ロマ書の研究第37講-2

 

第三十七講-2   約   説
禁欲と靈化
 
聖書のことばはそのままにて眞理である。これに註節を付するの必要はない。註解を付してかえつてその意味をそこなうのおそれがある。詩人ホィットマンが自分を歌うたことばにいわく、
私は知る、私の尊厳なるを。しかし私は自分を説明し、また諒解(りようかい)してもらおうと思わない。思うにこの根原の法則は解釋に絶することを。私は在(あ)るがままに在る。それで充分である。だれも私を知つてくれなくも滿足である。そしてみなが、また残らずの人が私を知つてくれても、同樣に滿足である
このことばは詩人においてよりはむしろ聖書のことばにおいて眞理である。聖書は靈魂の根原の法則について語るものであるから、これは解釋に絶するのである。聖書は在るがままに在る。人が誤解すればとて、自分のためには悲しまない。また強(し)いて自分を説明し、世に諒解してもらおうとは思わない。
肉のことを思うは死なり。靈のことを思うは生命(いのち)なり、平安なり……肉のことを思うは神にもとる(敵する)事なり‥…肉におる者は神の心にかなう(神を喜ばす)ことあたわず」(ロマ書八・六、七、八)という。これは聖書のことばであつて、そのままが大眞理であるこれに説明を加うるの必要はない。これは尊厳にして犯すべからず、神のことばとして信受するまでである。しかして今日諒解することができないならば、これを記憶にとどめて、聖靈の働きによりわが實驗となりて現わるるまで待つべきである。「肉のことを思うは死なり」という。強いことばである。しかしながら明白なる深い眞理である。人生その七分は性欲であり、三分は食欲であるという。すなわちその全部が肉欲であるというのである。しかしてこれに苦悶と恥辱と死と滅亡との伴うは、いわずして明らかである。個人と社会と國家との注意を肉より靈に轉じて、そこに生命と平安とがあるのである。「靈のことを思うは生命なり、平安なり」と。人生の偉大という事はすべて靈界においておこなわるるのである。偉人とは靈の人、大國民とは靈的に偉大なる國民である。富豪はその有する富のゆえに偉大ならず。強國はその領土の廣きがゆえに偉大ならず。大宗敎と、大思想と、大文學と、大美術とを有するものは、小なりといえども大である。弱しといえども強くある。
聖書のことばは在るがままにて大眞理である。人はこれに説明を加えてヨリ大なる眞理となすことはできない。「肉のことを思うは死なり」といい、「神にもとる」事なりといい、「肉におる者は神の心にかなうことあたわず」という。もしこのことばを文字どおりに解するならば容易ならぬことになる。すなわち生きていてはならぬということになる。肉のことを思うは罪、その結果は死、神に逆らう事、神に喜ばれざる事であるというならば、信者は肉を殺しこれに死すべく努めねばならぬ。