内村鑑三、創世記 女性の創造エデンの園(中)

5.女性の創造エデンの園()〔創世記第二章第一五節―第二五節〕
 
 
 
十五、ヱホバ神其人を挈て彼をエデンの園に置き之を理め之を守らしめ給へり。
 
人は成り、園は設けられて神はその創造〔つく〕り給ひし人を挈〔とり〕て彼を其設け給ひし園に置き給ひぬ、之れ人をして園を理〔おさ〕め且つ之を守らしめんためなりといふ、「理め」は整理なり、修飾なり、園をして荒廃に帰せざらしむることなり、之を利用して濫用せざることなり、「守る」は保存なり、天然の美を害はざることなり、園は人に委托せられたり、彼は之を理め之を守るの義務を担はせられたり、遊惰に耽〔ふ〕けんがための庭園にあらず、福利と智能とを開発せんための神の労働園(task-garden)なり、
 
○始祖アダムは人類を代表し、エデンの園は地球を代表す、神は人類を地球に置き給ひし意味に於てアダムをエデンの園に置き給へり、五千二百五十万方哩の陸面はより大、、なるエデンの園にして十五億の生霊はより大なるアダムなり、人類も亦〔また〕地球を理め之を守るの義務を委托されたり、彼は今ま如何〔いか〕に此義務を果たしつゝある乎、是れ世界歴史の教ゆる所なり。
 
 
 
十六、十七、ヱホバ神其人に命じて言ひ給ひけるは園の各種の樹の果は汝意のまゝに食ふことを得、然れど善悪を知るの樹は汝その果を食ふべからず、汝之を食ふ日には必ず死すべければなり、園中に多くの樹木繁茂せり、其或者は漿果を生じ、或る他の者は梨果を生ぜり、桑果あり、球果あり、瓠果〔こか〕あり、堅果ありて、人は総て之を食ふの自由を許されたり、然れども彼に許されし自由は無条件の自由にはあらざりし、之に一つの厳命は附着せられたり、そは人は依頼的実在物にして、彼は絶対的自由を享〔う〕くべき者にあらざればなり、人の享〔う〕くべき完全の自由は彼が神に依て享〔う〕くる自由なり、彼が神の如くなりて絶対的自由を楽まんとする時に彼は堕落し、彼れは精神的に死するなり、是れ道義学上の大問題、創世記の記事に深遠量るべからざる
 
者なり
 
 
 
○「善悪を知るの樹」は一には人の善悪を定るの樹なり、即ち彼の試験石なり、二には彼をして善悪を分別せしむるの樹なり、即ち其果を食ふ者は神に依らずして自身善悪を判分するを得べしとなり、即ち之を食ふの日には彼の目開けて、彼は神の如くなりて事物の善悪を識別するを得べしとなり(第三章五節を見よ)、人は小児的依頼(神に対して)を維持すべきか或は成人的独立に達すべきか、是れ此試錬の樹に由て定めらるべき実際的大問題なりし。
 
 
 
十八、ヱホバ神言ひ給ひけるは人独なるは善からず、我彼に適ふ助者を彼のために造らんと。
 
 
 
始めに創造られし人は男性なりき、彼は独り耕耘者として整理者としてヱデンの園に置かれたり、然れども彼は独り此聖業に従事すべき者にあらず、人、独なるは善からず、是れ第一に彼自身のために善しからず、男性は天然性の半分なり、其完全せんが為には之に適ふ補欠性(サツプルメタンリーキヤラクター)を要す、第二に彼の事業の為めに善しからず、天然に男性あり、亦女性あり、女性は女性を俟〔まつ〕て始めて能く発達するを得べし、神は男のみを創造り給ひて未だ其創造の偉業を完ふせられしと云ふを得ず、彼は更に男に優る者を造らざるべからず。○「助者(たすけ)」男子の補助者なり、其翼賛者なり、其共働者なり、男子の玩弄具にあらず、彼を娯〔たのし〕ませんための装飾品にあらず。
 
 
 
十九、ヱホバ神土を以て野の諸の獣と天空の諸の鳥を造り給ひてアダムの之を何と名くるかを見んとて之を彼の所に率ゐいたり、給へり、アダムが生物に名けたる所は其名となりぬ。
 
