ロマ書の研究第31講

 

第三十一講 潔めらるること (四)
- 第七章一節 ~ 六節の研究 -
〔參考〕コロサイ書第二章十四節
 
律法の廃棄
第七章に入つてパウロはなお聖潔(きよめ)の問題を取扱つてゐる。第六章において、彼はバプテスマのことおよび奴隷の例を引いて、兩方面よりこの問題を説明した。いま第七章に入つては、再婚問題を引例し來つて、さらに同一の問題を説かんとするのである。
第六章十四節には「そはなんじら恩惠の下にありて律法の下にあらざれば、罪は汝らに主となることなければなり」とある。この語の意味は前講および前々講において説いたが、今ここに注意すべきは、クリスチャンは律法の下にある者でないという一事である。律法が全く廃滅してしまうか、または我らが律法に觸れぬほど潔まるか、いずれにしても律法なるものと事實上絶縁してしまうということが必要である。一言にして言えば、道德不用である。ゆえにすこぶる革命的である。從つてこれを誤解するときはかなり危険である。しかしながら、誤解をおそれてこの大切なる眞理を敬遠することはできない。人は實に道德不用の境地に一度到達せずしては眞の信仰のよろこばしさ、貴さを知ることはできない。勿論「聖潔」は道德不用の境(きょう)である。されば道德廃棄は、人をして眞の信仰と聖潔とに至らしむべき必須なる要因である。道德の下にあるとき、人は己れの罪をさとらされるのみで、決して信仰のよろこびと聖潔の幸いとに至ることはできない。この道德を廃棄したるところに、生命も安心も歡喜も起るのである。第七章一節~ 六節は、さらになおこの道德不用の主張である。
この問題は、第七章に入つてはさらに徹底的にさらに大膽に説かるるため、ある種類の人はこれを誤解して、道德的無政府の状態におちゐる危険がある。また他の種類の人はこれを理解し得ずして、依然として道德本位の生活にとらわれるのである。甲は横にはずれしもの、乙はおよばざるものである。この二つの中間に正しき道がある。その道を取つてパウロの眞理を握り、またこれを事實の上に味わわねばならない。彼はこの一問題のためにガラテヤ書という大書翰をしたためたほどである。その重大にして肝要なる問題たること、言うまでもない。
今、聖書のしるすところの意味を説明しよう。まず一節より四節までは左のごとくである。
1 兄弟よ、われいま律法を知れる者に言わん、律法は人の畢生(いのちのかぎり)その主たるを知らざるか。2 夫ある婦は、律法のために、夫の生けるあいだはそれにつながるれど、夫死なば、その律法より釋(ゆる)さる。3されば夫の生けるあいだに他の人に適(ゆ)かば淫婦と稱(とな)うべし。もし夫死なば、その律法より釋さるるがゆえに、人に適くとも淫婦にはあらず。4 さればわが兄弟よ、汝らもキリストの身により律法について殺されしものなり。これ別人すなわち死よりよみがえらされたまいし者に適きて、神のために果を結ばんとなり。
パウロはキリスト信者における律法不用を張すべく、の世の普通の律法の性質を説くのである。そもそも普通の律法なるものは、人をその生存中だけ支配するものたるにすぎない。パウロは次ぎの四節において、いよいよその主張を説くのである。「汝らも、キリストの身により律法について殺されしものなり」と前半は言う。そして「これすなわち別人、すなわち死よりよみがえらされたまいし者(キリスト)に適(ゆ)きて(嫁して)、神のために果(み)を結ばんとなり」と後半は言う。けだしパウロの意味は、夫に死別せし妻が他人に嫁するごとく、クリスチャンはすでに舊き夫たる律法の死滅に會せしゆえ、第二の夫たるキリストに嫁せし者であるというにあるゆえに四節の主意は、律法の廃滅、律法よりの解放は事實であるが、しかしクリスチャンとはこれだけにとどまる者ではなく、さらに他の新しき夫たるキリストの新嫁(はなよめ)となり、彼につかえて果を結ぶべきものであるというのである。。かつて彼がコリントの兄弟たちに向つて「われ神の熱心のごとき熱心をもて汝らを念(おも)う。われなんじらを一人の夫に許嫁(いいなずけ)せり。これなんじらを潔(きよ)き女(むすめ)としてキリストにささげんとするなり」(コリント後書十一章二節)と言いし心を、ここにもまた我らは見るのである。
かくキリストに歸するに至りしのちの生活と、前の生活とを對照せしものが五節、六節である。
5 われら肉にありしときは、律法によれる罪の欲われらの肢體にはたらきて、死のために果を結べり。6 然れども今われらをつなげるものにおいて死にたれば、律法よりゆるされ、儀文の舊きによらず、靈の新しきによりてつかう。
かつて肉にありしときは、罪の諸欲わがうちにはたらきて、死のために果を結ぶのみであつた。しかしキリストに歸するに至つて律法において死にたるゆえ、律法より釋放せられ、今は何らふるき儀文(文字、規則、條文)の我をわずらわすものなく、ただ神の靈の新たなるに浴してキリストにつかえつつある。
以上がロマ書第七章一節 ~六節の大意である。今これと同一趣意のことを簡單に言いあらわせし處として、コロサイ書第二章十四節を擧げることができる。
されど、神汝らをしてすべての罪をゆるし、彼とともに生かしめ)、かつ手にてしるししところのわれらを改むる規條(いましめ)の書すなわちわれらに逆らうものを塗り消し、これを中間より取り去り、釘をもつてその十字架に釘けたまえり。