しかして同じ事を敎うるように見える聖書のことばは他にもあまたある。キリストの聖言としては「われ、なんじらに告げん、(肉の)命のために何を食らい何を飲み、また体のために何を着んとて思いわずろう(注意を配る)なかれ……」(マタイ傳六・二五)と。また「もしわれに從わんと欲する者は、おのれを捨て、その十字架を負いてわれに從え。そは、その命を保全(まっとう)せんとする者はこれを失い、わがためにその命を失う者はこれを得べければなり」(同十六・二四~二五)と。
さればキリスト敎は禁欲主義であるか。またはさらに進んで遁世主義(とんせいしゅぎ)または殺我主義であるか。多くの人はそうであるという。。第一種はキリスト敎に反對する人であつて、第二種は禁欲主義を實行する人である。キリスト敎ははたして禁欲主義であるか。しからずである。ある方面より見てそう見ゆるなれども、その根本的精神を究(きわ)めてみて、決してそうでないことがわかる。キリストは常にご自分を花婿にたとえていいたもうたなんじら、もしキリストと共に死にて、この世の小學を離れしならば、なんぞなお世に生ける者のごとく、人の誡めと敎えとに從いて、「さわるな、味わうな、觸るるな」という規(のり)の下にあるか。これらの誡めは……知惠あるごとく見ゆれど、實は肉欲のほしいままを防ぐなし(コロサイ書二・二〇以下)。
彼はまた強剛側に結婚を禁ずるの異端を責めていうた、
聖靈明らかに、ある人の、後の日に及びて、惑いの靈と惡鬼の敎えとに心を寄せて、信仰より離れんことをいいたもう……彼らは良心を焼き金にて焼かれ、婚姻するを禁じ、食を斷つことを命ず。されども食は神の造りたまえる物にして、信じかつ眞理を知る者の感謝して受くべきものなり。神の造りたまえるものはみな善し。感謝して受くる時は捨つべきものなし。そは神のことばと祈りとによりてきよめらるるなり(テモテ前書四・一以下)
キリスト敎は禁欲主義にあらず。もちろんその反對に放縦主義にあらず。しかり、死せる主義にあらず。生ける生命である。肉の生命に代うるに靈の生命をもつてする道である。肉におらず、その支配を受けず、これをして自己の上に王たらしめざる敎えである。しかして肉を殺すに律法の誡めをもつてせず、靈の権能(ちから)をもらつてする。ゆえにいう、「もし靈により体の行爲を滅ぼさば生くべし」(ロマ書八・十三)と。患難苦行してではない。「靈によりて」である。
ペテロいわく「ますますわれらの主なるイエス・キリストの恩寵(めぐみ)に進め」(ペテロ後書三・十八)と。しかして恩寵に進めば進むほど肉の欲は少なくなる。これがほんとうの減欲法である何事をなすにも聖靈の指導に從う。聖靈を離れて律法と規則と鞭撻(べんたつ)の下におこないて、行爲(おこない)に無理が生じて、神をも人をも喜ばすことができない。使徒たちいわく「聖靈とわれらとは左の事をよしとせり」(使徒行傳十五・二八)と。道はここにありである。
 
