内村鑑三 創世記 人類の堕落と最初の福音

人類の堕落と最初の福音
 
(五月十一、十八日) 創世記第三章の研究
大正8710  『聖書之研究』228   署名  内村鑑三  述藤井武筆記
 
創世記第三章の記事は興味ある物語(ものがたり)なるも其中に我等各自の信仰と深き関係を有する大なる真理あるなしとは近世人及び近代の註解者等の称(とな)ふる所である、彼等は曰(い)ふ「之れ何処(どこ)にもある女と蛇との譚(はなし)に過ぎない、世界の古き記録は皆此種の物語より始まる」と、例へばメキシコの如〔ごと〕き文明より離隔したる国に於ても女と蛇とに関する口碑(こうひ)あり、又バビロンの如き古代の文明国に於ても樹下に佇立(ちよりつ)せる女の傍に蛇あり其頭を擡(もた)げて之と語るとい
ふ古き物語あり、其他支那に於ても所謂〔いわゆる〕陰陽(いんやう)の観念ありて諸〔もろもろ〕の悪は陰性たる婦人より来ると見るが如き皆同一の思想より出づ、ヘブル人の思想も亦〔また〕之と異ならない、創世記第三章は此の人類共通の古き観念を描(えが)けるものであると言ふのである、然〔しか〕しながら斯〔かく〕の如き解釈は恰〔あたか〕も善悪を知るの樹の果(み)を食ふと同じく人をして識者たらしむるに足らんも之をして霊的道徳的に向上せしむる事は出来ない、創世記第三章の解釈は信仰の程度如何〔いかん〕に由て異なる、深き信仰を以て之を読みて其中に偉大なる真理ある事を知るのである、実に此一章の中に基督教の全体が含まれて居ると言ふ事が出来る、故に或人は之を呼んでthe proto-evangel(最初の福音)と称したのである。
「ヱホバ神の造り給ひし野の生物(いきもの)の中に蛇(へび)最も狡猾(さが)し、蛇婦(をんな)に言ひけるは云々」事実であるか譬喩(ひゆ)であるか、明白に識別する事が出来ない、然しながら之を原語にて読む時は其困難の大部分を解き去る事が出来る、蛇の原語Nachash(ナカシュ)は其字義よりすれば「光る者」又は「悧巧さうに見ゆる者」の意である、即ち一見して博識多才、世事に精通し人心の機微を穿〔うが〕つが如き者を「ナカシュ」と言ふ、其註解を得んと欲すれば哥林多〔コリント〕後書十一章十四節を見よ、「サタンも自〔みずか〕ら光照(ひかり)の使(つかひ)の貌(かたち)に変ずるなり」と、アダムとエバとの前に現はれたる蛇即ちナカシュは光明(ひかり)の使の貌に変じたるサタンである、故に之を訳語にて蛇と読まずして寧〔むし〕ろ原語のまゝ「ナカシュ」と読むを可(よし)とする、而(しか)してサタンが光明の使(つかひ)の貌(かたち)に変じて来りて人を試むる事あるは我等の信仰生活に於て屡々〔しばしば〕実験する所である、風采揚り学識秀でたる光明(ひかり)の士に誘はれて遂(つひ)に恐るべき淵(ふち)に陥(おちい)る事が多い、人類の始祖を誘ひたる者も亦斯かる「光る者」「悧巧(りこう)さうに見ゆる者」であつた、即ちサタンがナカシュの貌(かたち)を以て現はれたので
ある。
然しながら「野の生物の中」といひ「腹行(はらば)ひて云々」と言ふが故にナカシュは蛇を代表する者たる事は疑ひがない、蛇其者には非ざるも蛇の如き者である、而してナカシュを以て蛇を代表せしむるは宇宙を詩的に観察したる思想である、宇宙は一の大なる詩である、万物は霊界の表現(ひょうげん)である、ウオルヅヲルス、ブライアント等の詩人は能(よ)く此事を了解した、彼等は万物の中に或る霊の具象(ぐしょう)を認めた、而して我等も亦時として詩人と成るのである、世に陰険なる人物を称して狸(たぬき)といふ、狸は実は愛すべき動物である、然しながら此称呼に深き意味がある、狸は日の光を喜ばない、彼は好んで暗き穴に潜(もぐ)る、故に陰険なる人物を狸と呼ぶは天然の詩的解釈である、其如く野にある蛇も亦或る一の霊の表現である、蛇が人を誘ひたりと言ふ、詩である、而して深き真理である。