神が土を以て獣と鳥とを造り給ひしは彼が同一の物質を以て人を造り給ひしに同じ、聖書は創造の結果を述るに止て其手続に及ばず
 
○「アダム」の名始めて此所に現はる、是れ前に「人」と訳されし希伯来〔ヘブライ〕語其儘なり、「アダム」は「土」の意にして彼は土の塵を以て造られしが故に斯く名けられしなり、土より出て土に帰る者、菫花一朝の夢、たゞ其衷(うち)に神の生気を宿すが故に万物の長として崇〔あが〕めらるゝに至れり、希臘〔ギリシア〕語の「人」(anthro- pos)は「上を仰ぎ瞻〔み〕る者」の意なりと云ひ、英語のman は梵〔ぼんご〕語のmnu より来りしものにして「思考する者」の義なりと云ふ、希臘語英語は人の理性を指し、希伯来語は彼の肉性を示す、卑くして貴く、貴くして卑しき者は人なり、アダム()の名に同情の涙の掬〔きく〕すベきあり。
 
○神はその造り給ひし獣と鳥とをアダムの前に率〔ひき〕ゐいたり給ひて之に命名せしめ給へりとなり、「名を附ける」とは之を解説〔デスクライブ〕することなり、即ち物の関係を示し、類似殊異に依て之を分類することなり、是れ博物学の目的とする所なり。
 
人は神に像〔かたど〕られて造られし者、故に彼は神の意匠を究むるの理解力を有す、神が天然物を造り給ひし其目的の一は人智を発達修練せんとするにありたり、神の造り給ひし物を究めて吾人の智能を研磨するは吾人の当〔ま〕さに為〔な〕すべき事なり、神はその造り給ひし獣と鳥とを率ゐ来りて之をアダムに示し、彼をして之を学ばしめ給ひしとなり、依て知る博物学の研究は人類が創造の初めに於て神より直に示されし者なる事を、神の造り給ひし者を直接に神より受けて之を学ぶ、神を知り真理を究むるの方にして何物か之に勝〔まさ〕る者あらん耶〔や〕、博物学は人類最初の学問なり、哲学なり、政治学なり、経済学なり、是れ皆な人類の堕落を以て始まりしもの、造化の初期に方〔あたつ〕てエデンの園に樹花林葉の未〔いま〕だ尚ほ香ばしき時に人の苦悶せし問題にあらざりし、獣を分類すること、鳥を説明すること、見れアダムの受けし教育なりし、美はしきかな天然学、害なくして益多く、天然を通して直に天然の神に達す、来れ社会学者よ、汝は罪悪学者なり、来て森に禽鳥の声を聞け、出て山に野獣の常性を学べよ、天然詩人
 
は言ひしにあらずや
 
One impulse from vernal wood
 
Will teach us more of man
 
Than all the sages can.
 
(春の森より来る、感動の一閃が人類に就て教ゆるところは総ての哲人の教ゆる所に勝る)
 
 
 
二十、アダム諸ての家畜と天空の鳥と野の諸ての獣に名を与へたり、然れどもアダムには之に適ふ助者見えざりき。
 
 
 
アダムは総ての家畜と鳥と獣とを撿査せり、彼は其美に驚きしならん、彼は之に造化の美妙を認めしならん、然れどもアヽ鳥は鳥にして人にあらざりき、鴬は善く囀〔さえず〕るも彼に人に同情を寄するの心あるなし、馬はよく走る
 
も彼に人を知るの智能なし、天然は人の善き友なり、然れども彼の助者にあらず、吾等は同情者を要す、吾等と性を同うし、目的を同うし、存在の理由を共にする助者を要す、獣は多し、鳥は多し、草木の種類に数限なし、然れど天地万物何者も吾等の寂寥を慰むるに足らず、男子は女子を要するなり、而も卑猥なる意味に於てせずして、最も高潔なる意味に於て彼は彼女を要するなり。
 
 
 
二一、二二、是に於てヱホバ神アダムを熟く睡らしめ睡りし時其肋骨の一を取り肉をもて其処を填塞(ふさ)ぎ給へり、ヱホバ神アダムより取たる肋骨を以て女を作り之をアダムの所に携れ来り給へり。
 
