ロマ書の研究第49講

 

第四十九講 キリスト敎道德の第二 愛(一)
十二章九 ~一〇節
 
前講に説きしごとく、キリスト敎道德の第一は謙遜であるそして謙遜は何びとにももちろん必要であるが、ことに何かあるものを持てる者にとつては格別にも必要である。すなわち學識ある者、知能ある者、資財ある者、地位ある者等は、特に謙遜の德をおこのうべきである。ゆえに、パウロは特に敎会中の有力者に向かつてこの點を強く説いたのである謙遜の次にパウロは愛を説く。そして愛の特徴は、それがたれにも必要なる點にある。有力者無力者の別なく、いかなるキリスト信者にとつても、敎会のいかなる一員にとつても、常におこなわねばならぬものはこの德である。
まず九節と十節とに注意するを要する。邦譯聖書において見るに、左のごとくある。
愛は僞ることなかれ。惡は憎み、善は親しみ、兄弟の愛をもて互いに愛し、禮儀をもて相譲りとありて、行文すこぶる簡潔である。愛は僞ることなかれ」とある一句は、英譯聖書は五字を用いてゐるけれども、ギリシャ原文はわずかに二字より成つてゐる。すなわち「愛」という字と「僞りなし」という字より成つてゐるのである。從つて「愛は僞りなし」(僞りなきものなり)とも解することができる。しかし「愛に僞りあるなかれ」との誡めと解するのが正しいであろう。僞りあるなかれの原語は、「僞善あるなかれ」の意である。ゆえに「愛に僞善あるなかれ」は、愛を俳優的に演劇的にするなかれの意である。人は心に悲話をいだいていても、外に愛を装うことができる。。假面の愛をもつて人に對せぬよう、注意せねばならぬ。
愛の敎えの細則を説かんとして、第一に憎惡(にくみ)を説くは、人の意表に出づることである。愛といえば全然愛にして、その中に憎の一部分なりとも含まるべきでないと、普通の人は考える。しかしながら眞の愛は惡に對する憎意を充分に含むものである。假面的の愛または淺き愛は、惡を憎むことを知らないけれども深き眞なる愛はかくあることはできないのである。強く惡を憎む人ならでは強く善を愛するを得ない。キリストの愛がこの種の愛なることは四福音書に明示さるるところである。強き憎みをいだかずして、強き愛をいだき得るはずがない。さればいう、強く惡を憎めよ、しからずしては其の愛の何たるかを知り得ないと。
惡を憎むは、愛の消極的半面である。次には例によつてその積極的半面がしるさる。眞の愛は、その人の惡を強く憎むと共にその善を強く愛するのである。從つて惡に向かつては充分忠言を與え、その善に向かつては充分の助力をなすのである善に對しても意に對しても平然たるは不信者の常であるが、ことに日本人にこの傾向の著しきは痛歎の至りである。自己の利益に關する事なれば、非常なる熱心を表わし、寝食を忘れて狂奔する。けれども正義に對して少しも熱烈なる贊成を表わさないと共に、不義に對しては何ら著しき反對を示さない。善に向かつても意に向かつても常に冷々淡々、あだかも別世界の事柄に對するがごとくである。社会全体にみなぎる不まじめと倦怠(けんたい)、公義の念の缺乏、人生に對する厳粛なる態度のなきこと、眞正なる友誼に乏しきこと等、いずれもみなかかる心理状態の産物である。注意せよ、人々!キリスト敎的愛のいかなるものなるかを學べ! そしてこれを實行し得るよう祈れ。
愛に僞りがあつてはならない。そして愛の要素として缺くべからざることは、惡を強く憎み善を強く愛することである。さらば次に必要なることは何か。それは「兄弟の愛をもて互いに愛し、禮儀をもて相譲」(一〇)ることである。「兄弟の愛」とは、いわゆる兄弟姉妹の愛の意ではない。肉親の兄弟の愛の意である眞のクリスチャンは相互に對してこの愛をいだく。この愛のおこなわるる處がすなわち「エクレジヤ」である。初代の敎会はこれであつた。また福音の、思いのほか早く世界にひろがりし理由の一つは、初代信者間に實在したこの愛のためであつた。
信者の間に存するものは、嫉妬、憎惡、惡感、惡口、陥穿(かんせい)等である。敎会堕落のありさまいかに。實に痛歎すべき限りではないか。共に主にある者は當然この愛をもつて結ばるべきであるに、事實しからざるは、これその信仰に何かの缺陥がある證據である。われらは信仰を深く養い、心の底より兄弟姉妹に對して深き愛情を感じ、この愛をもつて互いに相愛するようならねばならぬ。しかして理想的エクレジャの建設を計らねばならぬ。
 