人殊に婦人は何故に蛇を嫌ふ乎、こは動物学上説明すべからざる現象である、動物学者の言ふ所に由れば動物の運動方法として蛇の運動ほど美(うる)はしきものはないといふ、然るに何故之を嫌ふのである乎、蛇の中には毒蛇(どくじゃ)あるが故である乎、然しながら蛇の種類数百の中有毒のもの僅(わず)かに十二三種に過ぎない、もし毒の故を以てすれば虫にも毒虫あり魚にも毒魚がある、然らば何故である乎、之れ興味ある問題である、或る学者は曰ふ、人は今日迄多くの動物と闘ひしも其最も困難なりしは蛇との闘ひであると(蛇は門を閉づるも之を防ぐ能(あた)はず、壁間(かべのあいだ)の小孔等より侵入し来りて人を害する、印度(いんど)又は台湾等に於ては今なほ蛇の為に死する者年々数万に上る)、此説明は甚〔はなは〕だ有力なりと雖(いえど)も未(いま)だ十分なる理由と為すに足りない、蛇と婦人との間には何か我等の解する能はざる深き理由ありて斯の如く甚だしき反目(はんもく)を来したのである、而して此点に於ても亦創世記第三章は大なる参考資料を供するものである。
然しながら最も重要なる事は蛇が何で有つた乎の問題ではない、ナカシュが如何にして人類を誘ひし乎の問題である、之れ独りアダム、エバの遭遇したる問題なるのみならず又我等自身の遭遇する問題である、サタンは来りて先〔ま〕づ疑問を発して曰うた「神真(まこと)に汝等園(その)の凡(すべ)ての樹の果は食ふべからずと言ひ給ひしや」と、サタンの人を誘ふや常に疑問を以てする、而して人は之に対して「然り」又は「否(いな)」を以て答ふれば足る、然るにエバはサタンに答へて曰うた「我等園の樹の果を食ふ事を得、されど園の中央に在る樹の果をば神汝等之を食ふべからず又之に捫(さわ)るべからず、恐らくは汝等死なんと言ひ給へり」と、之を二章十六七節と対照するに「又之に捫(さわ)るべからず」とは神御自身の言ではない、エバ己の想像より附け加へたる言〔ことば〕である、又神は「恐らくは」と言はずして「必ず」と言ひ給うたのである、即ち知るエバは神の言〔ことば〕其儘を引かずして或は之に附加するに自己の想像より出づる解釈を以てし或は妄(みだり)に之を修正したる事を、エバがナカシュに乗ぜられたる所以(ゆえん)は此処にある、ナカシュ婦〔おんな〕に言ひけるは「汝等必ず死ぬる事あらじ、神汝等が之を食ふ日には汝等の目開け汝等神の如くなりて善悪を知るに至るを知り給ふなり、」とナカシュはエバの態度より察して其の誘ふに足るを思ひ大胆にも言うたのである、神の之を禁じたるは神自身の地位を独占せんが為めにして汝等に対する愛ではないと、茲〔ここ〕に於てエバは其樹を見れば食ふに善く目に美はしきが故に遂に全く誘はれて神に逆(そむ)くに至つたのである、試に之を我等各自の実験に比せよ、ナカシュ来りて先づ或る疑問を発し我等の之に応ずるを見るや甘言を以て歩一歩我等を誘ひ遂に全く信仰を失墜(しつつい)せしむるに至る、実(まこと)に能く真(しん)を穿(うが)ちたる記述である。
 