付言 肉とは何ぞや
肉といい、体といい、肢体といい、同じ事をいうのである。その肉というは何であるか。その事を知るは、聖書研究上最も肝要である。道德的に見たる肉とは肉欲であるとは何びとも思うところである。食欲、性欲、その他すべて生きんと欲する欲、それが肉欲すなわち肉であるとは何びとも氣の付くところである。しかしてこの見方たる、大体において誤りなきは、いわずして明らかである。
しかしながら肉欲すなわち肉なりといいて、肉を罪と同視することはできない。食う事、生む事は決して罪ではない。生命は神より出でしものであつて、これを維持しまた継続することが罪であるはずはない。ゆえに「肉のことを思うは死なり。神にもとる事なり……肉におる者は神にかなうことあたわず」(ロマ書八・六~八)といい、「体の働きを殺さば生くべし」(同八・十三)といい、「なんじらの地にある肢体を殺すべし」(コロサイ書三・五)といいて、肉と共に肉欲を殺すべしということでないことは明らかである。そは、もしそうであるならば、神が萬物を造り、これを人に賜いて、「生めよ、ふえよ、地に滿てよ……全地のおもてにあるすべての草とすべての木とはなんじらに與う。これなんじらの糧(かて)たるべし」との神のことばが無效に歸(き)するからである。生命が惡事でありようはずがない。肉の生命もまたしかりである。「神、その造りたまえるすべての物を見たまいけるに、はなはだ善かりき」とある。しかり、「善かりき」である。惡しくありようはずがない(創世記一・二八以下參照)。
さらば、神にもとるもの、殺すべきもの、肉と稱し退治すべきものは何であるか。それは肉そのものではなくして、肉が靈化せしもの、肉の主たるべき靈がその奴隷となりしもの、それがすなわち肉である。憎むべき殺すべきものは、この意味においての肉である。肉化せる靈、あるいは肉的の靈、それが肉である。ゆえに、肉と稱して、解剖學上または生理學上の肉ではない。道德上または精神上の肉である。神にそむきたる靈が、節制なき肉の欲として現わるるがゆえに、これを短縮(つづめ)て肉と稱するのである。「肉」は靈である。その事を忘れてはならない。
その事を最も善く證明するものは、ガラテヤ書五章十九、二十、二一節である。いわく、
それ肉のおこないはあらわなり。すなわち不品行、汚れ、好色、偶像禮拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、黨派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴樂など
と。以上はいずれも誤れる靈が肉にあらわるる行爲であつて、肉そのものの行爲ではない。ことにそねみ、黨派心、分裂、分派、ねたみ等に至つては純然たる靈的行爲である。しかしてこれ神にもとるもの、滅ぼすべきもの、殺すべきものであるは、いわずして明らかである。また同じ事を證明する聖語として、コロサイ書三章五節があるり いわく、
このゆえに、なんじらの地にある肢体すなわち不品行、汚れ、情欲、惡欲および貪欲を殺すべし。貪欲はすなわち偶像禮拝なりと。この場合において、殺すべきものは肢体すなわち肉体ではない。不品行、情欲、貪欲等の意念である。正當なる肉の要求ではなくして、不正なる肉欲の濫用である。ヘブル書十三章四節は、この事に關する善き註解である。
ここにおいてか肉の何たるかは明らかである。肉は食う事ではない。結婚する事ではない。肉の生命を維持し、その正當の發達を計る事ではない。いわゆる「肉」は、自己を中心として萬事萬物を私用せんとする事である。ゆえに、憎む事、ねたむ事、盗む事、へつらう事、他人の名譽をそこなう事、これみな肉である。この意味において、罪はすべて肉である。多くの場合において、肉とは何の關係もなきように見ゆる罪もまた明白なる肉である。
肉といえば、普通に食欲性欲に限られてゐるように思われてゐる。宴樂、泥酔、不品行、好色といえば、肉の行爲を盡くしてゐるように思われてゐる。されども、争闘も肉であれば嫉妬も肉である(ロマ書十三・十三參照)。しかして最も憎むべき肉は靈化されたる肉である。税吏と娼妓を肉の人の模範と見るは淺い見方である。肉の人の模範はむしろ學者とパリサイの人である。神學博士と敎会信者である。ゆえにイエスはこれらの敎会者に告げていいたもうたのである。いわく「まことになんじらに告げん、税吏および娼妓はなんじらより先に神の國に入るべし」(マタイ傳二一・三一)と。マタイは一たび利欲のために國を売り、異邦ローマの官吏となりておのが私腹を肥やせしといえども、キリストに召されて、悔い改めてその使徒となることができた。マグダラのマリヤは貞操を売りて汚れの淵に沈みしといえども、主に救われて、その聖き婢(しもめ)となることができた。彼ら、いずれも肉の人であつた。しかしながら、主のおん目より見て、比較的に輕い罪人であつた。しかして學者とパリサイの人とは、税吏と娼妓よりもはるかに重い罪人、はるかに惡い肉の人であつた。彼ら、あるいは酒を飲まず淫にふけらざる點において、靈の人として世に迎えられたかもしれない。しかしながら彼らはその内心において純然たる肉の人であつた。彼らは「あまねく水陸を巡り、一人をもおのが宗旨に引き入れんとして」(マタイ傳二三・十五)充分に彼らの肉欲を發揮したのである。まず除くべきはパリサイのパン種である。これはまことに肉素と稱すべきものである
 
宗敎的嫉妬心 Odium Theologicum(神學者の惡意)、これが堕落せる肉の精である。何よりも憎むべきもの、いとうべきものはこれである。肉は特にパリサイのパン種である。
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