内村鑑三 創世記 創世記大意

創世記大意
 
○創世記は創成記又元始録である。天地の元始(はじめ)、人類の元始、罪の元始、救拯(すくい)の元始(はじめ)、文明の元始、国民の元始、選民の元始に就て記(しる)す書である。是が聖書の首(はじめ)に置かるべきは勿論である。聖書各書の大要が其最初の一節に現はるゝが如くに、聖書全体の要点は創世記に示さる。創世記は聖書要録とも亦は聖書之縮図とも称することが出来る。基督教は其源を創世記に於て発してゐる。それ故に創世記を知らずして基督教は解らない。基督教の研究は馬太〔マタイ〕伝又は約翰〔ヨハネ〕伝を以てせずして創世記を以て始むべきである。聖書六十六巻の内で実は創世記よりも大切なる書はないのである。
 
○創世記は之を十一篇に分つことが出来る。其第一篇を除く外は、「其由来は是なり」とか、又は「何々伝の書(ふみ)は是なり」との言葉を以て各篇の始まるを見る。第一篇は天地と其内に在る万物の創造の記録であつて、第一章第一節を以て始まり二章三節を以て終る。第二篇は始祖堕落の記事であつて、二章四節を以て始まり四章廿六節を以て終る。
第三篇はアダムと其子孫の伝であつて、五章一節を以て始まり、六章八節を以て終る。
第四篇はノアの伝であつて、六章九節を以て始まり、九章末節を以て終る。以下凡て此例に傚〔なら〕ふ。即ち創世記は天地の伝、人類の伝、アダムの伝、ノアの伝と云ふのである。以て著者の目的が伝記又は歴史であつて、神話又は譬喩(ひゆ)でない事を知るのである。
 
○そして其歴史は如何〔いか〕なる者であつたか乎と云ふに、人の側に在りては悉く失敗堕落の歴史であつた。人は完全に造られ、完全の境遇に置かれたが、彼は自己に与へられし凡ての特権を濫用し、神より離れ、楽園より逐〔お〕はれ、恵まれの身は呪〔のろ〕はれの身となつた。そして人の為に造られし地は彼の為に呪〔のろ〕はれ、茲に造化の目的は人の罪の故に破れた。然し神の聖意(みこころ)は如此(かくのごと)くにして転覆せらるべきでない。罪の増す所には恵みもいや増せりである。救拯(すくい)は始祖の堕落と同時に始まつた。「彼(婦の裔(すえ))は汝()の頭を砕かん」とありて、茲に後の日に於ける救拯〔すくひ〕が約束せられた(三章十五節)。造化は失望に終つて茲に新たに希望の光を認めた。恰〔あた〕かも歳は冬枯に終つて、新春の希望は既に梢(こづえ)に潜む芽に現はれたと同じである。創世記一名之をPROTOEVANGEL 最初の福音書といふは之が
為である。
 
○人は神から離れて福祉(さいわい)を失つた。そして彼は幾回か其福祉を回復せんと試みた。彼は自己の衷〔うち〕に福祉を獲るの能力が在ると思うた。故に種々の方法を以て幸福の奪還を試みた。彼は文明を案出した。共同生活を盛んにして相互の交際より幸福を獲んと試みた。アダムと其子孫の伝と、ノアと其子孫の伝とは凡て是れであつた。然れど
も神を離れたる幸福獲得の試みは悉く失敗に終つた。人口は殖〔ふ〕え、幸福は増して、その終る所は全般的腐敗と堕落とであつた。
ヱホバ人の悪の地に大いなると、其心の思念(おもい)のすべて図(はか)る所の恒〔つね〕唯悪しき事なるのみを見たまへり。是に於てヱホバ地の上に人を造りし事を悔いて心に憂へ給へり(六章五、六節)
とありて、神は大洪水を下して人と共に地上の万物を一先づ滅(ほろぼ)し給うた。然し乍〔なが〕ら滅亡は全滅でなかつた。神は人の内より比較的に完全なるノアと其一族を選び彼等を救ひて人類最後の救拯の途を設け給うた。恩恵は恒に審判に伴うた。
 
○然し乍らノアと其子孫の伝記も亦名誉の伝記でなかつた。是れ亦希望に始まつて失望に終つた。ノアの子孫はアダムの子孫ほど悪しくなかつた。然し乍ら自己に恃〔たの〕みて神に頼らざりし点に於ては同じであつた。ノアの伝の終極はバベルの塔の建築であつた。之を以て人は自から築いて天に達せんと欲した。又結合して散乱の厄を免かれんと欲した。然れども「我と偕(とも)ならざる者は我に背き、我と偕に斂(あつ)めざる者は散らすなり」とイエスが曰ひ給ひしが如くに、神を離れたる結合は淆乱(みだれ)に終つた。茲に亦ノアを以つてする世の救拯も失敗に終つたのである。
 
○されども人の失敗はまた更らに新たなる救拯の道を神より呼び出した。第十一章二十七節に「テラの伝は是なり」とありて、茲に亦神の新たなる人類救拯の御計画が始まつた。テラの子がアブラハムであつて、彼を以つて選民の歴史が始まつた。アブラハムはバベルの地なるカルデヤのウルを去り、西の方カナンに移住して其処〔そこ〕に選民発展の途を開いた。そしてイサク、ヤコブ、ヨセフと三代続いてアブラハムに下りし神の恩恵を承継した。創世記五十章の内、四十章はアブラハム家の歴史である。記事は詳細に渉〔わた〕ると雖も、孰〔いず〕れも恩恵の記録である。即ち救拯は凡て神より出づと云ふのである。人は自己を救はんと欲して能〔あた〕はず、神能〔よ〕く之を遂げ給ふと云ふ。イサクはアブラハムの老年に於て不思議に生れたる一子である。ヤコブは兄のエサウに代つて立られて恩恵を嗣〔つ〕いだ者である。ヨセフは兄弟等に棄られて反つて神の顧〔かえり〕みる所となりてヤコブの家の長者と成つた。創世記は恩恵の立場より見たる人類の初代史である。(九月二十六日)