ナカシュは又イエスキリストの許(もと)に来りて彼を試みた、然しながら彼は唯〔ただ〕聖書の言(ことば)有(あり)の儘(ママ)を以て答へて之を撃退した、馬太〔マタイ〕伝第四章は創世記第三章と著るしき対照を為すものである、エバは何故に失敗したる乎、彼女は聖書の言に修飾改訂を施したるが故である、イエスは何故に成功したる乎、彼は聖書其儘を以て立ちしが故である、
而してサタンの誘惑を撃退する唯一の途は此処にある、人は自己の意志を鞏固(きょうこ)にして以て誘惑を排斥せんとするも能はない、唯聖書の言を繰返してのみ確実に之を撃退する事が出来る、聖書の言が如何〔いか〕にして斯の如き力を有する乎は説明するに甚だ困難である、然しながら長き信仰生活を続くる者は皆知るのである、聖書中の或る一節一句が屡々(しばしば)人の霊魂を危機より救ひ出す事を、之に反し人をしてナカシュの誘惑に陥らしむるの途〔みち〕開くものは聖書の言を疑ひ或は之を変へんとするの異端である。
次に善悪を知るの樹とは如何、樹が如何にして善悪を知らしむるのである乎、都市の住民は此事を解するに困難である、然しながら山中の民に取て樹の如く大なる意義を有するものは少い、一本の樹の上に多くの歴史が繋(かゝ)つて居る、其萌芽(はうが)、其新緑(しんりょく)、其紅葉(こうよう)、其落葉(らくよう)、皆人生との間に深き関係が有る、余輩の忘るゝ能はざるものは青年時代に北海道に於て親みし樹である、彼等は多年余輩を教へ又慰めたる旧友である、今日と雖も窓前に繁る一樹の欅(けやき)は余輩に取て朝となく夕となく深大なる慰藉である教訓である、善悪を知るの樹と言ふ、天然との交通の経験に富む者は能く其消息を解する事が出来る。
「園の凡ての樹の果は意(こころ)の儘〔まま〕食ふ事を得、されど善悪を知るの樹は其果を食ふべからず」と、園中の樹幾万本、而して其中唯一本の果のみは食ふ事を禁ぜらる、人の人たる所以〔ゆえん〕、其の神と異なる所以〔ゆえん〕は此処〔ここ〕にあるのであ
る、人は他の事に於ては凡て自由である、然しながら唯一事に就ては絶対的服従を守らなければならない、此唯一の服従ありて初て人の価値がある、偉人とは誰ぞ、才能絶倫の'人ではない、神の前に絶対服従を守る人である、曾〔かつ〕てアイザック・ニュートンはいうた、「基督教の起否(きひ)は但以理(ダニエル)書を神の言として受くるか否かにあり」、と以て彼の如き大科学者にも唯一つ信じて疑はざる者ありしを知る事が出来る、若〔も〕し人にして一も信ずる所なく服従する所なきに至らん乎、即ち彼は人にして人ではない、人たるの品格は既に彼より落ちたのである、斯〔か〕かる人の光輝失せたる顔色は其事を裏切(うらぎ)つて余りがある、信従即ち之れ善である、叛逆即ち之れ悪である、神は園中幾万本の樹の中唯一本を禁じ給ふ、而して之に信従して人に善の善たるものあり、之に叛逆して悪の悪たるものがある、堕落とは人が其唯一の服従を失ふ事である。
然らば今日に於て善悪を知るの樹とは何である乎、他の物は皆意(こころ)のまゝに食ふを得るも唯之のみは食ふべからず、若し之を食はゞ必ず死なんと言はるゝものは何である乎、初代に於ける樹は今日に於ける書である、神は我等に唯一書を与へ給うた、而して我等は他の哲学文学又は歴史科学等何〔いず〕れに対して自由の判断を下すも可なり、
