内村鑑三 創世記 洪水以前 2.天地の創造

2 天地の創造  創世記1231
 
第二節 地は定形なく曠空(むなし)くして黒暗(やみ)淵の面(おもて)にあり、神の霊水の面を覆ひたり。
「地」、此堅き地、岩を以て骨となし、川を以て脉〔みやく〕となし、海を湛〔たた〕え、気を以て包まるゝ地球、週囲二万五千哩〔マイル〕の大固形躰、天地の元始(はじめ)に方〔あたつ〕ては是れ如何なる物躰なりしぞ。「定形〔かたち〕なく」、固形躰ならざりしのみならず、液躰ならざりしのみならず、地に形として認むべきものは一として存せざりしなり、定形なしとは無形の意にあらず、希伯来(ヘブライ)語のトーフー(tohu)に荒廃の意あり、又虚無を意味する事あり。「曠空〔むな〕しく」、ボーフー(bohu)、其原意に於てトーフーと異なることなし、二語相合して茫漠の甚だしきを示す、物の混沌たるを希伯来(ヘブライ)語にては「トーフー又ボーフー」と云ふ、社会混乱の状を示すに亦此聯語を用ゆることあり、(以賽亜〔イザヤ〕書第三十四章十一節参考)
 
「黒暗〔やみ〕」、光明の不足にあらずして、其皆無の状態を云ふ、神未〔いま〕だ光を呼び起し給はざりし時なれば、其闇黒の状は吾人の想像以外にあり、絶対的暗黒、星なく月なかりしのみならず、波濤の揚がると同時に海面を照らす燐光すらもなかりしなり、或は此状態を称して固形的闇黒と云ふことあり、即ち闇黒其全部全体を占めて、色なく光なく、暗き事錬銕〔れんてつ〕の一塊、内に一罅〔いつか〕の空虚を留めざるが如し。
 
「淵〔わだ〕」、河海又は沼沢の淵を云ふにあらず、此時未だ水の乾燥を潤すなく、河の生命を供するなし、淵は混沌の淵なり、底無き暗き空間の淵なり、其深き事眼りなく、其凄(すご)き事限りなく、岸有て青苔の之を装ふなく、底有て砂礫の水を遮るなし、曠空の淵は無限より無限に渉りて、整育秩序の希望の絶えて其中に存するなし、山あり、川あり、花あり、泉ありて吾人の心身を歓ばす此宇宙も其元始(はじめ)は如斯〔かくのごと〕き空漠の淵たりしなり。
 
「神の霊水の面を覆ひたりき」、茲〔ここ〕に云ふ水とは水素と酸素との化合物を云ふにあらず、そは此時未だ水なる者は造られざればなり、水は淵に対して云ふ、万物猶ほ曠空混沌の状態にありしを形容して云へるなり、恰〔あたか〕も英語のfluid なる詞の如し、必しも液躰を指すの詞(ことば)にあらずして、瓦斯〔ガス〕躰にして其分子の流動する者をも亦此詞を以て示す事あり、希伯来(ヘブライ)語のマイーム()にも亦此意味ありと云ふ。
 
「覆(おおう)ふ」は鶏が翼を以て其雛を覆ふの状を示すの詞なり、即ち愛育の意にして意味深長計るべからず。地は茫々漠々定形なくして空虚の如く、黒闇深淵を包みて(面にあり)万物混沌を極めし時、神の霊は牝鶏が翼を以て其雛を覆ふが如く、此暗き、希望なき、秩序なき、元始の宇宙を覆ひたれば、之に開発、啓導、進歩、改善の希望は存せしなり、神は凡ての秩序の真元なり、神ありて平和あり、調和あり、美術あり、音楽あり、物質は其本性に於て戦乱的なり、之をして其本性の儘〔まま〕たらしめんか、整理なるもの其中より来るなし、神の霊の其中に注入せらるゝ丈け夫れ丈け物質は和合一致するなり、造化が其完全に達する時は神の霊が之を透通する時にして、進歩の多寡は此〔この〕透通の度如何〔いかん〕に依るなり、神の霊が僅かに其表面を覆ひし時は宇宙が混乱を極めし時にして、同一の霊が其真髄をまで感化せし時が其新天地となりて、新婦(はなよめ)の如くその天より降る時なり、然れども如何に混乱を極めし時と雖〔いえど〕も神の霊の之を放棄せし時はあらざりしなり。
慰めよ、宇宙、慰めよ、人類、闇黒汝の面を覆ひ、汝に一点の希望の存せざる時、汝に一定の目的なく、汝は唯無限の淵に輾転〔てんてん〕する時、汝の父の霊は汝を覆ひ、汝を導きて汝をして終〔つい〕に光明の域に至らしめん。
 
