内村鑑三 創世記 モーセの五書

モーセの五書
モーセ伝研究の端緒(三月七日、今井館に於て)
明治42410 『聖書之研究』108号「講演」  署名内村鑑三
 
旧約聖書研究の必要
今の信者は、殊に日本の基督教信者は、旧約聖書を読むことが至て尠〔すく〕ない、彼等に取りては聖書と云へば新約聖書のことである、彼等は旧約の如きは彼等の信仰に何の関係も無い者であるかのやうに思ふて居る。
 
然しながら是れ大なる誤謬〔ごびゆう〕である、聖書は旧約と新約とより成る者であつて、其一を欠いて聖書は完全なる者でない、新約は花であり果であるが故に見るに美〔うる〕はしく食ふに善くあると雖〔いえど〕も、然し之を結んだる者は旧約の根と幹とである、樹は其果を以て知らると云ふが、樹を知らずして其果の如何を〔いかん〕知ることは出来ない、旧約を知らざる新約の智識は頼るに足りない者である、新約のみを以て養成されたる信者が往々にして憐むべき信仰的最後を遂(と)ぐるのは、彼等が深く彼等の信仰の根を旧約の磐根に突入(つきい)れないからである。
 
 
愛国心養成のために必要なり
今の信者が新約に重きを置いて旧約を顧みない主なる理由の一は彼等の信仰が余りに個人的であるからである、
彼等は唯〔ただ〕単へに彼等各自の霊魂を救はれんと欲する、彼等に取りては救済とは彼等が一人一人にキリストに由て神に救はるゝことである、国家的救済と云ふことの如きは彼等は措(お)いてこれを省みない、彼等は国家は之を政府に任かし、政党に委〔ゆだ〕ねる、之を神に任かし神に由て之を救はんとするが如き思考(かんがへ)は今は全く彼等の念頭を去つた、故に主としてイスラエル国の救済に就て記せる旧約聖書はおのづと彼等の注意を惹かないやうになつた、是れ彼等に取り国家に取り最も歎ずべきことである、我等の愛国心も亦〔また〕神の我等に賜ひし者であれば、我等は之を神より離して此世の政府と政治家に献ずべきではない、我等の霊魂が神に由て聖〔きよ〕めらるゝの必要がある如く、我等の国家も亦神に由て救はるゝの必要がある、而(しか)して旧約は主として「如何〔いか〕にして神が国民を救ひ給ふ乎」その事を記したる書である、故に是れ何人も深く研究すべき書であつて、此書を等閑(なおざり)に附するが如きは信仰の大欠点であると云はなければならない。
何〔いず〕れの国にも愛国者は無いではない、我国にも多くの愛国者があつた、然しながら人類の歴史に顕はれたる最も高い最も潔い愛国者イスラエル愛国者であつた、何れの国にも未(いま)だ曾〔かつ〕てモーセの如き、ヱレミヤの如き崇高にして荘厳なる愛国者の出たことはない、もし理想の愛国者を見んと欲するならば我等は之をイスラエルの歴史すなわち旧約聖書に於て見なければならない、しかしてイスラエル愛国者に学びて国に真正の愛国者が出るのである、英国に於てもアルフレツド大王の如き、コロムウエルの如き、ジヨン・ブライト、グラツドストンの如き愛国者はすべてイスラエル的の愛国者であつた、欧洲大陸に於てもそうである、米国に於てもそうである、余輩の知る所に由れば未だ曾てイスラエルに学ばずして愛国者と称すべき愛国者の出た例は無いと思ふ、余輩の此言〔ことば〕を疑ふ者は旧約聖書に於てモーセ、イザヤ、ヱレミヤ等の伝を究むべきである、茲〔ここ〕に此世を全く離れたる愛国心が働いて居る、自己以上なるは勿論、国家以上、人間以上の愛国心が働いて居る、愛国心は如何に聖く、如何に尊い者であるかはイスラエルの歴史を読まなければ分らない、哲学者スペンサーの所謂〔いわゆ〕る愛国心とは利欲の心を国家の上に表はせしものなりとか、或ひは博士ジヨンソンの有名の言として伝へらるゝ 愛国心は獰人〔どうじん〕最後の隠場(かくれば)なり と云ふ者の如きはイスラエル愛国者に於てはその痕跡だも見ることは出来ない、故に余輩は真正の愛国心養成のために旧約聖書の研究を我国人に勧める者である。
 
