内村鑑三 創世記 ノアの大洪水(2)

其七 ノアの大洪水 創世記  第六―第九章
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○現代人は万事を天然的に見る、古代人は万事を信仰的に見た。現代人に奇跡はなく、古代人には万事が奇跡であつた。現代人は万事を直接原因に由て説明せんと欲し、古代人は之を第一原因にまで運んだ。二者孰〔いず〕れが本当の見方であるかといふに、二者孰〔いず〕れも本当であつて、相互に反対する者でなくして、相互を補足する者であると云はざるを得ない。凡ての事に直接原因があると同時に第一原因がある。凡〔すべ〕ての事が天然の働きであると同時に神の業(わざ)である。真の科学と真の宗教との間に衝突はない。二者孰れも、其方面よりする万事の正当なる見方である。
 
○ノアの大洪水を天然的に解釈する事が出来る。雨が四十日四十夜降続いてチグリス、ユフラトの両大河が氾濫〔はんらん〕し、之に加ふるにペルシヤ湾に何か異変が起りて其水が陸に押寄せたと見れば、両大河下流の盆地が全部水に覆
はれたと見るは至つて容易である。そして如此〔かくのごと〕き事は決して有り得ない事でない。ノアの洪水は豪雨に海嘯〔かいしよう〕が伴うた者であると見れば其天然的説明は完全である。「此日に大淵〔おおわだ〕の源皆な潰(やぶ)れ、天の戸開けて雨四十日四十夜地に注げり」との記事は難無くして如此(かくのごと)くに解釈する事が出来る(七章十一、十二節)
 
○更に又注意すべきは過去数千年間に渉〔わた〕りて地球の気象に大変動のあつた事である。亜細亜〔アジア〕の中部に於て、外蒙古並に東トルキスタンが今日の如〔ごと〕き曠漠たる沙漠に化したのは地学上最近の事であつた。成吉干(ヂンギスカン)の都なるカラコーラムの城市がゴビの沙漠に繁栄を極めたのは今より僅〔わず〕かに千年以内の事であつた。裏海が北氷洋より離れたのも此気象上大変動の前提として見る事が出来る、即ち地上の水分は漸次地中に吸収され、所謂〔いわゆる〕地球の乾燥Desic-cation of the Earth は逐年増進しつゝある。そして当時(そのとき)まで度々起りし大洪水が、所謂〔いわゆる〕ノアの大洪水を以つて終つたのであつて、其後再び斯かる大規模の洪水を見ざるに至つたのであらう。如此くに見て、神がノアに言ひ給へりと云ふ、総〔すべ〕て肉なる者は、再び洪水にて絶たるゝ事あらじ、又地を滅す洪水再びあらざるべし(九章十一節)との言葉に天然的解釈を与ふる事が出来る。神が人類の罪を罰せんが為に特別に洪水を起したのではない、洪水は天然的に必然的に、臨んだのであると言ひて言ひ得ない事はない。
 
○然〔しか〕るに不思議にも、或〔あるい〕は偶然にも人類社会大堕落の時に際して大洪水が起つたのである。そして堕落と異変とが同時に行はれて、異変は堕落を罰する為の刑罰であると思はれたのである。恰〔あた〕かも大正十二年の関東の大地震が我国社会の大堕落の時に際して起りしが故に、或る敬虔〔けいけん〕の人達の眼には天罰として映じたと同じである。有島事件、大震災、虎之門事件と相次いで同年に起つたのである、其間に何か深い道徳的関係があつたと見られしは決して無理でない。ノアの時に於〔おい〕ても同じであつた。其時地表の乾燥に現はれたる地学上の一期限は終りつゝあつた、同時にアダムを以て始まりし人類一千年の文化的発達は其終末に達しつゝあつた。文化の終結は堕落であるとは歴史の法則である。洪水以前の文化も其後に起りし文化同様に堕落に終つた。
 
創世記六章一―六節に曰〔いわ〕く 人、地の面に繁殖(ふえ)はじまりて女子之に生まるゝに及べる時、神の子等人の女子の美しきを見て其好む所の者を取りて其妻となせり。ヱホバ曰〔い〕ひ給ひけるは我霊永く人と争はじ、そは彼も亦〔また〕肉なればなり……ヱホバ、人の悪の地に大なると、其心の思ふ所 図る所の凡て恒(つね)に唯(ただ)悪しき事のみなるを見給へり。茲(ここ)に於てヱホバ地の上に人を造りし事を悔いたり云々。
 
洪水以前一千年間の所謂(いわゆる)人類進歩の道徳的結果は如此(かくのごと)しであつた。奢侈〔しやし〕、享楽、恋愛、人生を最大限度に楽まんと欲する努力経営、其点に於て洪水以後も以前と何の異なる所はない。第十八世紀の初期に方〔あた〕りて仏蘭西〔フランス〕文化が其最高潮に達せし時に、其幇助者〔ほうじよしや〕にして代表者たりし大王ルイ第十四世は死に臨んで曰うた「我が後に大洪水到らん」と。そして彼の予測通りに大洪水は仏蘭西大革命の形を取りて現はれた。文化は決して人類の救済でない、其破滅である。其点に於て今日の独逸文化亦アメリカ文明も洪水以前文化と何の異る所はない、其終る所は破滅である。ノアの大洪水は凡ての文化に共通なる此原理を後世に示した者である。
 
○そして誰か知らん天然と歴史とは其第一原因を共にせざる事を。人類の罪を罰せんと欲する者が大洪水を送つたのでないと誰が断言し得る乎。知識は事物を其浅き表面に見るに止まるに対して、信仰は深く其中心を観〔み〕る。
創世記の記事に科学的又は歴史的事実として多少の錯誤は免れずとするも、其示さんとする根本的真理は動かすべからずである。天然の神はまた歴史の神である。