のごとくに改譯すべきものである。
 
 こは、われらに賜わりたる聖靈によりて、神の愛われらの心にそそがれてあればなり
 
 「われらに賜わりたる聖靈」である。聖靈を賜わりたることは、クリスチャンにとりて過去のことである(勿論現在を除外しないけれども)。そしてこの聖靈によつて神の愛が心にそそがれて、今のこつてゐるのである。そしてこのことが、實にかの希望の恥を來らせざることの證左たるのである。およそ希望なるものは、その本性上、将來にかかわることであるゆえ、いよいよそのときが來らなくては、この希望實現の成否を完全に知ることはできない。しかしながら、神の榮えを望む希望の確實なることは、クリスチャンの靈魂の上に實得せられし過去現在の心的經驗が優にこれを實證してゐるのである。聖靈、我にくだりて、神の愛大水のごとく沛然としてわが心にそそがれ、その愛が今もとどまれることは、わが心の活ける實驗として、もとより疑い得ぬ事實である。この事實を一方に抱きながら、與えられし希望の空無として終らんことを他方に思うことは、不可能それ自身である。愛をゆたかに我にそそぎたまえる神が、むなしき希望を與えて我らに恥を取らしめたもうことのあるべきはずがない。神の愛は我らをして彼を信ぜしめる。彼を信ずれば、彼の與えし希望のかならず實現さるべきをも信ぜざるを得ないのである。
 
 
 神に救われし證據は何であるか救われし證據をこの世の成功におくは、大體において誤つてゐるゆえに健康をもつて救われし證據と見ることは不正確である。その他、おおむねこの類である。
 神に救われし者は、この完成さるべき希望を抱く、すなわち榮化完成の希望である。然らば救われし證據、また救いの完成の希望の確實なるを證する證據は何であるか。これ成功にあらず、健康にあらず、その他一切の外部的徴證にあらず、心中深く抱かるるところの聖靈による神愛の實驗である。我らに賜わりしところの聖靈により神の愛ゆたかにそそがれて今残ることを如實に味わいたること、この實驗がもつとも確實なる希望の證據である。救われしことの證據であるとともに、救いの完成せらるべきことの證據である。すなわち希望の確實性を證するものである。
 
 そしてこの貴き實驗は、患難すなわち迫害を經て來るものである。迫害は、忍耐--錬達--希望の母であるとともにまた神愛感得の實驗を生みおこすところのものである。ここにおいてか、患難迫害のクリスチャンにとりてますます歡迎すべきものたることを知るのである。そして迫害と言えば、昔ありしいわゆる迫害の類にかぎらず、信仰のために受くる一切の不利益、苦痛、損害、犧牲を指すのである。信仰のあるところかならずこの迫害がともなう。しかしながら、迫害の結果として希望生ずるとともに、また聖靈くだりて、神の愛われに充ち、以てこの希聖の恥を來らせざることを示すのである。されば歡迎すべきかな、迫害苦難!これ我れらの完成せらるるためにぜひとも來らねばならぬもの、すなわち貴き天の使である。
イメージ 1
 
 聖靈賜わりて神の愛來りとどまる。聖靈の我らを導くは、すなわち聖靈よりて神の愛が我らにそそがるることである 
6 われらなお弱かりしとき、キリスト定まりたる日におよびて、罪人のために死にたまえり。7 それ義人のために死ぬるものほとんど稀れなり。仁者のためには死ぬることを厭わざる者もやあらん。8 されどキリストはわれらのなお罪人たるとき、われらのために死にたまえり。神はこれによりてその愛をあらわしたもう。
 
 
 キリストは罪人のために十字架の死をとりたもうた。これすなわち神の愛である。神の特別の愛が、これによつてあらわれたのである。キリストは罪人のために生命をささげたのである。これ實にキリストの十字架の死であつた。彼は自己の死をもつて萬民の死に代え、自己死するゆえに萬民の生きんことを計つたのである。これ彼のみずから選びとりし十字架の意味であるとともに、神御自身が罪人のためにその獨り子を賜うて、罪人のために十字架の死につかしめたのである。「神われらを(なお罪人なるとき)愛し、われらの罪のためにその子をつかわして、なだめの供え物と」したのであるその一であるしかし事は人が眞に人を愛するか如何の一點に歸着する。他のために自己を犧牲にしてつくさんとの徹底的愛心のあるところ、難問は難問でなくなるのである。しかしこの種の愛心は、神の愛に感激してのみ起るところのものである。「主は、われらのために生を捨てたまえり。これによりて愛ということを知りたり。われらまた兄弟のために生を捨つべし」(ヨハネ第一書三章一六節)とあるごとく、キリストの十字架 -- 神の愛のあらわれ -- に感激したるところにのみ、同胞人類に對する無私の愛は生起するのである。この無私の愛、世界に充つるに至れば、すべての難問題は晴れたる日の朝露のごとく、たちまち消え去るのである。
 次ぎに九節を見るに「今、その血に頼りてわれら義とせられたれば、まして彼によりて怒りより救わるることなからんや」とある。キリストは我らのなお罪人なるとき、我らのために死にたもうた。それゆえに我らは罪をゆるさるるに至つた。すなわち我らは彼の血(死)によりて義とせられた者である。我ら罪人であるにもかかわらず、彼の死によりてすでに義人とせられた。然らば、すでに義とせられて義人たるに至りし我らは、彼によりて、神の怒り(すなわち永遠の刑罰)より救わるることは當然であろう
 
 一〇節は九節の反復ではあるが、しかしその説き方が九節よりも積極的なるに注意すべきである。すなわち「もしわれら敵たりしときに、その子の死によりて神に和ぐことを得たらんには、ましてやわらぎを得たる今、その生けるによりて救わるることを得ざらんや」とある。九節は、罪人たる者が義とせられたるを言い、一〇節は敵たる者が神とやわらぐに至りしを言う。また九節において「怒りより救わるることなからんや」とあるを、一〇節には「救わるることを得ざらんや」と言う。同一のことを言うのに異なる發表をなせしに注意すべきである。
 
 十一節に言う、「ただこれのみならず、われらにやわらぎを得させたまいしわが主イエスキリストによりて、また神を喜べり」と。九節、一〇節のごとく、神愛の深さをもつて救いの確實を推知するがために、勝利の歡喜はおのずから生起せざるを得ない。すなわち「神を喜べり」は、神にありて勝ち誇れりの意である(原語は、前講に説きしごとく、カウカオマイである)。單に怒りより救い出さるるにとどまらず、救われて勝ち誇るに至る。かろうじて救われたのではない、優に救われて、罪と死とに勝ち得てあまりあるのである。そしてこれは「われらにやわらぎを得させたまいしイエス・キリストによりて」のことである。
 
 第五章一節 ~ 十一節は、歡喜と勝利の連続であるその傳うる靈的事實のいかに貴くありがたきよ!そしてそのすべての根源は、信仰によつて義とせられしという一事に存する。そしてこれ己れの功によらず、もつぱら神の愛にもとづくことである。感謝すべきかな、主の恩惠、讃美すべきかな、神の榮え!