信仰確定のために必要なり
旧約聖書研究の必要はなほ他にも有る、其れは神が人を導き給ふ其方法を拡大して見ることである、神の法則はすべて一つである、大木が生長するも幼芽が発生するも其法則は一つである、大河が海の如くに大洋に注ぐも、細流が糸の如くに溝に入るも其法則は一つである、大は小に由て見るを得べく、小は大に由て見ることが出来る、宇宙の美は茲に在る、大なるもの大ならず、小なるもの小ならず、大も小も皆な同一の法則に由て支配さるゝか
らである。
そのごとく神が箇人を導き給ふも国家を導き給ふも其取り給ふ道は同じである、神に個人道徳と異なりたる国家道徳はない、同一の太陽が大陸をも照らし庭園をも照らすやうに、同一の父なる神が国家をも導き嬰児(おさなご)をも護り給ふのである、我は我心を護り給ふ神を歴史の神に於て認め、又イスラエルを護り給ふ神を我が凡〔すべ〕ての艱難(なやみ)よりの隠場(かくれば)として仰ぐのである、神はイスラエルを救ひしと同じ方法を以て我が霊魂を救ひ給ふのである、撰民の歴史はすべて召されたる者の実験である、新約は個人的で旧約は国家的であるとの区別は、信仰的には決して立たない、同じく神が人を救ひ給ふ方法である、旧約は新約を拡大したる者である、旧約を緊縮したる者、其れが新約である、新約の微妙は之を拡大して旧約に於て見るを得べく、又旧約を昇華したる者が新約である、而して多くの場合に於て小は之を大に於て見るの利益あるが如く、我等の信仰の場合に於ても、之を狭き胸の中の実験としてのみ感ずることなく、時には之を広き国民の歴史として見るの大なる利益があるのである。
 
而して旧約聖書は斯〔か〕かる歴史である、国民を一個人として見ての歴史である、ヱシユルンは肥えて踢ることを為す、汝は肥太(こえふと)りて大きくなり、己を造りし神を棄て、己が救拯(すくい)の磐を軽んず(申命記三十二章十五節)とあるはイスラエルの民を一個人と見做〔みな〕して云ふたのである、神のイスラエルとはイスラエル国であつて、又イスラエル人である、イスラエルの歴史なる旧約聖書は国の歴史でもあり、又信者各自の実験でもある、信者は之に由て其信仰を確かめることが出来る、内なる者果して外なる事に合ふか、微妙なる事、果して顕明なる事である乎、信者は己れの実験をイスラエルの歴史に較べて見て、己に就て此問題を解決することが出来る。
 
 
五書の略解
 
旧約聖書は所謂〔いわゆる〕モーセの五書を以て始まつて居る、即ち創世記、出埃及〔しゆつエジプト〕記、利未〔レビ〕記、民数紀略、申命記、是れである、五書等しくモーセに由て書かれたりとの古代よりの伝説に由て「モーセの五書」と称せられるのである、
其、誠に然るか否やは学者間に大なる議論のある問題であつて、今茲に之に就て余輩の判決を下すことは出来ない、然し五書を通うしてモーセが中心的人物であることは之を一読して見て明かに分かる。
五書は旧約の一部分であつて、別に一階級を為して居る、否な、少しく注意して読んで見ると五書は五書でなくして一書であることが分かる、今、出埃及記一章一節を読んで見ると、英訳に於てはnow を以て始まつて居る、日本訳には此字が訳してないが、是れは是非保存して置くべき字である、即ち「而して」とか「さて」とか
訳すべき片詞であつて前後の連続を示す言葉である、即ち出埃及記一章一節は新たに巻を始むる者ではなくして、前の章節、即ち創世記の末章末節に続いて居る者である事を示して居る、同じ文字が次ぎの利未(レビ)記の始めに於ても顕はれて居る、英訳聖書はand を以て始めて居るが日本訳には茲にも之が除いて在る、是れ亦尠からざる手落(ておち)であると思ふ、and は接続詞であつて是れ亦利未記を前の出埃及記に継(つな)ぐ者である、其次ぎの民数紀略に於ても同じである、申命記は此片詞を以て始めて居らないが、然し其全体の内容より推して見て是れ又前四書に続(つゞ)いて読むべき書であることが分かる、斯くて五書は一書として見るべきである、其一人の作であるか、数人の編纂である乎は別問題として其連続せる一の歴史的記録であることは疑ふことは出来ない。
 
