善きものは無し

 ロマ7:18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

 
本当はクリスチャンが歩み始める初めの時期にこの事を心底学んでいれば,その後に出会う多くの悩みを解消できるのだが。
 
聖書は私たちの古い、邪悪な、生まれ変わって居ない性質の中には、良きものが一切存在していないと教えています。肉は良きものを一切含んでいません。回心後も、肉そのものは爪の垢ほども改善されていません。生涯、裏表のないクリスチャン生活を送ったとしても、改善されることはありません。
実のところ、神御自身も肉を改善しようなどとは、思っておられません。
十字架で肉性に死を宣告された神は,ただそれを死の場所から動かさないように、と私たちに望んで居られるのです。
 
もし心からこの事を信じるなら、私は無駄な探求をしないで済みます。そこにはないと神が言っておられる場所に何か良いものが有るのではないか,と探したりはしません。
第二に失望しないですみます。自分自身の中に何も良い物がないと分かっても、私は決して失望しません。そもそもそこにないことが分かっているからです。
第三に内省から解放されます。自己の中に勝利のかけらも存在していないことを前提に出発します。事実、自分に囚われることこそ,敗北の始まりなのです。
第四に,自分の内部にサーチライトをあてる心理的、精神医学的カウンセリングから守られます。この様な心理療法は,問題を複雑にすることはあっても、それを解決することは出来ません。
最後に、もっぱら主イエスによって心を満たすことを学びます。
ロバート・マレー・マクシェーンはこう言っています。「自分の心の中を一回見る毎に,10回はキリストを見よ」と。この比率は絶妙です。聖化された自己も,栄化されたキリストの代わりには到底なり得ないのです。
 
パウロならこう言うでしょう「私自身は,自分について考える値打ちもない,悪しき人間である。私は自分を忘れて神を見上げたい。神こそ、私がすべての思いを傾けるのにふさわしい御方であるから。」(WM)
ミカンも好きなヒヨドリ。その下は「尾長」
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