内村鑑三 創世記 ノアの洪水

ノアの洪水
創世記六章より八章まで、馬太〔マタイ〕伝廿四章三七―三九節、
路加〔ルカ〕伝十七章二六、二七節、彼得〔ペテロ〕後書三章三―一三節
大正7710           『聖書之研究』216   署名内村鑑三
 
○ノアの洪水は歴史的事実である、是は曾〔かつ〕て有りし事の事実の記録である、是は稗史的物語(ひしてきものがたり)ではない、叙事的英雄詩ではない、真面目なる事実の記録である、勿論其内に今日の科学又は史学を以てしては解し難い多くの事実がある、然れども是れあるが故に其事実なりしことを拒むことは出来ない、事実の解釈は後(あと)で附くであらう、主イエスが事実として認め給ひし此事は我等も亦〔また〕其通りに之を受くべきである、「ノアの時の如く人の子の来るも亦〔また〕然らん」と彼は言ひ給ふた、誠実の彼が彼の未来を小説に譬〔たと〕へ給ひしとは如何(どう)しても受取ることは出来ない、
ノアの洪水に似たる伝説が古きバビロンの記録の中に存りあるとて聖書の記事を異邦の伝説の焼直(やきなほ)しと見るの必要は更らにない、バビロン人の洪水譚〔たん〕は確かに小説である、厳正なる聖書の記事と比(くら)ぶべくもない、もし又しゐて事実の科学的説明を求めんと欲するならば之を西方亜細亜〔アジア〕裏海の流域に起りし地質的大変動の結果として見ることが出来やう、今其事に就て茲〔ここ〕に論ずるの必要はない、唯〔ただ〕記事の性質より見て之を歴史的事実として見るの最も適当なるを唱へざるを得ない、科学上より見たるノアの洪水に就てはJ・W・ダウソン著『地質学と歴史の接触点』Meeting Place of Geology and History は多くの暗示を読者に与ふるであらう。
 
ノアの洪水は歴史的事実である、故に多くの信仰的教訓を供(あた)へる、稗史小説亦教訓を与へないではない、然れども事実に優(ま)さる教訓はないのである、真面目なる文士は可成〔なるべ〕く小説を避けて歴史を語る、歴史は最上の倫理書である、文士然り況〔いわ〕んや神に於てをや、神の教科書は天然と歴史である、聖書は最上の歴史である、最も厳密なる意味に於ての歴史である、聖書を小説化して聖書の権威は失(うしな)はるゝのである、ノアはエリヤと同じく我等と同じ情(じょう)をもてる人であつた、彼が大洪水に会際して有(もち)し実験、其実験が後世を教へて五千年後の今日に至つたのである、小説如何〔いか〕に巧妙なりと雖〔いえど〕も此永久的価値を有(もた)ない、聖書の聖書たる所以〔ゆえん〕は主として其の人類の実験の記録であるからである。
 
ノアは義人であつた、殊に信仰的義人であつた、彼は所謂〔いわゆる〕聖人ではなかつた、完全無欠の人でなかつた、其事は創世記九章十八節以下の記事に由て見て明かである、爾(しか)あるにも関(かか)はらずノアは義人であつた「信仰に由りてノアは未だ見ざる事の示しを蒙(かうむ)り敬(つつし)みて其家族を救はん為に舟を設けたり、之に由りて世の人の罪を定め又信仰に由れる義を受くべき嗣子(ゆつぎ)となれり」とある(ヒブライ書十一章七節) 斯くてノアも亦アブラハムと同じく神を信ずるに由て義とせられ、其の信仰の報賞(むくい)として救拯(すくひ)の恩恵に与(あずか)つたのである、而してノアの場合に於て神の言〔ことば〕其儘〔そのまま〕を信ずるは容易の事でなかつたのである、神は其罪のために全世界の民を滅(ほろぼ)し給ふと云ふ、是れ信ずるに最も難い事である、愛なる神が其造り給ひし人類を滅し給ふ筈〔はず〕はない、殊に其罪たる必しも之を罪と認むるに及ばない、肉に伴ふ自(おのず)からなる欠点と見て之を見ることが出来るのである、人類は進歩の途程に在る者である、故に不完全は其の免かる能〔あた〕はざる所のものである、然るに神は此不完全のために「其心の思念(おもひ)の凡(すべ)て図(はか)る所の恒〔つね〕に唯悪しきのみなる」故に之を滅(ほろぼ)し給ふと云ふ、如何に神の言なりとは云へ是れ信ずるに最も難い事である、殊(こと)に臨まんとする剪滅(ほろび)より免かれん為めに長さ四百五十尺余、幅七十五尺、高さ四十五尺余の大船を造るべしとの啓示(しめし)に接してノアの信仰は動揺(ゆるが)ざるを得なかつたのである、世の嘲笑(ちょうしょう)を招くの因にして之よりも大なるものはない、単(ただ)に心に信ずるに止まらず社会注視の前に此大船を造るべしと云ふ、愚か狂か、若し彼れ在世当時に今日に於けるが如く智者識者があつたならば彼の企図(くわだて)は迷妄、非科学的、非合理的なりとの声の裡〔うち〕に葬り去られんとしたであらう、爾(しか)あるにも関はらずノアは信じたのである、順(したが)つたのである、嘲〔あざ〕けられながら大船を造つたのである、而して神の審判(さばき)と之に伴ふ救拯(すくひ)とを待望(まちのぞ)んだのである、ノアの偉大なるは茲に在つた、彼も亦聖書的偉人であつて信ずるが故に偉人であつたのである、彼も亦「ユダヤ人には礙(つまず)く者、ギリシヤ人には愚かなる者」であつた、信仰と迷妄とは其外面に於ては何の異なる所はない、等(ひと)しく非科学的であつて、等(ひと)しく非合理的である、唯召されたる者のみ信仰の「神の大能また神の智慧」なるを知るのである、(コリント前一章二二節)其他ノアの信
仰的実験に於て吾人今日の信者の大に学ぶべき所がある、実(まこと)にノアの信仰はアブラハムの夫(そ)れ丈(だ)け大であつた、殊(こと)に不信の世に対して信仰を維持せし勇気に至ては吾人は寧〔むし〕ろ之をノアに於て学ばざるを得ない。
 