偖〔さて〕、五書は一書であるとして、その五分されたる理由(わけ)も亦之を探ぐるに難(かた)くない、五書は宇宙万物が創造(つく)られてより撰民が国民として存在するに至りしまでの歴史である、即ち其第一期が出世并〔ならび〕に生長期であつて之を記せる部分が創世記である、其第二期は聖別期であつて之を記せるが出埃及記である、其第三期が規則制定期であつて、其記事が利未記である、其第四期が沙漠漂流期であつて、其記録が民数紀略である、其第五期が建設期であつて、之を記述するのが申命記である、イスラエル民族発達の順序が此五書に於て善く顕はれて居る。
然れども五期は判然と区画されたる時期ではない、個人の生涯に於けるが如く国民の発達に於ても一期は他の時期と相聯結して居ることは言ふまでもない、故に創世記を以て悉〔ことごと〕く宇宙創造の記事とのみ見てはならない、
 
其(その)、爾(そ)うでない事は之を一読して見れば明かに分かる、宇宙創造の記事は始めの三章を以て尽きて居る、次ぎに来るのが、人類の草昧〔そうまい〕時代に関はる記事であつて、其次ぎに来るのがイスラエル民族撰定の記事である、創世記の名は初めの数章より出た者であつて、全書に渉〔わた〕りて適用せらるべき者でない、出埃及記も爾うである、埃及を出るの記は是れ又始めの数章にて尽きて居る、其大部分は埃及を出てより後の記である、即ちシナイ山滞留記とも称すべき者であつて、埃及には何の関係も無い者である。利未記は主としてイスラエルの祭事に関はる法令を掲げたる書である、之を利未記といへるは祭事はすべて利未(レビ)の族なるアロンと其子孫とに委ねられたからである、又民数紀略と云へば何やら乾燥無味なる人口統計表のやうにも聞こえるが、民の統計を掲げたのは僅〔わず〕かに始めの二章であつて其他はおもに民族の沙漠漂流記である、
終りの申命記モーセ回顧録とも称すべき者であつて、神が撰民に下し給ひし恩恵の数々を述べて之を一輯して後世に伝へた者である、即ち五書を約(つゞ)めて言へば、撰民の生長を記(しる)せる者、其れが創世記である、其救拯(すくひ)を記(しり)せる者、其れが出埃及記である、其祭事の儀令を蒐(あつ)めたる者、それが利未記である、其懐疑漂流の状(さま)を示せる者、それが民数紀略である、而して以上を回想し一括して後世を誡めし者、又之に由て自から約束の地に入りし記事が申命記である、生長、救拯、祭事、漂流、平安、イスラエル民族も亦人生の此旅程を経て約束の地に入つたのである、而して之を順次に記したる者が所謂る「モーセの五書」である。
 
五書は宛然(さながら)長篇の抒情詩
 
モーセの五書が斯かる書であるとすれば、其、我等各自に深い関係のある書であることは一目燎然である、我等も亦以上の旅程を経て我等の約束の国に入るのである、我等も先づ始めに肉の生長を為し、次ぎに我等の埃及なる此世より救出され、其次ぎに厳格なる祭事の下に聖き神に近かんとし、之に次いで長き間の懐疑の生涯を送り、終に全生涯に渉る神の恩恵を回想し、己に耻ぢ神の前に懺悔して後世を誡めながら自〔みず〕からも亦天のカナンに入るのである、其中に小児時代の無邪気なる歓喜がある、青年時代の冒険がある、潔清(きよめ)と犠牲(いけにえ)とを以て神に事(つか)へんとする苦るしき経験がある、涙の谷に彷徨〔さまよ〕ひし長き間の漂流がある、而して漂流息〔や〕んで最後の歓喜が来る、五書は斯く解して長篇の抒情詩である、我等は古き過去に於ける異国の民の記録として之を看過すべきではない。
1909(明治42)年4月16 ― 3