唯此書に現はれたる神の言に対してのみは絶対的信従を守らなければならない、然らずんば我等は必ず死すべきである、「若し此書の予言の言に加ふる者あれば神此書に記(しる)す所の災(わざわい)を以て之に加へん、若し此書の予言の言を削(けず)る者あれば神之をして此書に記す所の生命の樹の果と聖〔きよ〕き城(まち)とに与〔あずか〕る事なからしむ」とあるが如しである(黙示録〔もくしろく〕二二の一八、一九)、我等が善悪を知るの樹は聖書である、之のみは食ふべからず唯其儘に信じて受くべきものである。
アダムとエバとは善悪を知るの樹の果を食ひてより己が裸体(はだか)なるを知り之を耻ぢて無花果(いちじく)の葉を綴(つづ)りて裳(も)を作つた、彼等は何故(なぜ)裸体を耻づるに至つたのである乎、思ふに此時人類に大変化が臨んだのであらう、人類には初め極めて貴きものがあつた、其時裸体は耻づべき状態ではなかつた、美術家の要求するものにして裸体の如きはない、天然美(てんねんび)は此処に最も善く現はるゝが故である、又今日と雖も裸体の毫〔すこし〕も耻辱に非ざる場合がある、テニソンの詩に歌はれたる或る少女の場合の如きが其れである、少女は圧制君主の女(むすめ)であつた、彼女の父なる国王は或時人民に誓つて曰うた、若し婦人にして裸体の儘馬上城下を乗廻(のりまは)る者あらば圧制の法律を悉〔ことごと〕く撤廃(てつぱい)せんと、然るに彼女は民を救はんが為に自ら裸体の姿を馬上に現はして街区(がいく)を巡つた、民皆感激し其日は謹んで帷(カーテン)を垂れて遠慮した、或る一人私〔ひそ〕かに之を見んと欲したれば忽〔たちま〕ち天より火降りて彼は盲目と成つたといふ、而して悪法は翌日悉く撤廃せられたのである、此場合に於て裸体は決して耻辱ではなかつた、然らば人の之を耻づるは何故である乎、蓋しナカシュに誘はれて堕落したる結果穢(けがれ)れたる名誉心に訴ふる所あるが故である、羞耻の念は多くの場合に於て己が醜態を蔽〔おお〕はんとする卑しき心である、アダムとエバは善悪を知る事が出来た、然しながら善を行ふの力、悪を避くるの力は之を有(も)たなかつた、既に自己の汚穢を知る、然れども之を脱する能はず、茲に於てか之を蔽〔おお〕はんと欲す、衣服は斯の如くにして出来たのである、今日男も女も衣服衣服と呼びて自己を飾らんとするは此思想より起つたのである、而して人の宗教道徳、其凡ての制度儀式は皆衣服である、斯かる多くの衣服を以て身を蔽〔おお〕はんと欲するは即ち人が其赤裸々の姿を以て神の前に出づるに堪へざるを感ずるが故である。
人は堕落して茲に神の定め給ひし福(さいわい)を失うた、人類の始祖アダムの堕落に由て罪は全人類の傾向となつたのである、此世は罪の世である、我等は此世に来りて罪を犯さゞるを得ざる世界に来たのである、勿論我が罪に就て我に責任がある、然しながら恰も前独帝(カイゼル)及び前政府の行為に関し独逸〔ドイツ〕国民全体が其責任を負ふが如く人類の代表者の罪に関し人類全体が連帯して其責任を負はなければならない、初の一人の代表せし事が後の人類の全体に及ぶは神の定め給ひし法則である、然らば神は無慈悲の神である乎、否神は人類の罪を犯すや否や直に救贖の途を開き給うたのである、創世記第三章に此福音的半面がある、之を知つて神の如何に恩恵(めぐみ)に富み給ふ神なるかを知るのである。
「彼等園の中に日の涼しき頃歩み給ふヱホバ神の声を聞きしかばアダムと其妻即ちヱホバ神の面(かほ)を避けて園の樹の間に身を匿(かく)せり、ヱホバ神アダムを呼びて之に言ひ給ひけるは汝は何処〔いずこ〕に居るや」と、神は茲にアダムを捉へて叱責し給うたのではない、失はれし子を尋ねて之を救に導かんとし給うたのである、故に八節以下は路加〔ルカ〕伝第十五章と並読すべきである、彼にありては父は帰り来りし子を抱きて歓び迎ふ、此にありては神は未だ帰らんとせざるアダム、エバを迎へん為め自〔みずか〕ら之を尋ね給ふ、「汝は何処に居るや」とは「汝の今の立場は何処に在るや」との意である、アダムと神との間には久しく父子の美はしき関係があつた(アダムは其九百三十年の一生中