以上、九、十節を反覆精讀せよ。いかに深き、またゆきとどいた誡めであるか。まず「愛は僞ることなかれ」と、一般的注意を與え、次には細則に入りて、その第一に「惡を憎み」と、たいせつなる注意を與えて、人々の怠りがちなる點を誡め、次には「善は喜び」と注意し、そしてなお「兄弟の愛をもて互いに愛し」と、積極的の勧めをなし、次には「禮儀をもて相譲り」と、人の忘れやすき點に注意を促す。まことに至れり盡くせる層の敎えである。
第四十九講 約   説
キリスト敎道德その二 愛
謙遜は何びとにも必要である。しかしことに有力者に必要である。傲慢(ごうまん)は特に才能に伴う罪である謙遜はことに有力者にとりて必要である。されども愛は何者にとりても必要である。「愛のほか何ものをも人に負うなかれ」とありて、人に何の負うところなきクリスチャンは、愛だけはこれを何びとにも負うのである。神がわれを愛したもうがごとくに、われは人を愛せねばならぬ。これわが義務である。責任である。
「愛は僞ることなかれ」。または「愛に僞りあるなかれ」と譯してもよい。愛は慈善と同じく單純なるを要す。愛、愛といいて、愛にも不純なる愛がある。「愛に僞善あるなかれ」と譯して、原語の意味に最も近くある
單純の愛にさらに定義を付すれば、これ「惡を憎み善と親しむ」ものでなくてはならない。愛にもまた消極積極の兩面がある。惡を憎む方面と善と親しむ方面とがある。ことに注意すべきは惡を憎む方面である。愛は愛であつて、惡をもこれを憎んではならないという者は、愛の何たるかを知らない者である。ほんとうに愛する者は、同時にまたほんとうに憎む者である。
「惡を憎み善と親しみ」というだけで、眞の愛の記述として著しいものである。しかしながらパウロの言葉はそんな弱いものでなかつた。これを直譯すれば、「惡を見ては縮みあがり、善とあればこれに愛著す」となる。パウロは強い人である。ゆえに、かかる場合には強い言葉を使う。恐怖をもつて縮みあがる。にかわをもつてするがごとくに付著する。クリスチャンに、善惡に對してかかる敏感がなくてはならぬ。惡を見ても平然たり、善に接してもさほどに喜ばざるがごときは、その人がいまだ眞實に神の愛を感受せざる證據である。世にはみずから無抵抗主義者ととなえて、惡を見ても怒らず、これと戰い、これを除かんと努めざる者がある。クリスチャンは暴力をもつては争わないが、靈力をもつては勇敢に戰う。彼は惡は惡なりととなえてはばからない。友人の争うを見て、これに携わりて自己に投書の及ばんことを恐れ、惡にも逆らわず善にも與(くみ)せず、自己は第三者の地位に立ちて、ひとえに兩者の好意を失わざらんと努む、これは愛ではない。自己中心の罪である。正直は最良の政略なりというと同じく、愛の名をもつてする自己利益の擁護である。眞の愛は、惡は憎んでこれを排し、善は親しんでこれに與す。憎のない愛は暗やみのない光と同じく、あるがごときに見えて實はないものである。
愛は純なるを要す。これに表裏あるべからず。その外に現わるるや、惡は誠をもつてこれを憎み、善は心よりしてこれと親しむ。しかしてその内に働くや、「兄弟の愛をもて互いに愛し、禮義をもて相譲る」という。なんじら肉親の情をもつて互いに相愛すべしと。キリストの血によりてあがなわれし者は、骨肉もただならざる愛をもつて互いに相愛す。信仰の純正なるところに必ずこの愛がある
「見よ、兄弟相むつみて共におるは、いかに善く、いかに樂しきかな」とある詩篇百三十三篇の情である。ほんとうの兄弟姉妹の情は、これをクリスチャンの間において見るべきである。しかし事實はいかに?
骨肉もただならざる愛と、これにあわせて禮儀が必要である。禮儀または敬意である。「禮儀をもて相譲り」、愛は禮儀によりて維持せらるFamlliarity begets contempt(なれ過ぎて輕蔑生ず)と。禮儀の缺くるところに愛は消え去る。しかして禮は虚禮でない。尊敬である。信者の間にありては、各自のうちに宿りたもう聖靈に對する尊敬である。この尊敬がありて、眞(まこと)の愛が生(おこ)るのである。自分の救われし實驗に照らしてみて、信者は相互を敬い愛せざるを得ないのである。「禮儀をもて相譲り」、「おのおの、へりくだりたる心をもて、互いに他をおのれにまされりとせよ」。禮儀をもつて現われざる愛は、神より出でたる愛でない。
「勤めて怠らず、心を熱くし、主に仕え」、愛はいつまでも愛情としてとどまらない。必ず行爲となりて現わる。奉仕せんとする。なさざるを恥とする。單に義務の急に駆られて勤むるのではない。熱心、事に當たらんとする。人に盡くさんとしてにあらず、主キリストに仕えんとしてである。勤勉と熱心と報恩、信者相互の間におこなわるる愛の行爲に、この特徴はまぬかれないはずである。古き昔の夢というか。今日これを復興することができる。「なんじら、主の惠み深きをあじわい知れよ」。されば今日再びこれを實現するを得ん。
 
 
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