内村鑑三 創世記 洪水以前 1.万物の原始

洪水以前記
 
1.万物の原始  創世記第一章一節       1900(明治33)9
 
 元始(はじめ)に神天地を創造(つく)り給へり。
儒教の総ては学而〔がくじ〕の一節に籠り居るとは余の曾〔かつ〕て聞きし所なり、正当に之を解せば或は然るやも知れず、創世記は基督教聖書の最始の書にして其第一章第一節は其内に基督教の総てを含み居るやも知れず、其深淵量るべからざるの言なる事は之を一読して明かなり。
「元始(はじめ)」は何の始め乎、若し始めあれば終なかるべからず、是れ神の存在の始めにあらざるは明かなり、そは始ありて終ある者は神にして神にあらざればなり、神は造て造られざる者なり、生んで生れざる者なり、始あるものは神にあらず、「元始」の一言の神に関係なきは勿論〔もちろん〕なり、然らば何の「元始」か、勿論天地の始めなり、此〔この〕広大無辺の宇宙、是れ木の如く、草の如く、人間の如く、蜉蝣〔かげろう〕の如き始ありて終りある者、即ち造られし者にして終〔つい〕には消ゆる者、即ち時限的のものなり、既に「元始」と云ふ、是れ其の曾て存在せざりし時ありしを証明するの言なり。
「神」、在て在る者、在〔いま〕さゞる処なきのみならず、在〔いま〕さゞりし又は在〔いま〕さゞらん時のなき者、霊にして又力、義にして又愛、言行一致して基言や行はれ、行はずしては言はざる者、唯一の完全者、万物の造主、人間の父にして又其友、天と地と其内に在る総てのものは如斯〔かくのごと〕き者の造り給ひしものなり。
神! 彼は実に存在する者なる乎、彼が宇宙を造りしとの証拠は何処にあるや、世に無神論を唱ふ者多きに非ずや、誰か肉眼を以て神を見し者ぞある、神が宇宙を造りしと云ふ、妄誕も亦甚しからずやと、然れ共創世記の記者は如斯(かくのごと)き無益なる問題には頓着(とんちょく)せざりしなり、彼は子が父の在るを識りしが如くに神の在るを知れり、彼に取りては神の存在ほど確かなる事実はなかりしなり、宇宙は幻なるやも知れず、然れども実の実は神なり、神の存在を疑はん乎、是れ存在其物を疑ふ事にして、神を信ぜずして実は確信なる者はなき筈なり、創世記々者は哲学者に非ず、又神学者にもあらざりしなり、彼は先づ神の存在を証拠立て然る後に彼の記述に着手せざりしなり、彼は神の実在を自明的真理(セルフエピデント)として受けたり、彼は或は迷信家なりしやも知れず、然れども彼が今日世に称する疑
ふのみにして曾て信ぜしことなき哲学者の類にあらざりしは明かなり、若〔も〕し神の実在が自明的真理なりとせば、何故に何人も直に之を信ずるに至らざる有神論者の小数にして無神論者の多数なるは是れ何の故ぞと、是れ吾人の屡々耳にする質議なり。
人が神の実在を認め能はざるは彼の脳力に不足あるが為めに非ず、大学院に入て哲学を修め得る者が必しも神を認め得る者に非ずして、正直に農業に従事する昔時の予言者アモスの如き者が最も能く神の事に就て識る者なり、神は推理(ロジツク)にはあらざるなり、神は霊にして真(まこと)なり、故に霊ならず真ならざる者は如何に透明なる脳漿を有するにもせよ神を認むる事能はざるなり、利慾主義の哲学者はドコまでも利慾主義を主張す、余は未だ哲学に由て主義を更(か)へし人のありしを知らず、彼れ或は非常の困難に際会して、或は積善家の愛心に感じて彼の主義と哲学とを変更するに至りし事はあらん、然れども単に推断(Ratiocination )に依てのみ神は認めらるべき者に非ず。
「愚かなる者は心の中に神なしと云へり、彼等は腐れたり、善を行ふ者なし」と(詩篇第十四篇一節) 即ち聖書記者の説に依れば神の存在を信ぜざる者は愚かなる者腐れたる者なりとなり、言甚だ独断的に似たり、然れども能〔よ〕く其真意を探りて、記者の此言の真に事実に近きを知るべし、真に正義にして真に真面目なる者、真に愛心深くして真に無私なる者、真に人の善を思ふて其悪を意〔おも〕はざる者にして、神の存在を聞いて之を否む者あるべからず。
「天地」現象的宇宙の総て、天と地と其内にある総ての者、星と日と月とは勿論、地と其内に在る総ての鉱物と植物と動物と、而して人と彼の中に宿る霊魂と、是れ総て神の造りしものなりとなり。
「創造(つく)り給へり」希伯来〔ヘブライ〕語のBara なり、創造の意なり、既に存在せるものを取て之を改造せりとの意にあらずして、天地万物を創作せりとの意なり、工匠が木と石とを以て家を作るが如くにあらずして、美術家が粘土を取て像を作るが如くに非ずして、彼の一言を以て、彼自身の中より神は天地を造り給へりとの意なり、Bara 必しも無より有を作りしとの意にあらざるべし、そは既に神在て後の創造なれば、是れ絶対的の創始にはあらざるなり、然れども神の創造の人のそれと異なる点は人は僅かに比較的にのみ創作的なるに止で絶対的に然る能〔あた〕はざるに比して、神は何人にも何物にも頼ることなく、自身、彼れ自身より総てのものを作り給ふなり、世に絶対的に独立なるものは神のみにして亦絶対的創作者たり得る者は彼のみ、神は一の宇宙を改造して他の宇宙を作り給はざりしなり、彼は亦彼れ以外に存在する者を取て彼の宇宙を作り給はざりしなり、又天地は神の造りしものなり、神自身又は神の一部分にはあらざるなり、神の作りし者なるが故に神聖なるは勿論なれども之を神なりとは云ふを得ず、神聖なることと神とを混同する者は物と物の性質とを混同する者にして如斯〔かくのごと〕き者は反〔かえつ〕て神を涜〔けが〕す者なり、偶像崇拝の非理は此に存す。
「元始に神天地を造り給へり」、此一節に基督信者の宇宙観と人生観の一部とあり、宇宙大なりと雖〔いえ〕ども神に造られしもの、故に神が之を変更し、又は改造し、又或る場合に於ては其運行を中止し又は早め得るは勿論なり、こゝに於てか奇跡(ミラクル)なるものゝ信じ難き者に非〔あらざ〕るは明白となるなり、神に造くられたる宇宙が神の支配を受くるは当然にして、彼が一言の下に其波を静め、其地球の回転を一時中止したればとて決して怪しむに足らざるなり、基督教は宇宙万能説を取らず、基督教は神は宇宙の上に立つ者なるを知るが故に、其信者は神に依頼して宇宙の奴隷たらざるを得るなり、既に神の造りし宇宙、然れば是れ我父の園にして、我其中に住(じゅう)して恐怖ある可〔べか〕らず、我れ吾国を去て他国に行かんか、神必ず其所にあり、我此地球を去て木星又は水星に至らんか、彼必ず其処にあり、彼はオライオン星にあり、ブライアデス星にあり、而して遠く此宇宙を離れ他の宇宙に至るも我が父は亦其処にあり、神と和し神の子となりて、宇宙は美はしき楽園となり、我れ其所に彼の偉業を讃(たた)へ、口に彼の栄光を唱へながら死の睡眠に就く時は彼は再び彼の聖手に我を受けて、新らしき天地新らしきエルサレムに我は永久に彼の聖名を讃ふるに至らむ。〔以上、930