第三節神光あれと言ひ給ひければ光ありき。
 
整理第一着は光の現出にあり、其如何なる方法に出づべき乎は猶〔な〕ほ未だ問ふべき所にあらず、先づ光明をしてあらしめよ、然らば秩序は始まらん、黒暗の宇宙に希望現はる。光(ひかり)なり、是を発する太陽にあらず、星にあらず、かの黄道光(ゾジヤカルライト)の如きもの、或は彗星の後に従ふ長尾の如きもの、分子の衝動に依て生ずる微光なりしならん、黒暗静止の宇宙に運動の与へられて、分子は分化を始めて、光(ひかり)是が為めに発す。
神に在ては言へば行はる、彼の力は彼の意志に伴ふ、彼は思ふて行ふ能〔あた〕はざる吾人人類の如き者にあらず、行はざらんと欲せば言はず、言へば行ふ、神に在ては彼の言を実行するに足る総ての力備はる、意志と行動との一致は最も完全に神に於て現はる。
 
第四節神光を善と観たまへり、神光と暗とを分ち給へり。
 
「善と観たまへり」、満足し給へり、彼の聖意に適へりと認め給へり。
光明なり、暗黒なり、光明は暗黒の裡に有て、其一小部分たるに止まりしも、然かも明は明、暗は暗、二者相
混同して、黄昏薄暮の状を呈せず、朦朧〔もうろう〕たるは神の嫌ひ給ふ所、分化は天然の恒則にして亦〔また〕神の聖旨なり。
 
第五節神光を昼と名け、暗を夜と名け給へり、夕あり、朝ありき、是れ首(はじめ)の日なり。
 
昼と夜、光明の域と暗黒の世界、明きは昼にして神と義人との愛する所、暗きは夜にして悪魔と獰人〔どうじん〕との要〔もと〕むる所なり、光に昼なる名誉の名を授け、暗に夜なる汚辱の名を附し給ふ。
「夕あり、朝ありき、是れ首〔はじめ〕の日なり」、ユダ人の一日は日没を以て始り、日没を以て終る、故に夕を先きにして朝を後にせりと云ふ人あり、然れども是れ未だ聖語の真意を穿〔うが〕ちしの解釈にあらざるべし。
黒暗を以て始り、光明を以て終り、絶望を以て始り、希望を以て終る、神の行為に総て此順序あり、希望を約して失望に終らしむるが如き、栄光の冠を戴きて後に耻辱の死を遂ぐるが如き、平和と繁昌とを宣言して戦乱と貧困とを来すが如きは神の決して行し給はざる所なり、「歓喜(よろこび)は朝来る」Light cometh in the morning 戦闘の夜去て後に平和の昼は来るなり、若年を貧苦の中に過(すご)して老年を喜楽の中に送る、夕を以て始り、朝を以て終る、是れ善人の生涯にして亦神の事業の順序なり、夕陽西山に没して黒暗吾人の天地に臨む時に、吾人に新期限はきたるなり、夜は長からん、其戦闘は烈しからん、然れども歓喜は朝と共に来る、夕あり朝ありて、宇宙も吾人も歩一歩を進めしなり。
「首(はじめ)の日なり」、第一日と読むべからず、初期なりとか、手始(てはじめ)なりとか、開始、発端の意を以て読むべし。
「日」は廿四時間の一日にあらざるは明かなり、此時未〔いま〕だ太陽なく、地球なく、吾人の今日称する時間なる者はなかりしなり、聖書に於て「日」なる詞が時期又は期限の意を以て用ひらるゝ事は屡々(しばしば)なり、哥林多〔コリント〕前書五章五節に主イエスの日に救を得せしめんとあり、是れ彼の来らん時の意なるは明かなり、或は「神の震怒の日」と云ひ、又は単に「主の日」と云ふ、共に神が世を裁判(さば)くの日を云ふものにして、二十四時間の時限を指すものにあらず。
 
