ロマ書の研究第24講

 

第二十四講 義とせらるることの結果(一)
- 第五章一節 ~ 十一節の研究 -
 
 
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
 5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
 5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
 5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
 5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
 5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
 
ロマ書は第三章までにおいて、信仰によつて義とせらるるという救いの根柢眞理を説き、第四章に入つては、信仰の模範アブラハムをこの眞埋の證明者として擧げた。まず説き、次ぎに證明をかかげて、ここにこの敎理は確立した。かくて人が信仰によつて義とせらるることはすでに明々白々となつた。ここにおいてか、義とせらるることの結果如何をしるすべき順序となつた。これ第五章以下である
第五章の一節に言う、「このゆえに、われら信仰によりて義とせられたれば、神と和ぐことを得たり、こはわが主イエス・キリストに頼(よ)りてなり」と。これは既説全部の反復と見るべきものである。我らは信仰によりて義とせられた。すでに罪をゆるされ、義人として神に受け容れらるるに至つたのであれば、これすなわち神と和ぐことを得たのである。そしてこのことたる、全く「わが主イエス・キリストに頼りて」である。彼とその十字架の犧牲によりてであるパウロは第四章までにおいてこのことを精細に説いたのである。然らば何ゆえ彼はかく精細にこれを説いたのであるか、それは、これが實に信仰生活の基礎であり、また救いの根柢であるからである二節には「またわれら彼(キリスト)により信仰によりて、今おるところの恩惠に入ることを得、かつ神の榮えを望みて喜びをなす」とある。キリストにより、信仰によりて來るもののうち、第一は「恩惠」である。第二は「神の榮えを望みて喜びをなす」こと、すなわち希望の喜びである。これを一節と合せ考うれば、第一、義とせられて神と和ぐこと、第二、恩惠に入ること、第三、希望の喜びを受くることとなるのである。この三段の順序に我らは注意すべきである
罪をゆるされ義とせらるるや、恩惠に入らざるを得ない。あたかも親にそむきつつありし子が、親にゆるされてそのもとに歸るや、親は永くおさえおりし愛を一時にそそぎ、子はその加えらるる恩惠の、思いのほか大なるにおどろくがごとき類である。げに信仰によりて義とせられし結果として受くる恩惠はおどろくべきものである。そのことは、この恩惠を受けつつあるその人自身が、誰人よりもよく知つてゐる。罪の苦悶はぬぐうがごとく失せ、心には言い知らぬ平和來り、天國をしのびて現世の患難に堪え、天よりの生命を受けて確信をもつて働く、父はわが祈りに應じて可(よ)しと言いたもうがごとく、我は全世界のすべての良き人と天使と萬物と相融合するの境(きょう)に入りしを感じ、萬物のことごとくわがものなるを(コリント前書三章二一節)思うに至る。まことに測り知られぬ恩惠である。
義とせられて恩惠を受くる状態に入りし人は「神の榮えを望みて喜びをなす」に至る。神の榮えを望むとは何を意味するか。神が榮えを本具したまえることは言うまでもない。この榮えを望むというのは、この榮えにあずからんことを望む意であるに相違ない。神の本具したもうところのその榮えの輝きを、己れもまた浴びんとの望みである。「愛する者よ、われらいま神の子たり、後いかん、いまだあらわれず、そのあらわれんときには、かならず神に似んことを知る」(ヨハネ第一書三章二節)とあるところの希望である。人が神とならんとするのではない。神に似た者に化せられんとするのである。一言にして言えば、完成榮化の希望である。この大希望を胸に抱いて喜び躍るは、神に義とせられて恩惠の領域に入りし者の受くる大なる特権である。
義とせらるるや恩意を受け、さらにまた榮化の大希望を與えられて喜び躍る。これ一に主イエス・キリストを信ぜしという一事によるのである。彼の十字架あるがために、ただ信仰のみをもつてこの大なる特権と歡喜をわがものとするに至る。單なる信仰のみのゆえに--何ら功(いさおし)を立つることなくして--罪人の上にかく恩惠を與えたもう神の愛の大なるかな!「われら神を愛するにあらず、神われらを愛し、われらの罪のためにその子をつかわしてなだめの供え物とせり、これすなわち愛なり」(ヨハネ第一書四章一〇節)とあるとおりである。
、「パウロよ、汝の言はなはだ可し、しかし汝の現状は如何、世に何らの財もなく、わずかに勞働をもつて口を糊(のり)し、敵は敎曾の内外に雲のごとく多く、國人よりは異端者としてしりぞけられて孤獨窮乏のうちにある惨状を如何、汝の處言と實際と、あまりに相違せるものあるではないか」と。
3 ただこれのみならず、患難にも喜びをなせり。そは患難は忍耐を生じ、4 忍耐は練達を生じ、練達は希望を生じ、5 希望は恥を來らせざるを知る。こはわれらに賜うところの聖靈によりて、神の愛われらの心にそそげばなり。
義とせられて恩惠を受け、希望にあふれて喜ぶ。ただこれのみにとどまらない、患難にあつてもまた喜びをなすと言う。
 