久しき間神の前に罪なき生涯を送つたのである)、然るに一朝彼の罪を犯すに及んで此関係断絶したるが故に父は子の帰り来るを待たずして自ら往いて之を尋ねたのである。
「ヱホバ言ひ給ひけるは誰が汝の裸(はだか)なるを汝に告げしや、汝は我が汝に食ふ勿〔なか〕れと命じたる樹の果を食ひたりしや、アダム言ひけるは汝が与へて我と共ならしめ給ひし婦(をんな)彼れ其樹の果を我に与へたれば我食へり、ヱホバ神婦に言ひけるは汝が為したる此事は何ぞや、婦言ひけるは蛇我を誘惑して我食へり」と、アダムは答へて曰うた、
我をして罪を犯さしめたる者は我妻なり、而して妻は汝の与へ給ひし者なるが故に罪の責任は実は汝にあるなり
と、エバは答へて曰うた、我を誘惑したる者は蛇なりと、実に自ら責任を負はんと欲せざるは罪人の特徴である、彼等は曰ふ、責任は我にあらず、親にあり、教師にあり、社会にあり、神にありと、然しながら何人よりも自己の責任の重きを感じて「最も悪しき者は我なり」と言ふに非ざれば罪人と神との関係は回復しないのである、今より十余年前一人の出獄人が出獄の当日余を訪ねて来た事があつた、彼は先に二友人と共に或る外人を欺(あざむ)きし為め二年の禁錮に処せられしが判決申渡(もうしわたし)の当時既に基督者と成りたる彼は自己の罪の重きに比し此処刑を以て言ふに足らずと為し直〔ただち〕に服罪して今や其刑期を終つたのである、然るに共謀の二人は刑の重きを争ひて其時尚ほ控訴中であつた、救はれたる者と救はれざる者との相違実に斯〔かく〕の如しである。
而して我等各自が皆此経験に遭遇するのである、或は野外に於て或〔あるい〕は山中に於て日の涼しき頃神は独り我等を見舞ひ「汝は何処に居るや」と尋ね給ふ、其時自己を省みれば何の頼むべきものあるなく身は唯穢れたる裸体である、「誰が汝の裸なるを汝に告げしや」、親か、祖先か、社会か、斯〔かか〕る説明は神の前にありて何等の弁護にも値(あたひ)しない、我等は神に発見せられて罪人の宣告を受くるのみである、之れ人生の最も辛(つら)き経験である、然しながら神の前に凡ての弁護の尽きたる時イエスキリストの十字架を示されて茲に我が救を認め以て一切の罪を赦されるのである。之れ即ち基督者の信仰的実験である。
 
「ヱホバ神蛇に言ひ給ひけるは汝之を為〔な〕したるに由て汝は凡ての家畜と野の凡ての獣(けもの)よりも勝(まされ)りて詛(のろ)はる、汝は腹行(はらば)ひて一生の間塵を食ふべし」と、神はアダムとエバとに対しては先(ま)づ質問を発して以て其申開(まうしひら)きを為すの特権を与へ給うた、然るに彼等を誘ひたるナカシュに対しては初より裁判である、人に対しては救贖の途を開きナカシュに対しては刑罰の宣告を下し給ふ、之れ悪魔の罪は所謂〔いわゆる〕聖霊を涜(けが)すの罪に当り救はるべき時を過ぎたる
赦〔ゆる〕さるべからざる罪なるが故である、故に彼は最早や直立して面相接するの態度を取る能はず裏面より陰険に人を陥るゝの生涯に定めらる、曰ふ「汝は腹行(はらば)ひて一生の間塵を食ふべし」と、即ち天然を詩的に解釈し蛇の性質を以て悪魔の生涯を説明したる語である而して其意味に於て悪魔が蛇なる事は人の皆知る所である、かのゲーテの傑作『ファウスト』に於て悪魔が甘言を以てファウストに言ひ掛くる時之を撃退するの力を有せずと雖〔いえど〕も「蛇(シユランゲ)よ蛇(シユランゲ)よ」と叫びしは能く人の実験を描ける者である。