 
 
雌雄両性の分化(differentiation of sexes)は生物学上の大問題なり、最下等動物に在ては両性の同一体に存するあり、其稍〔や〕や進化せし者に至ては一体にして両性を具へながら時に依て雄〔おす〕のみの用をなし、亦雌〔めす〕のみの用をなす者あり、両性の全く分離するは之を比較的上等動物に於て見るを得べし、故に若〔も〕し進化論の提議にして誤りなくば(而〔しか〕して余輩は其大躰に於て之に賛す)人類に於ける男女の分化はその創造以前に於て成りしものと見做〔みな〕さゞるべからず、女は直に男より取られし者にあらずして、二者の分化は生物学上人類以下の動物に於て成就されしものならざるべからず、茲〔ここ〕に於てか創世記の女性創造の記は生物学の明白なる指示に反するが如しと云ふ者あり。
 
然れども是れ未だ創世記々者の真意を知らざる者の言と云はざるべからず、記者は造化の結果を言ふに止〔とどまつ〕て、、其方法を語らず、人は土の塵を以て造られたりと云ひて如何なる順序を経て土塊が生物の長たる人と成りし乎〔か〕に就て言はず、女の創造に就ても亦然り、記者は言はんと欲す「男女は素〔も〕と是れ一体なりしもの、其今分れて二者たるは創始(はじめ)より二者分離せるが故にあらず」と、両性一源の深き真理を世に伝へんが為めに記者は此事を茲に記載せしなり、然らば記者は何故に単に此事実を言はずして奇談に類したる肋骨剜取〔ろつこつえぐりとり〕の記事を載せしやと問ふ者あらん、吾人は之に答へて曰ふ、是れ幼稚の人類に両性一原の真理を伝ふるに最も簡易なる途なればなりと、神は最始の女子を最始の男子に紹介せんとするに方〔あたつ〕て、夫妻合同の大真理を示さんとし給へり、故に彼はアダムを熟睡に導き彼に肋骨分取の幻景を示し、以て此深き真理を彼に示し給ひしなり、神は斯〔か〕く為し給ひてアダムを欺〔あざむ〕き給ひしにあらず、恰〔あた〕かも吾人が児童に深遠にして彼等の智識の程度を以てしては到底解し得べからざる真理を伝へんとするに方て卑近の例を引き又は簡易の実例を以て彼等を教へんとするも是れ彼等を欺くにあらざるが如し、要はアダムをして夫妻合同の神聖を知らしむるにありたり、而〔しか〕して彼が幻景に於て見し女性形成の現象は彼をして能く其真理なるを了〔さと〕らしめたり。
 
女は男の肋骨より作られしとなり、アダムは此事を示されて女性に対して如何なる観念を懐くに至りしや、彼は
 
()彼女の彼と同体なるを知れり、()彼女が彼の頭骨より出でしにあらざるを見て彼は彼女に服従すべき者にあらざるを知れり、然りとて彼女は彼の四肢より成りし者にあらざれば彼の使役すべき者にあらざるを教へられたり、男の胸部より出し女は彼と同等の者なり、彼の主にあらず、亦彼の婢にあらず、彼の妻なり、彼と栄光を共にする者なり、アダムは幻景に於て社会学上の此大真理を教へられたり、()胸部は情の存する所、肋骨より出し者なりとして示されたる女は特別に男の同情者なり、彼の愛を受け、彼に愛を供する者なり、単に労働の伴(とも)なるのみならず、単に智識の分配者なるのみならず、特別に愛情の共享者なり、女が男の助者たるは特別に愛の一点に於て然るなり、聖く愛せられんことは彼れの最も要求する所にして、神に在て彼を愛して女は男の偉大なる助者たるを得るなり、神の何たるを知らず、男性の何たるを知らざる女は男に頼るを知て彼を助くるを知らず、彼に愛せられんことを欲して彼を愛せんと欲せず、男の肋骨より成りし女は彼の心情を強めて彼の大補佐たるを得べし、亦彼を通して有力なる女王たるを得るなり。
 