患難の原語は θλιψιs(スリプシス)である。聖書においては、主として信仰のゆえに受くるところの迫害、犧牲、苦難、痛苦を意味する語である。かならずしもいわゆる迫害のみを指さず、およそ信仰のゆえに受くる一切の不利益、損失、誤解、および拂わねばならぬ犧牲等を總括して「患難」と言うのである。すなわちクリスチャンに臨む特殊の患難を言うたのである。
。まず「そは患難は忍耐を生じ」とある。忍耐と言えば、わが國の用法においては、ただあることを耐え忍んでゐるのを意味し、もつぱら消極的のものであるように見える。漢字の原意如何は別として、とにかくこれを、消極的にこらえてゐることと見るが普通の見方である。然るに原語 υπομονη(ヒュポモネー)は、消極的にこらえてゐることを意味する語ではない、積極的にかたく立ち、強く進むことを意味する語である。堅忍、剛毅、不屈、不撓等の意味を包含する語である。迫害の中にありて信仰を維持するのみならず、毫も屈するところなくして、進んで神の道を行う進取邁進を言うのである。パウロとシラスがピリピにて、町を擾(みだ)す者として捕えられ、はげしく鞭打たれ、「奥の獄に入れて桎(あしかせ)をかけ」られたるにもかかわらず、勇氣ますます身に滿ちて、夜半ごろ「祈祷をなし、かつ神を讃美」し、ついに獄吏をしてその前に俯伏(ひれふ)すに至らしめしがごとき、まことに好ヒュポモネーの一例である。
忍耐は錬達を生じ」とある。忍耐が患難の生むところであるごとく、錬達は忍耐の生むところである
錬達は希望を生じ」とある。錬達の境に入つて、我に確固たる希望がそなわるのである。堅信、錬達、確信ますます増し進むや、神の榮えを望むの希望はほとんどわが身わが心のごとくわが存在の一部となるに至る。患難の中に忍耐をもつて神の道に歩むや、忍耐は錬達を生み、そして錬達は希望を生む。この希望永生の希望、榮化の希望、これこそクリスチャンの至寶である。そしてこれ實に患難の産物である。患難が忍耐を生み、忍耐が錬達を生み、錬達が希望を生んだのである。ゆえに「患難にも喜びをなす」のである。
一節、二節、および三節、四節の相平行せることに我らは注意する。前者は、義とせられ、恩惠に入り、希望を與えられて喜ぶと説き、後者は、患難は忍耐を、忍耐は錬達を、錬達は希望を生むがゆえに喜ぶと言う。甲は純信仰の生み起す希望の喜び、乙は實生活の生み起す希望の喜びである。かく兩方面より希望の喜びが説かれたのである。二節において「喜びをなす」と言い、三節において「喜びをなせり」と言いし原語は、ともに καυχαομαι(カウカオマイ)である。これは英語の rejoice(よろこぶ)boast(誇る)glory(榮えとする)等を意味する語であつて勝ち得てあまりあるところのその勝利を喜ぶという意である一節より四節までを反復熟讀せよ、信仰生活の特徴は遺憾なくこの數語の中に示されてゐるではないか
これを靈的領得の上より見れば、神と和ぎ、恩惠に入り、妙なる希望を與えられて勝ち喜ぶ心境であり、これを實際生活の上より見れば、患難にありても、その生むところが忍耐、錬達、希望なるがゆえに、勝利の光榮に酔う生涯である。これすなわち「四方より患難を受くれども窮せず、詮方つくれども望みを失わず、迫害(せめ)らるれども捨てられず、倒さるれども亡び」ざる生涯である。退轉せず、萎靡(いび)せず、進んでやまざる生涯である。積極的、進取的にして、光明と生命とを具有する生涯である。平和、温良、無害の人となるが決して信仰の目的ではない。生命と力をもつて進撃する生活が眞の信仰生活である。しかしながら注意すべきは、これ自力をもつて努力奮進して然るにあらず、主として救い主の十字架より流れ出ずるところの生命の源に汲んで然るのである。わが本具の生命によるにあらず、もつぱら彼の大生命に浴して然るのである信仰生活は、いわゆる努力の生活ではない。十字架のゆえに罪の赦免に浴し、義ならざるに義とせらるるに至りし大恩惠に接し、感謝心に滿ちて、おのずから力ある歩みをひきおこす生活である。源あつての末である、原因あつての結果である。これ忘るべからざることである。そのゆえにこそ、感謝はますます大となるのである。
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