悪魔は蛇である、裏面より陰険なる手段を以て人を惑はさずんば已〔や〕まない、然しながら神は永久に蛇を生かして置き給はないのである、「又我れ汝と婦の間及び汝の裔(すえ)と婦の裔(すえ)との間に怨恨(うらみ)を置かん、彼は汝の頭を砕(くじ)き汝は彼の踵(くびす)を砕かん」、蛇と婦の裔(単数なり、即ち婦の生む或る特別の子)との間に限なき戦が続き終に婦の裔(すえ)に由て蛇は其頭を砕かれんとの約束である、蛇の其頭を砕かるゝは即ち人類の救贖〔きゆうしよく〕の完成する時であつて死が生に呑まるゝ時である、知るべしナカシュに対する神の此語は人類救贖に関する大なる約束なる事を、之れ実に人類最初の福音である、人類が罪を犯すや否や直に之を取除くべき方法が設けられたのである。
「又婦(をんな)に言ひ給ひけるは我大に汝の懐姙(はらみ)の苦労を増すべし、汝は苦みて子を産まん、又汝は夫を慕ひ彼は汝を治めん」、神は男女を創造すると共に生めよ繁殖(ふえ)よと言ひ給ひしが故に子を産む事が罪の結果に非ざるは明白である、然しながら懐姙出産の苦労の増したる事は罪の結果である、坐食(ざしょく)して労働せず不自然なる生涯を送れる婦人に出産の苦労多きを知らば思ひ半ばに過ぐるものがあらう、文明は甚だしく婦人の懐姙出産の苦労を増したのである、又夫婦は神の耦(あわ)せ給ふもの家庭は神の定め給ひしものなるに拘〔かかわ〕らず「彼は汝を治めん」と言ひて圧制虐待の行はるゝに至りしも亦〔また〕人の罪の結果である。
「土(つち)は汝の為に詛(のろ)はる、汝は一生の間苦労して其れより食を得ん、土は荊棘(いばら)と薊(あざみ)とを汝の為に生ずべし、又汝は野の草蔬(くさ)を食ふべし云々」、人の食物として最も完全なるものは果実(きのみ)である、其種類を選びて之を食はゞ肉又は穀類を取るの必要なくして最も健全なる健康を維持する事が出来る、こは現に或る人々の実行せる所である、而して神が最初に人類に与へ給ひし食物は肉類に非ざるのみならず穀類にも非ず果実(きのみ)であつた、然るに之を棄てゝ穀類を選ぶに至りし原因は此処〔ここ〕にあつたのである、また薊(あざみ)は天然に発生しない、人の耕作を廃したる時即ち土地乾燥して何の用をも為さざるに至りし時に繁茂するものである、故に薊(あざみ)の発生は罪の結果である、米国ボルチモア華府(ワシントン)間鉄道沿線に荊棘(いばら)と薊(あざみ)とを以て蔽はれたる数哩〔マイル〕に続く原野がある、かの沃饒(よくねう)を以て聞えたるヴァージニア地方の野に如何にして斯るものが発生したのである乎、他なし煙草耕作の結果である、地を殺すものにして煙草の如きはない、其耕作に由て地力を消耗し尽したる後に沃野は薊(あざみ)の原野と化したのである。
罪の結果に由て幾多の禍(わざわい)は人類の上に臨んだ、然しながら人類は神に呪〔のろ〕はれたのではない、婦の裔は終に蛇の頭を砕かんとの約束ありて人類に大なる希望があつた、アダムは之を解し之を信じたのである、故に「アダム其妻の名をエバと名〔なづ〕けたり、そは彼は凡ての生けるものゝ母なればなり」、彼女より出づる者が真(まこと)の生命の供給者たらんとの意である、即ち知るエバは希望の名なるを、罪は女を通して来た、然しながら救も亦女を通して来るのである、人類の希望は女にある、其の裔(すえ)にある、何故に特に女の裔と言ふ乎、救主イエスキリストは父によらず処女(おとめ)より聖〔きよ〕き霊に由て生れ給ふが故である、「生(いのち)の母」と言ひ「婦の裔」と言ふ、其中に人の霊魂の要求する最も深き真理がある。