 
 
二三、アダム言ひけるは此こそはわが骨わが肉の肉なれ此は男より取たる〔骨の〕者なれば之を女と名くべしと。
 
アダム睡眠より覚めて之を言へり、彼の言に驚駭の調あり、彼は総ての獣と鳥とを視察せり、然れども彼に適合するの助者を其中に発見する能はざりし、然〔しか〕るに彼は今彼の前に立たる彼に類したる而も彼と異なりたる彼の生涯の伴を見たり、故に彼は叫んで此言を発せり。○「骨の骨、肉の肉」、親近之に勝〔まさ〕る者あるなし、同一体の分離せし者、自我の異体となりて現はれし者、是れ女なり、妻なり、創世記々者の言に詩人の理想あり、○「男(ish)より取たる者なれば之を女(ishah)と名くべし」と、希伯来〔ヘブライ〕語の女は男の女性名詞なり、日本語の男(をとこ)は小之子の転にしてその女(をんな又をみな)は小見人の音便なりと云へば二者の間に根詞的関係なきが如し、英語ヲツコヲミナのwoman wifmann 又はwife-man にして人の妻を指すの言葉なりと云ふ。
 
 
 
二四、是故に人は其父母を離れて其妻に好合ひ二人一体となるべし。
 
夫妻の関係は人類の関係中最も親密なるものにして親子の関係も之に及ばずとなり、是れ支那学者をして幾回となく躓〔つまず〕かしめし基督教の倫理なりとす、彼等は憤〔いきどおつ〕て曰〔い〕ふ是れ基督教の背倫たるの証なり、妻に厚くして父母に薄きが如き、是れ忠孝道徳を其根底に於て破壊する者なりと。
 
或は然らん、然れども偏執は事実を曲る能はず、基督教の夫妻観は社会に健全にして幸福なるホームを供して不自然にして不愉快なる支那的家庭を排しつゝあり、善良なる夫と妻と父母と子とは前者に多くして、後者に尠〔すくな〕きは何故ぞや、姑媳〔こそく〕の嫉視争鬩〔そうげき〕は何に因て来るや、何故に支那風の家庭に礼多くして実〔じつ〕尠きや、儒教的家庭を覗〔うかが〕ひ見よ、何ぞ其中に不平多きや、悲憤多きや。
 
支那的道徳は不自然なればなり、夫妻天然の愛情を妨げんと欲する者なればなり、故に見よ、支那学者は彼等の索〔もと〕めつゝある孝道をも得る能はざるを、然り彼等の得し孝道なる者は圧制的に得しものなるが故に偽善的なり、
 
夫妻に天然の要求する愛情を許さゞる支那道徳は子たる者并〔ならび〕に媳〔よめ〕たる者より満腔の愛心を買ひ得ざるなり、支那学者は子に愛せられんと欲して僅かに彼等に懼〔おそ〕れらるゝ者、怕〔おそ〕れらるゝを見て愛せられしと謬信して喜ぶ者り、父母を離れて妻に好合〔あ〕へとは妻のために父母を捨てよとの意にあらず、又妻たる者の言とあれば何事も之を採用せよとの教訓にもあらず、是は之れ神の教理にして天然の声なり、即ち人は情に於ては其父母を離れても其妻に好合はんと欲すとの彼の本能(インンスチンクト)を言ひ現はせし言なり、若し此本能あるが故に子を責〔せむ〕る者あらば是れ天然を
 
責る者なり、神の造化を責るものなり、吾人は信ず、最も高尚にして最も誠実なる孝道は此本能の中に存することを。
 
「一体となるべし」、命令的動詞にあらず「ならん」と読む方返〔かえつ〕てよく原意に適〔かな〕ふならん、(独逸訳のwer-den sein Ein Fleisch を参考せよ、之を英訳のshall be one flesh と読んで原意を誤り易し、) いま全節を意訳して左の如くに為さんには原意は一層明瞭なるを得べし。
 
此故に人は其情に於ては其父母を離れても其妻に好合〔あ〕ひ二人一体とならんと欲するなるべし。
 
 
 
