マージ・ベッコン姉妹の証し
「主の御手のうちに」マージ・ベッコン著、伝道出版
「9 主は私を嫌っておられるのでしょうか」より。
『あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押え、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。
78:39神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、
返って来ない風であることを心に留めてくださった。』
(詩篇 78篇38節~39節)
私は『人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる、という原則』と
『神の復讐』とを混同していました。
私が経験していることは神のさばきなのだ、と思い込んでいたのです。
神は、快く赦してくださる誠実なお方であることを、みことばの中で私に示してくださっていますが、
私は、自分が置かれた状況によって、神がどのようなお方であるかを判断していました。
「神は私を憎んでおられるのではないかしら」とさえ思っていたのです。
『ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、
彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、
われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。
そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。
『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、
あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』
今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」
ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。
彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」
ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。』
(創世記 50章15節~19)
私はこの箇所を読んでいたとき、
私は、主に対してとんでもない思いを抱くことによって主を悲しませていたことに気づきました。
私は、罪深い人間がやるように物ごとを分析していました。
しかし、主は私に、このような考え方をするのをやめるように、と言っておられるようでした。
私は、状況によって主を判断するのではなく、
主ご自身がいかなるお方であるかに思いを巡らす必要かあったのです。
主の偉大さを思えば思うほど、
「主は復讐なさるだろう」と考えることによって主に罪を犯していたのだ、
ということがわかってきました。
私はただ、頭を垂れて、主に感謝と賛美をささげるだけでした。
恐れで縮こまり、自分の足りなさを嘆くよりは、
ヨセフが兄弟たちのために用意した贈り物やエジプトの最良の地のように、
主が私に下さったすぱらしいものに思いを巡らすほうがずっと有益なのです。
私は、主に対して罪を犯し、
主の優しい配慮を受けるに値しない者だということを改めて知りましたが、
キリストの血によってきよめられたことにより、主のすばらしい恵みとあわれみも知りました。
「あわれみ」と『恵み』は、(まさにその定義によれば)受ける価値のない者に与えられるものなのです。
私は、自分や他人の見方によってではなく、
みことばの光によって、神がどのようなお方なのかを知りたいという思いを新たにしました。
そうしないと、私は主をひどく誤解してしまうことになるからです。
主の次のみことばをどうして忘れることができるでしょう。
――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。』
(イザヤ 41章14節)
著者 マッジ・ベッコン
1947年4月、夫ギルフォード、幼い娘ルースとともに中国に渡る。
1949年、中国が共産化すると、彼らは香港に退去させられた。
日本への入国を待ちつつ、6ヶ月間、台湾に住み、
その後、日本へ渡る。
1951年、三女ユーニスが誕生。
(著者は、そこで総計38年を過ごした。)
夫ギルフォードは1974年に昇天。
移り住み、その後も日本人女性のために使えている。