内村鑑三 創世記 人類の堕落

 人類の堕落 創世記第三章   1930(昭和5)1
 
○園の中央に二種の樹があつた、生命の樹と善悪を知るの樹があつた。前者を食へば生き、後者を食へば死すとの事であつた。そしてアダムとエバとは人類を代表して、蛇に欺かれて生命の樹を斥〔しりぞ〕けて知識の樹を選んで其果を食うた。其結果として彼等の眼は開け、彼等は神の如くになり、独り知り、独り定め、独り歩むやうに成つた。
人の眼より見れば善き選択であつた、彼等は茲に進歩発達の途〔みち〕に就いたのである。然し乍〔なが〕ら神の御眼より見て此は失敗であり、堕落であり、死に到るの途であつた。故に神は泣き給ひしに対して人は喜んだであらう。路加伝〔ルカ〕十五章に於ける放蕩児〔ほうとうじ〕の取りし途であつた。
季子〔おとうと〕父に曰ひけるは父よ我が得べき業(しんだい)を我に分与へよと。父その産〔しんだい〕を分ちければ、幾日も過ぎざるに季子〔おとうと〕その産を尽〔ことごと〕く集めて遠国へ旅立ちせとあるが如し。そして始祖が取りし此態度を人類全躰が今猶〔なお〕取りつゝあるのである。
 
○始祖は神の誡命(いましめ)に叛〔そむ〕いて堕落し、園を逐はれた。然し彼等は多分不幸と思はなかつたであらう。彼等は却〔かえ〕つて自由獲得の成功を祝したであらう。然し乍ら堕落の事実に歴然たる者があつた。彼等は第一に己が裸体なる事を知つた。即ち罪の自覚が起つた。自己に顧みて恥づべき者なるを知つた。第二に神に罪を問はれて之を自から負はんとするの勇気なく、之を他に転嫁せんとした。男は曰うた「女我を誘へり」と。女は曰うた「蛇我に勧めたり」と。彼等は神を離れて相互より離れた。最愛の妻をさへ罪に陥(おとし)いれて自から其責(せめ)より免かれんとした。彼等が善悪を知る樹の果を食ふて第一に知りしは善ではなくして悪であつた徳ではなくして罪であつた。彼等は仏国有名の大小説家ゾラと等しく罪悪研究の専門家と成つた。アダムとエバの子孫なる第二十世紀今日の文明人も亦罪のことに精(くわ)しくして徳のことに疎(うと)くある。彼等の間に大哲学者は続出せしに拘〔かか〕はらず、彼等は未だ判然と何故に盗むは悪事なる乎、其理由をすら知らない。人類は其該博の知識を以て今日猶ほ何が善で何が悪なる乎を知らない。善悪を知るを以て専門とする倫理学者の数は限りなしと雖も、彼等の内に善悪に関する最後の断定を下した者は一人もない。
 
アダムとエバは自由研究の人と成り、何事に拘はらず凡て研究の手を伸ばして其真相を探らんと欲するに至つた。茲に於てか神は生命の樹の神聖を護らざるを得ざるに至つた。之をしも研究の手に委(ゆだ)ねん乎、其神聖は涜〔けが〕されて、樹は生命の果を結ばざるに至る。故に先づ二人を園の外に追出し、天使をして回転(まわ)る焔(ほのほ)の剣(つるぎ)を以つて生命の樹に到る途を守らしめ給へりと云ふ。事実まことに其通りである。研究に由つて何が得られても生命丈けは得られない。殊に霊魂の生命は得られない。世に人を活かすの術とてはない。是は神の特権に属するものであつて、人が之を施さんとして大なる災禍は必ず彼に臨む。偶像崇拝、偽はりの宗教が其類である。人が人として生くる途は唯一つある、それは神御自身が其聖子を以つて備え給ひし途である。使徒ペテロが曰へる如し蓋(そは)天下の人の中に我等の依頼(よりたの)みて救はるべき他の名を賜はざれば也( 行伝〔ぎようでん〕四の十二)と。何故に人も国民もイエスキリストに依らざれば生くる能はざる乎、其理由は研究の外に在る。善悪を知るの能力を以つて十字架の功績を説明する能はず、科学哲学を以つて人を其霊魂に於て活かす事は出来ない。我国の
或る大学者は曰うた「余が提唱する学説は遥かに耶蘇〔やそ〕教徒の宣(のぶ)る所に勝さる、然れども人に熱心を起す能はず。嗚呼〔ああ〕欲しき者は彼等(耶蘇教徒)の熱心である」と。然り其熱心、即ち生命、それは研究に由つては得られない。
謙遜(へりくだ)りて、信じて、祈り求めて神より与へらるゝのである。
 
○人類は選択を誤りて亡びた、然し乍ら神は彼等の亡ぶるを好み給はず、既に彼等を救ふの途を定め給うた。女は子を生む事に由つて救はるゝであらう(テモテ前二の十五)。其子は蛇の頭を砕き、蛇は其子の踵(くびす)を砕くであらう。そして女の胎より生れし者が終〔つい〕に蛇の頭を砕きて人類はその譎計(たくらみ)より救出さるゝのである(黙示録第二十章を見よ)。人類を救ふに方(あた)りて神に絶望なるものはない。人類堕落の始まりは神の救拯の始まりであつた。救拯の御約束は堕落と同時に与へられた、そして其御約束は今履行の途中に於て在る。
 
○始祖等は神に叛きて己等の裸体なるを知り、樹の葉を綴りて裳を作れりと云ふ(七節)。然るにヱホバは別に皮衣を作りて彼等に衣せ給へりとある(廿一節)。己が作りし葉衣(はごろも)と神が与へ給ひし皮衣(かわごろも)と、二者の間に天地の差がある。皮衣は羔の義の衣である。之を着るにあらざれば大王の設け給ふ婚筵〔こんえん〕の席に侍(はんべ)ることは出来ない(馬太〔マタイ〕廿二の十一、十二)葉衣は行為に由る人の義を表はし、皮衣は信仰に由る神の義を示す。始祖は皮衣を衣せられて救拯の道を示されたのである。〔以上1、・10