第六節神言ひ給ひけるは水の中に穹蒼(おおぞら)ありて水と水とを分つべし。
 
「神言ひ給ひけるは」、其将〔ま〕さに就(な)らんとするの兆(しるし)なり。
「水中に」、万物未だ流離して一定の形をなさず、其輾転の滑〔なめら〕かなる、流水の盤中に動くが如し、前述英語のfluid を参考せよ。
「穹蒼〔おおぞら〕」希伯来〔ヘブライ〕語のラキヤーrakiah なり、之を穹蒼(firmament)と訳すべきかは学者間に存する問題なり希伯米(ヘブライ)人の天文説に依れば天は堅くして鋳たる鏡の如きものにして、日月星辰は其実体の中に鏤(ちりば)められ、之に窓ありて雨は之を通して降る、或は天を幕屋に比することあり、詩編に「汝光を衣の如くに纏〔まと〕ひ、天を幕の如くに張り」とあり、勿論地球中心説より打算したる説なれば其今日の科学と符合せざるは茲に之を言ふを要せず。
然れどもラキヤーは必しも穹蒼と訳すべきの詞にあらず、原語に「打ち伸ばす」、「敷衍〔ふえん〕する」等の意あり、亦「稀薄」の意を存す、故に或る学者は之を訳するに単に広遠又は闊大(expanse)の詞を以てせり、其孰〔いず〕れが当を得たる訳字なるかは吾人の今日判定し得る所にあらず、そは太古時代に在ては言語の不完全なるより著者たる者は同一の詞を以て数多の意味を言ひ顕〔あら〕はさゞるを得ざればなり、余は古字を牽強附会〔けんきようふかい〕し以て之を近世科学の学説に符合せしめんと努めざるべし。
然れどもラキヤーの真意味は何であれ、之に依りて天躰の分子と地躰のそれとが相分離するに至りしは明かなり、而して此現象たる宇宙分化の一進歩たりし事は近世科学の充分に認る所なり、先づ同質の分子宇宙に散在し、光、其裏に現はれ、終〔つい〕に別れて天と地とになりぬとなり。
 
第七節神穹蒼を作りて穹蒼(おおぞら)の下の水と穹蒼の上の水とを別ち給へり、即ち斯くなりぬ。
第六節は命令にして第七節は実行なり、重複の如くに見えて実は意義を強むる大なり。
 
第八節神穹蒼(ラキヤー)を天と名けたまへり、夕あり、朝ありき是二日なり。
茲に天地の判然たる別は成れり、明暗の別に続〔つ〕ぎて第二の進化なり、夕あり朝ありて是を造化の二日と称すべし。〔以上、1027
 
第九節神言給ひけるは天の下の水は一処に集りて乾ける土顕はるべしと即ち斯くなりぬ。
地躰は天躰より離れて、凝結順を逐ふて進み、気躰は水躰と成り、水躰は固躰と成れり、茲に於てか気界、水界、陸界の区別は判然たるに至れり、一時は水、全地を掩〔おお〕ひしも地の冷却と共に其表皮に皺〔しわ〕を生じ、水は一処に集りて海となり、土は其内より顕はれて陸となれり。
 
第十節神乾ける土を地と名け水の集れるを海と名け給へり、神これを善しと観たまへり
前に明暗の別を定め、後に天と地とを分ち、今亦〔また〕海と陸とを判別し給ふ、神之を昼と名け、夜と名け、天と名け、地と名け、海と名け給ふとは、之が区劃を定めて之を彼の支配の下に置き給ひしとの意なるべし、彼後に人を造り給ひて、彼()をして諸〔すべ〕ての家畜と天空(そら)の鳥と野の諸ての獣に名を授けしめ、「アダムが生物に名〔なづ〕たる所は皆其名となりぬ」、(第二章十九、二十節)とあり、是れ即ち人をして鳥と家畜と昆虫とを治めしめんとの神の聖意に適はんためなり、之を命名するは之を我が属(もの)となすの意なり、人は彼以下の諸生物を支配するの権理を与へられしも、暗明、天地、水陸は彼の統治以外に在り、是れ神の直接に支配し給ふ所のもの、暗黒は彼の前に消え、怒れる海は彼の命を聴きて静まる。
神は大能〔たいのう〕を帯び、その権力に由りて諸〔もろもろ〕の山を固く立たしめ、海の響、狂瀾〔おおなみ〕の響、諸(すべて)の民の喧囂〔かしがましき〕を鎮め給へり。(詩篇第六十五篇六、七節)
 