「ヱホバ神アダムと其妻の為に皮衣(かわころも)を作りて彼等に着せ給へり」、彼等は初め自己の裸体なるを知るや自ら無花果(いちじく)の葉を綴りて裳(も)を作つた、然るに今や神は獣(けもの)を殺し其の皮(かは)を以て彼等を蔽ひ給うた、無花果の葉の裳は己の義である、己の修養工夫(くふう)儀式道徳である、皮衣は神の屠(ほふ)り給ひし羔(こひつじ)の贖(あがな)ひである、アダムとエバとは自己の作りし無花果(いちじく)の裳を纏〔まと〕うて神の前に立つ事が出来なかつた、然しながら神の備へ給ひし皮衣を着て赦されたる罪人として神に受けられた、我等も亦然りである、己の義に代ふるに羔〔こひつじ〕の贖〔あがない〕を以てして初て神に受けらるゝのである。
神は又彼等を園より逐〔お〕ひ出し「ケルビムと自ら旋転(まわ)る焔(ほのほ)の剣(つるぎ)を置きて生命(いのち)の樹の途を守り給ふ」とある(「自ら旋転る」は「凡ての途(みち)を塞(ふさ)ぐ」と読むべし)、斯くて永遠の生命の道は塞がれてアダムとエバとは其特権を失つたのである、彼等若し罪を犯さゞりしならば永遠に生くる事が出来たのである、然るに罪の結果人は必ず死せざるべからざるに至る、人は果して永久に生かしむる能はざる乎、医学者の最大野心は其処〔そこ〕にある、有名なる露国の動物学者メチニコフ百二十歳生存説を称〔とな〕へしも先年自身七十五歳を以て死して其説の不可能を立証した、人は千代(ちよ)もと祈るも生くる能はず、生命の樹の途は塞がれたのである、然しながら神は更に他の途を開きて我等の為に大なる恵を備へ給うた、即ち羔の皮衣を着せらるゝ者はキリスト再び現はれ給ふ時新しき体を賦与せられて永遠に生くる事が出来るのである、再臨の恩恵はエデンの失敗を償うて余りがある。
 
哲学者ライプニッツ曰く「人類の進歩を促したる者にしてアダムの堕落の如きはない」と、大なる逆説(パラドックス)である、然しながら真理である、人の罪を犯すや其刹那(せつな)に神は救贖の途を開き給うたのである、誠に罪の増す処には恩恵も弥増(いやま)せりである、創世記第三章に此絶大なる福音がある、誰か之を以て考古学上の資料たるに過ぎずと言ふ乎、人類最初の福音はアダムの堕落を伝ふる創世記第三章に示されたのである。
附記 婦(をんな)の苗裔(すえ)がナカシュ()の頭を砕く時は何時〔いつ〕か、彼が十字架に上り人類の罪を贖ひし時であるか、さうではないと思ふ、神の子の贖罪の死に由て悪魔は大打撃を受け致命傷を負ふた、然し彼はまだ死んだのではない、彼は今猶〔な〕ほ生きて居る、而して人を欺き彼を生命の源なる神より離絶しつゝある、今はまだ暗黒の
時代である、悪魔()が猛威を揮ふ時代である、而して婦の苗裔(seed である、単数である、婦の生みし一人の子である)、彼が蛇の頭を砕く時は来りつゝある、「平安の神汝等の足の下にサタンを速〔すみやか〕に砕くべし」とある其時は来りつゝある(ロマ書十六章二十) キリストの再臨が其時である、聖書は其創始(はじめ)の書に於て再臨を予言して居る、創世記三章は黙示録十九章と相照らして読むべき者である。
 
人類の堕落と最初の福音