二五、アダムと其妻は二人共に裸体にして愧〔はじ〕ぢざりき。
 
裸体を愧〔はじ〕るの念は人類堕落を以て始まれり(三章二十一節を見よ)、彼等が未〔いま〕だ罪の何たる乎を知らざりし時に、彼等の肉体に不浄なる情慾の現はれざりし前に、彼等は裸体を以て愧(は)ぢざりしなり、若し審美的に之を評せん乎、何物か人の身体に優〔まさつ〕て美なる者あらんや、是れ神の形に象(かたどら)れて造られし者なりと云ふ、天使の姿も之に優るものにはあらざるべし、之を無辜〔むこ〕の小児に於て見よ、宝玉の美も遥かに之に及ばざるにあらずや、綺羅〔きら〕を以て体を掩〔おお〕ふは実は襤褸〔らんる〕を以て真珠を包むの類ならずや、此整備せる身体に就て吾等が耻づるに至りしは抑々〔そもそも〕何が故ぞや、吾等は大美術家の筆に就〔な〕りし裸体画を見て些少の悪感を覚えざるなり、不浄の人に依て画かれし裸体画が不浄の人の眼に触るゝに及んで汚穢の念は懐かるゝなり、保羅〔パウロ〕曰く「潔人(きよきひと)には凡〔すべて〕の物清く、汚れたる人と不信者には一として潔き物なし、既に彼等の心と良心ともに汚れたればなり」、(提多〔テトス〕書一章十五節)、裸体の醜態に就て侃々〔かんかん〕する者は宜しく先づ其心と良心とを潔〔きよ〕むべきなり。〔以上、明治341120
 
 
 
6.人類の堕落〔創世記第三章〕
 
 
 
第三章一、エホバ神の造りたまひし野の生物〔いきもの〕の中に蛇最も狡猾〔さが〕し蛇婦〔おんな〕に言ひけるは神真〔まこと〕に汝等園の諸〔すべて〕の樹の果〔み〕は食ふべからずと言ひたましや、二、婦蛇に言けるは我等園の樹の果を食ふことを得、三、然〔され〕ど園の中央〔なか〕に在る樹の果実〔み〕ば神汝等之を食ふべからず,又之に捫〔さわ〕るべからず恐くは汝等死〔しな〕んと言給へり、四、蛇婦に言ひけるは汝等必らず死る事あらじ、五、神汝等が之を食ふ日には汝等の目開け汝等神の如くなりて善悪を知るに至るを知りたまふなりと、六、婦樹を見〔みれ〕ば食ふに善く目に美麗〔うるわ〕しく且智慧〔かしこ〕からんが為に慕はしき樹なるによりて遂に其果実〔み〕を取て食〔くら〕ひ亦之を己と偕〔とも〕なる夫に与へければ彼食〔くら〕へり、七、是〔ここ〕において彼等の目倶〔とも〕に開〔ひらけ〕て彼等其裸体〔はだか〕なるを知り乃〔すなわ〕ち無花果樹の葉を綴て裳〔も〕を作れり、此処に所謂〔いわゆ〕る「蛇」は蛇なり、蛇如何にして人を欺くを得んや、是れ聖書の此句に対して常に起る疑問なり。
 
然れども今此問題を他の方面より考究し見よ、人類は何故に蛇類を忌み嫌ふや、何故に極悪の人を指して蛇蝎と称ふや、狂すれば蛇を想ひ、魘(うな)さるれば蛇を夢む、蛇其物が醜悪なる動物なるに非ず、其中に毒液を蓄ふる者あるも是れ彼等の中の小数のみ、人類(殊に女性)が蛇を嫌悪するは実に其本性に属す、是れ何に因て然る乎。
 
悪鬼を指して蛇と言ふ、是れ孰〔いず〕れの国語に於ても見る所なり、「大なる竜、即ち悪魔と呼ばれ、サタンと呼ばるゝ者、全世界の人を惑はす老蛇」(黙示録十二章九節)、とあるを読んで吾人は悪魔、老蛇の同一物なるを知る、
 
素盞嗚尊(すさのをのみこと)が斬り給ひしと云ふ、妖蛇(おろち)は蛇なりし乎、賊なりしか、吾人は深く之を究むるを要せず、蛇是れ賊なり、賊是れ蛇なり、人類の言語に蛇と賊とは同意義たるに至れり。
 