エス起きて風を斥(いまし)め且〔また〕海に静まりて穏かになれと曰ひければ風止みて大に和(なぎ)たり、かくて彼等に曰ひけるは何故かく懼〔おそ〕
るゝや、爾曹〔なんじら〕何ぞ信なきか、彼等甚しく懼れ互に曰ひけるは風と海とさへも順〔したが〕ふ是誰なるぞ耶〔や〕。(馬可〔マルコ〕伝第四章三十九節以下)
昴宿〔ぼうしゆく〕及び参宿を造り、死の影を変じて朝となし、昼を暗くして夜となし海の水を呼びて地の面〔おもて〕に溢れさする者を求めよ、
その名はエホバと云ふ。(亜麼士〔アモス〕書第五章八節)
 
第十一節神言給ひけるは地は青草と実蓏を生ずる草蔬と其類に従ひ自から核を有つ所の樹を地に発生すべし
 
と、即ち斯くなりぬ。海陸の別成つて、陸上に草木顕〔あら〕はる、春草(deshe)草蔬(くさ)(eseb)核(たね)を有つ所の樹(en-peri)の三種は植物学的に如何〔いか〕に区分すべきものなるや今之を審〔つまびらか〕にする能〔あた〕はず、或人は曰ふ青草と訳せられし原語は植生一般を意ふものにして、之を草蔬(herb 草本)果実を結ぶ樹(tree 樹木)の二種に分てるなりと、或は然らむ。
「自ら核(たね)を有つ」、訳語不明なり、「核を其内に蔵〔おさ〕むる果実を供する樹」の意なり、高等顕花植物を指して云ふなり、地は植物を発生すべしとありて神植物を創造(つく)り給へりと言はず、蓋〔けだ〕し植物は生物の最下等に位するものにして、地と動物との間に介して、前者を化して後者の餌料となすの地位にあるが故なるべし、章中 創造(bara) 造作(asah) の二語ありて、造化に顕はれたる神の力の強弱を示す、彼は地をして植物を発生せしめしも、天地を創造り、其像の如くに人〔ひと〕を創造り給へり、植物勿論地が神の力に頼らずして独り自〔おのずか〕ら生ぜしものに非ず、然れども地をして生ぜしめし植物は神の創造〔つく〕り給へる禽獣人類の如くに神の造化力を要せしものにあらざるは明かなり。
地作つて青草其面に顕はれ、曠空たりし宇宙に今や新生命を迎ふるの準備は成れり、夕あり朝ありて造化の三日は終りぬ(十二、十三節略す)
 
十四、十五節神言給ひけるは天の穹蒼に光明ありて昼と夜とを分ち、又天象のため、時節のため、日のため年の為になるべし。又天の穹蒼にありて地を照す光となるべしと、即ち斯くなりぬ
地は将〔まさ〕に完成を告げんとし、植生其面に表はれし後に天の諸躰成るとは妄誕(もうたん)も亦〔また〕甚だしからずやと云ふ人あり、然れども是れ創世記々者が地の観察点より天躰顕出の順序を録せしに止〔とどま〕る、聖書は科学を教ゆるの書にはあらざれども、此一事は最も善く科学の教示に適〔かな〕へりと云ふべし、所謂〔いわゆる〕石炭時代と称して植生(しょくせい)の蕃茂(ふぁんも、しげる)其極に達せし頃、地上の蒸気は概〔おおむ〕ね凝結し永久の雲霧は地の表面より去りて日月星辰は始めて天空に顕はるゝに至れり、若〔も〕し地の発達の順序より言へば天躰の顕出は当に此時にあるべきものなり。
人或は言はん、地は宇宙に於ける一小点たるに過ぎず、故に地は太陽の為に造られたりと言ふを得るも太陽は地の為に造られたりと言ふを得し、天の諸体が皆な悉〔ことごと〕く此微小なる地のために造られしと云ふは是れ古代の地球中心説に伴ふ迷信の一ならずやと。
然れども地の歴史を講ずるに当て万物を地の観察点より講ずるは決して不当の所為に非ず、殊に物の真価は其大小を以て定むべからざるに於てをや、太陽は地球に百三十万倍するの物躰なり、然れども之に桜てふ麗花の咲くなく、鴬てふ佳鳥の囀〔さえず〕るなく、人類てふ貴重なる生霊の住するなく、随て之に文学なく美術なし、ナイル河辺一条の耕地はサハラの砂漠三百万方哩〔マイル〕よりも貴重なるにあらずや、地は人のために造られ、天躰又地のために造らると云〔い〕ふも未だ必しも妄誕無稽の言と称ふを得ざるなり。
 
