内村鑑三 創世記  カインとアベル

其四  カインとアベル   創世記四章一―一六節  創世記の研究 1930(昭和5)1
○聖書の此所〔ここ〕を読み誰にも起る問題は、神は何故(なぜ)アベルの供物(そなへもの)を受けてカインのそれを斥〔しりぞ〕け給ひし乎。二人共に己が従事せし産業(なりわい)の産を携来(もちきた)りて献げたのであつて、其間に善悪の差別のありやう筈〔はず〕がない。カインの献げたる土より出たる果はアベルの献げたる羊の初生(ういご)と其肥たる者丈〔だ〕けそれ丈〔だ〕け神聖である。然るにヱホバはアベルと其供物を眷顧(かえり)み給ひしかども、カインと其供物をば眷顧(かえり)み給はざりしと云ふ。それは抑々(そも〳〵)如何(どう)いふ理由(わけ)である乎。こう云ふ問題が起らざるを得ない。
 
○聖書の言葉は簡潔であるが故に、其内に省略が無いとは限らない。茲〔ここ〕にカインとアベルとの供物(そなへもの)を携来(もちきた)りし時の意志の差異(ちがひ)が書落(かきおと)してあるかも知れない。人は外(そと)の形(かたち)を見、ヱホバは心の内を見給ふとあれば、外に現はれたる二人の供物以外に、内に隠れたる意志の差異(ちがひ)が有つたのかも知れない。更らにまたカインが耕作を選び、アベルが牧羊を択〔えら〕みし其目的に大なる相違があつたのかも知れない。何〔いず〕れにしろ神がアベルの供物を喜び給ひしに対して、カインの供物を喜び給はざりしは明白である。
 
○カインの供物は作物、即ち穀類、野菜の類であつた。之に対してアベルの供物は畜産、即ち羊の初生(ういご)と其肥えたる者であつた。そして二人の供物に各自の神に対する態度が現はれたのである。作物は労働の結果であり、畜産は天産(作物に較〔くら〕べて)であつた。殊に作物は植物であつて、畜産は其内に血の流るゝ動物であつた。作物は単
なる供物であつて、畜産には供物以外に犠牲(いけにへ)の精神が籠(こも)つた。そして犠牲は代償を意味し、延〔ひ〕いては贖罪〔しよくざい〕の意味が籠〔こも〕つた。アベルが確然(はっきり)と其理(こと)を了(さと)つたか否やを知らずと雖〔いえど〕も、多分朧気(おぼろげ)に其事に感附(かんず)いたのであらう。即ち罪人なるアダムとエバの子として聖きヱホバの神に近づかんと欲すれば、手に贖罪の印記(しるし)を携へざるべからずと。
多分彼が牧羊に従事した最初の動機が茲に在つたのであらう。即ち羊を飼育し之を神に献げてその嘉納〔かのう〕に与〔あず〕からんとの心根(こころね)よりして此業に従事したのであらう。そして其目的が達して彼は喜び、神も亦〔また〕喜び給うたのであらう。
如斯〔かくのごと〕くに見て、ヱホバがアベルの供物を眷顧(かえり)み給ひし理由が能〔よ〕く判明〔わか〕る。
 
○然るにカインにはアベルに有りし此心が無かつた。彼はたゞ労働に従事した、そして労働の結果を神に献げた。
彼はそれ丈けで神に対する人の本分は尽きると思うた。彼に罪の心配が無つた。民が国に税を納むるが如〔ごと〕くに、納むればそれで義務を果したと思うた。如斯(かくのごと)くにしてカインの神に対する態度は全然律法的であつた、即ち権利義務の関係であつた。為〔な〕すべきを為〔な〕せばそれで事は足りると思うた。神がカインと其供物を眷顧(かえり)み給はざりし理由は茲に在つた。
 
○今日の言葉を以つて曰〔い〕ふならばカインは儀礼的であつてアベルは福音的であつた。カインは行為(おこなひ)を以つて神に事〔つか〕へんとし、アベルは信仰を以つて神に近づかんとした。そして行為の子と信仰の子と相較べて、神は前者に勝さりて後者を愛し給うたのである。
 
○此事を見て取りしカインは甚大の怒を禁じ得なかつた。彼は彼の最善を尽せしに拘〔かか〕はらず、彼は眷顧みられずして、彼の弟の眷顧みられしを見て、彼は憤怨(ふんえん)の余り終〔つい〕に弟アベルに危害を加ふるに至つた。人類の歴史は堕落に次いで殺人を以つて始つた。而〔し〕かも骨肉の殺人を以つて始つた。そして其理由は神に対する態度の相違に在つたと云ふ。何人も聖書に此事を読んで其人生観の不思議なるに驚かざるを得ない。
 
○然し乍〔なが〕ら事実なるを如何〔いかん〕せん。ユダヤ人がイエスを殺し其弟子等を迫害せしも同じ理由に依つたのである。彼等は悪意を以つて殺したのではない、殺すのが神に事(つか)ふるの途〔みち〕であると信じたからである。(ヨハネ伝十六章二)
羅馬〔ローマ〕カトリク教会が許多(あまた)の新教徒を殺したのも之が為である。人の救はるゝは行為(おこなひ)に由らず信仰に由ると堅く信ぜし者は教会の眼には異端の徒、罪悪の輩(ともがら)と見えたのである。そして其事は今もなお変らない。西洋の
諺〔ことわざ〕に「人は何人も生れながらにしてカトリク教徒である」と云ふが、即ち律法の子であつて福音の敵であるとの事である。即ち自己を義とせんとするは人類通有の性であつて、之を悪しと見、之れ以上に信仰の優れるを唱ふる者を忌み、嫌ひ、憎むは少しも不思議でない。
 
○如斯(かくのごと)くにしてアベルは最初のクリスチヤンであつてカインは最初の教会信者であつた。神に事へんとする心は一であるが、事ふる途は異(ちが)ふ。教会は其手の業(わざ)を以つて事へんとするに対してクリスチヤンは羊の初生(ういご)即ち神の
備え給ひし羔(こひつじ)を以つて事へんとする。「手に物持たで、十字架に縋(すが)る」である。自分の罪を認める。自分の能力(ちから)で之を処分する能(あた)はざるを覚る。代償(いけにへ)なくて神に近づく能はざるを知る、故に犠牲が必要である。