「蛇婦〔おんな〕に言」ひたりと読んで吾人は蛇に発音器(ものいもの)なきが故に言(い)ひ能(あた)はざるを知る、彼れ亦無智の生物、人を惑はす者にあらざるを知る、然らば人を欺きし者は誰ぞ、勿論蛇を以て代表されたる悪魔なり、吾人は彼れ悪魔の何たるを知る、彼は蛇の如く智(さと)く其貌姿(すがた)は優しく、其挙動は温雅なり、未だ曾(かつ)て彼の譎計〔けつけい〕に陥りしことなき者は必ず彼を指して義人なり、仁者なりと做〔な〕す、而も彼は彼の腹中に利剣を蔵す、一度び彼の毒牙に触れて何物も其捕握より免かるゝ事能はず、彼は離間者なり、疑察者なり、彼に因て人類は今日の悲惨に陥りしなり。
 
物界は霊界の模型なり、聖者を代表するための鴿(はと)あり、悪魔を代表するための蛇あり、聖霊は鴿の如く天より降りて基督の上に止りたりと云ふ、物を以て心を語る、之を詩歌と云ふ、詩歌は比喩(たとひ)にあらず、詩歌は物の真意を発見する者なり、悪魔を指して蛇と云へるは詩歌的言語なり、然れども詩歌的なればとて虚偽の言にあらず、能く聖書記者の天然観を解して、此種の語法を解する易し。人類の堕落は彼が制限外の智識を得んと欲せしに基因す、彼は園の中にありし都〔すべ〕ての果を食ふことを許されしも其中央にありし善悪を知るの樹の果のみは之を食ふことを禁ぜられたり、是れ彼の為に計て最も有益なる神の規定なりしなり、彼は神と宇宙と人生とに関し都〔すべ〕ての事を知る能はざるのみならず、亦之を知て返〔かえつ〕て彼に害あること尠〔すくな〕からず、例へば生死の時期の如き、是れ彼の知り得べからざる事たるのみならず、知て返〔すくな〕て彼に害を及す者なり「無学は幸福なり」との標語は文運隆盛の今日に於ても多くの場合に於て尚ほ真理たるを失はず、人の知るべきことあり、知るべからざることあり、人は万事万物を究め尽して神の如くならざるべからずとは是れ大望の如くに聞えて実は虚望なり、彼は自身総ての事を知るを要せず或る事は直に之を彼の神に聞き、神の命を受けて信じて之を行へば足れり、是れ人たるの彼の本分にして、此本分を捨て神を離れて独り立たんと欲せしが故に彼の堕落は来りしなり。
 
而して善悪を知るの樹とは如何なる者なりしぞ、是れ「食ふに善く、目に美麗(うる)はしく且つ智慧(さと)からんが為めに慕はしき樹」なりしとぞ、噫〔ああ〕、今日世に称せらるゝ無神主義なる者は如斯〔かくのごと〕きものにあらざる乎、天地に我と万物とを支配するの主宰あるなく、我は独り此世に立て独り我が運命を形成するを得べしと、其主張の如何に勇壮にして、其志望の如何に遠大なる、是を有神主義が神に対する服従を教へ、我意の抑圧を説くに較〔くら〕ぶれば、二者の優劣は疑ふべくもあらじ、宜〔うべ〕なり、人類の始祖が悪魔の此誘惑の言に接して強く之に抗すること能はざりしは、吾人今日心に此言に接して時に吾人の迷信を歎じ、神を棄て、基督を去て、無神哲学に身を委ねんとするに非ずや、アダムとヱバとは虚望、傲慢、自信の故を以て神より離れたり、而して神より離れて彼等は自己を守る能はずして、終〔つい〕に総ての罪悪を犯すに至れり、神、予言者ヱレメヤをして其国人に言はしめて曰く、「我が民は二つの悪事をなせり、即ち活ける水の源なる我を捨て、自から水溜(みずため)を掘れり、即ち壊れたる水溜にして水を有〔も〕たざる者なり」と(耶利米亜〔エレミヤ〕記二章十三節)