○事実であり教訓であるノアの洪水は亦大なる預言である、大洪水は世の審判(さばき)の模型である、洪水以前の世が茲(ここ)に審判(さばか)れて其終結(おわり)を告げて新天新地が現はれしが如くに吾人の生存する今日の斯世(このよ)も亦同じやうに審判れて之に代りて亦更らに新たなる天地が現はるゝのである、洪水以前の世が俄然的大禍難を以て滅びしが如くに文明を以て誇る今日の斯世(このよ)も亦同じやうに滅びて其後に聖徒の治(おさ)むる天国が現はるゝのである、「人の悪の地に大なると其心の思念(おもひ)のすべて図(はか)る所の恒(つね)に惟(ただ)悪しきのみなる」とは今日も洪水以前と少しも異ならない、人類は神が造り給ひし此地を己れに奪ひ之を己れに利用し神に栄光(さかへ)を帰せず又神の分を献げんとせず神を無きものとし扱ひ、又彼を愚弄し、而して言ふ「神は愛なり彼れ争で罪人を罰せんや」と、彼等は科学と哲学とに頼(たよ)りて神の言を斥〔しりぞ〕け、自己を以て神を審判(さば)き神に自己を審判(さば)かれんとしない、彼等は万物の自然的進化に信頼し神が奇跡を以て之に干渉し給ふを許さず、大なる審判(さばき)の必ず彼等に臨むべしと聞くや戯謔(あざけり)を以て之を迎へ侮蔑(あなどり)を以て之を斥(しりぞ)く、洪水以前の世界を拡大したる者が今日の世界である、其罪の絶大なる、其不信の深大なる、其驕傲(たかぶり)の高大なる、人類の
歴史に於て未〔いま〕だ曾て今日の如きはないのである、斯く言ふは人世を悲観するのではない、明白なる事実を語るのである、今時(いま)の世の腐敗と堕落とを知る者は宗教家に非ずして政治家である、哲学博士に非ずして実務家である、人世と直接の接触を保ちつゝある者は今や大なる審判の其上に臨みつゝあるを疑はんと欲して疑ひ得ないのであ
る。
 
斯かる時に神は少数のノアを召き給ふのである、彼等に救拯(すくひ)の方舟(はこぶね)の建造を命じ給ふのである、今や旧天旧地は去らんとし新天新地は現はれんとしつゝある、然かも人の努力に由てにあらず天然の進化に由てにあらず神の直接の干渉に由て旧きは滅(ほろ)び新らしきは建てられんとしつつある、茲に於てか召(まねか)れし少数者の忍耐と勇気との必要があるのである、ノアが当時代に於て神の言の善き証明者として立ちしが如くに召かれし小なる群(むれ)は侮蔑(あなどり)と戯謔(あざけり)とを身に浴びながら福音証明の衝(しょう)に当るべきである。
 
エスはノアの原型である、神はノアを以て小なる始めの世を救ひ給ひし如くにイエスを以て大なる終りの世を救ひ給ふのであるイエスの方舟(はこぶね)に入るを得る者は其十字架の血を以て贖〔あがな〕はれし者である、而してノアの救拯(すくひ)が禽獣昆虫すべて生ける物に及びしが如くにイエスの救拯はすべての受造物(つくられしもの)に及ぶのである、ノアの方舟(はこぶね)の中に新天新地が含(ふく)まれて有りしが如くにエスの教会〔エクレージヤ〕の中に新らしき天と新らしき地とは含有せらるゝのである、大審判が斯世に臨んで其制度文物、其誇りとする文明の産物が尽〔ことごと〕く滅(ほろ)び失(う)する時にイエスの方舟(はこぶね)の中に在る者のみ存(のこ)りて之を以て新たなる世界が造り出さるゝのである、天然に法則あるが如くに神の為し給ふ所にも亦法則がある、罪熟(じゅく)し、悪其極に達して審判臨み、悪者と其手の工(わざ)は滅(ほろぼ)さる、「然れど我等は其約束に因りて新らしき天と新らしき地を望み待てり、義その中に在り」とありて壊滅の中より新たに建設が始まるのである(ペテロ後三章十三) 斯くて世の終末(おはり)は其絶滅ではない、其改造である、更らに善き世の建設である、神は此法則に従ひて宇宙を完成し給ふのである
19187月「聖書の研究」