とある。改譯聖書にありては、これよりもなお明瞭であつて、左のごとくある。
(神は汝らを彼とともに生かし、われらのすべての咎をゆるし)、かつわれらを責むる規(のり)の證書を、すなわちわれらに逆らう證書を塗り抹(け)し、これを中間より取り去りて、十字架につけ……。
この方が簡單にして正確である。神が、我らを責むる規(のり)の證書たる律法を塗り消して十字架に釘けてしまつたというのである。すなわち律法の破棄である。「證書」と改譯したのは正しいと思う。今これをたとえて借用金證書と見れば、解しやすい。借用金證書というものは、債務者をはなはだしく苦しめるものである。債務者の身となりて--ことにきれいに全部を返濟してしまう力のない債務者の身となりて --この證書ほどいやなものはない。この證書が實に彼を苦しめるのである。
かく律法はすでに廃棄された。かくして六節の「律法より釋(ゆる)され、儀文の舊きによらず靈の新しきによりてつかう」るの幸福に入らねばならぬ。律法- 儀文 -規則が全く不用となり、紙上の文字が我らをしばることなくして、ただ聖靈の導くままに行動するが、眞の自由の道でありまた眞の信仰の道である。ただキリストを夫とし、その事としてつかうるだけで、すこぶる簡單である。しかしここにすべての良きことが存しまた起るのである。この靈の生活においては、事實上律法は不用である。律法は死し、我らもまた死したのである。そしてキリストの中に新しくよみがえつたのである。律法の廃棄(律法よりの釋放)、そしてキリストへの歸屬- これが信仰の道、また聖潔の道である。
以上のことを學びて、いかに使徒パウロが革命的思想の提唱者なるかを知るのである。律法不用と一と口に言えば、事はすこぶる簡單なるがごとくである。しかしながら、そのふくむ内容のいかに重大であつたかは、今日これを道德不用という語をもつて言い換えてみて、やや察知し得るのである。わが國において、道德という廣い語の中に、いかに多くの重要なるもの、貴重なるもの、神聖視せらるるものがふくまれてゐるかは人の知るところである。これをことごとく不用と稱し、その廃棄を高らかに叫ぶのがパウロである。かのユダヤにおいて、神より與えられたるものとして神聖視せられいたる律法を、彼は「すでに廃棄せられたり」と高調したのである。彼の革命的、獨創的にして、靈界の開拓者たる面目のここに躍如たるを思うのである。
彼のこの大膽なる主張は、敎会の内部に恐るべき敵を作つた。彼をもつとも執拗に苦しめた者は、不信者よりもむしろ信者と稱する人たちであつた。
何ゆえにかくなしたか。そは律法よりの釋放がなくしては眞にキリストに歸屬することができぬからである。儀文につかえおる束縛の中にありては、眞に靈の新しきにつかうることはできない。ふるき者の支配を脱せずしては、新しき者の支配下に己れを屬せしむることはできない。今やすでに恩惠の時代にして律法の時代ではない。キリストによる恩惠は、律法によらずして、聖靈によりてゆたかに流れ下るのである。この時、ふるき律法はただ妨害物たるのみである。さればパウロは、神のため、眞理のため、萬民の救いのために、すべての障害に屈せずして、このことを明らかに説いたのである。
第三十一講の約説
宗敎の種類は多しといえども、律法 - 道德 -を不用とする宗敎はただ一つである、それはキリスト敎である、眞のキリスト敎は道德廃棄を主張してはばからないのである、キリスト敎が危険視さるるは、實はそのためである。
然れどもキリスト敎は危険に見えてすこしも危険でない、キリスト敎は過激主義や極端なる社會主義とは全然根本を異にする、キリストは完全に律法- 道德 -の要求に應じて、これを不用ならしめたもう、律法に逆らつてではない、これに順(したが)つて實際的にこれを廃棄したもうたのである、ガラテヤ書第五章二二節、二三節に言えるがごとし、「靈(みたま)の結ぶところの果(み)は、仁愛、喜樂、平和、忍耐、慈悲、良善、忠信、温柔、節制、かくのごとき類を禁ずる律法はあることなし」と、完全に律法に適(かな)う人となりて、その人に對して律法は死し、律法に對してその人は死するのである、キリストはかくのごとくにして律法不用の人となりたもうた、而してそのごとく、また信者も信仰によりてキリストと同體になつて、律法に對して死し、また律法は彼に對して無能となるのである、キリスト敎にありては、律法廃棄は學者の空論でない、實際的事實である、良心の命令を無視して道德の範圍より脱出せんとするのではない、充分に良心の要求を滿足せしめて、道德の必要なからしむるのである。
「儀文の舊きによらず、靈の新しきによりてつかう」(七章六節)、道德はふるいものである、ふるいがゆえに権威がある、しかもその権威たるや、外より臨むがゆえに威壓的である、我ら道德によつて完全ならんと欲して、機械的にして消極的ならざるを得ない、靈すなわち聖靈は、キリストによつて初めて臨むものである、ゆえに斬新である、而して我らの靈に降りて内よりはたらくがゆえに、その行動たるや自由であつて積極的である、つねにいにしえの聖人を顧みて、その聖訓に則りて行うのではない、今、目下わが内に在(いま)したもう神の靈にはげまされて、その聖旨のままに動くのである、クリスチャンは機械的君子ではない、活ける神の活ける子輩(こども)である。
 
 
イメージ 1