「天象」黄道十二宮の天象(しるし)を云ふなり、蒼穹に於ける太陽の位置を定む、之を以て年は月に分たれ、四期支干の別あり。
 
第十六、七、八、九節 神二の巨なる光を造り大なる光に昼を司らしめ、小なる光に夜を司らしめたまふ、また星を造り給へり、神これを天の穹蒼に置て地を照さしめ、昼と夜とを司らしめ光と暗とを分たしめ給ふ、神之を善と観給へり、夕より朝ありき是四日なり。
 
此処に天躰の創製を記せしは造化の順序よりしてこれを為〔な〕せしに非〔あら〕ず、恰〔あたか〕も三日目に植物の発生を記せしも其高等なるものは猶〔な〕ほ後日に至て作られしが如し、創世記々者は造化の結果を示して其順序の詳細に渉らず、唯言ふ此時期に当〔あたつ〕て天に顕はれし日と月と星とは亦神の造り給ひし者にして、是れ地と人類との用をなすべきものなれば、人の之を拝し、神とし之に事〔つか〕ふべきものにあらずと、蓋〔けだ〕し古代の民にして天躰を祭らざるものなく、バビロンの宗教なるものは概〔おおむ〕ね皆天躰崇拝にして、金星はイスターとして祭られ、太陽はシヤマスとして、月はシン
として民の敬崇を受けたり、此時に方て大胆にも諸天躰の人類の用を為すべきものにして、人の之に屈服する者にあらざるを教へし人は実に卓見の人と言はざるを得ず、天然崇拝を其根底に於て断ち、人をして宇宙の主人公たらしめて其下僕たらざらしめし者は実に神の黙示に因て成りし此聖書なりとす、此大教義を人類に伝へんがためには聖書は多少の科学的不明を厭はず。
「大なる光に昼を司らしめ、小き光に夜を司らしめ給ふ」と、語何んぞ詩歌的なる、日出て昼となり、月出て夜と成るとは是れ太古朦昧時代の民なりと雖〔いえど〕も教へらるゝの要なき事実なりしなるべし、然るに特にこゝに之を
記せし記者に他に目的なくんばあらず、然り余は能く大光を以て昼を司らしめ給ひし神の聖意を解す、然れども小光を以て夜を司らしめ給ひし神の慈愛に至ては余の推測以外にあり、若し夜にして全くの暗黒ならん乎、惨憺寂漠何物か之に過るものあらんや、恰も頭上に黒板を伸べしが如きの状、晦瞑〔かいめい〕の裏に一点の希望なく、日入てより日出るまで、宇宙は再び黒暗の淵〔うち〕と化して、夜来る毎に吾人は深淵の恐怖に圧せられて、青天の光輝もために其喜楽を失するに至らん然れども神は夜の来ると同時に吾人を去らず、彼は蒼穹に月と無数の星とを懸けて黒暗の中尚ほ神助の灼々〔しやくしやく〕たるを知らしめ給ふ。
夜然り、死亦〔また〕然らざらんや、生命の太陽は没するならん、生を司るの太陽あらば死を司るの月と星と無からざらんや、黒暗の天に月と無数の星とを散布して夜をして希望と平和との時たらしめし神は死をして亦然かせざら
ん乎。
 
第廿節神言給ひけるは水には生物饒に生じ、鳥は天の穹蒼の面に地の上に飛ぶべしと。
植物に次で地に顕はれし生物は水棲動物なり、即ち珊瑚〔さんご〕、海百合〔うみゆり〕及び軟躰動物の類にして、其饒多(じょうた)なるの状は今日尚ほ熱帯地方の海底に於て見るを得べし、其他魚類は先づ硬鱗類を以て顕はれ、爬虫は水陸両棲類を以て始まれり、造化の階段に於て水棲動物は全躰に陸棲動物の下に位する者にして其の発顕の順序に於ては前者は後者に先んぜしものなるは近世科学の発見を俟〔まつ〕て始めて知られ得し事実なりとす。
魚と爬虫とに次で鳥類現はると、是亦能く天然的発生の順序と符合す、先に爬虫にして飛機を備えしもの現はれ、後に鳥類にして尾骨を備えしもの出で、終〔つい〕に羽族今日の完全を見るに至れり。