内村鑑三 創世記 人の創造

人の創造  創世記第二章 (創世記の研究1930(昭和5)1 月)
 
○西洋の聖書学者は曰ふ、創世記に二つの天地創造記がある、第一章と第二章とがそれである。二者は別個の記事であつて、其間に何等の関係あるなく、編者はたゞ出処を異にする二個の記事を綴合(つづりあは)したるに過ぎず、研究の便宜上第一章をエロヒム系の記事と称し第二章をヱホバ系の記事と云ふと。即ち創世記は著述にあらずして綴合(せつごう)である、今日の言葉を以つて云ふならば主として鋏(はさみ)と糊(のり)とを以つて成りし作であると。
 
或〔あるい〕は然らん、然れども縦〔よ〕し綴合に成つたとするも、目的なしの綴合でなかつた事は明かである。創作必しも善事に非ず、剪切(きりとり)必しも悪事に非ず、要は記事の正確なるにあり。創世記の記者は天地人類に関する或る重要なる事実を伝へんとした、そして彼の使用し得る最良の材料を用ひて其目的を達せんとした。彼に真理を伝へんとする努力の外に何の形式も遠慮もなかつた。彼は今日で云ふ文学者でなかつた、神の真理を語る預言者であつた。故に文字や文体に注意を奪はれては彼の教示(をしへ)を解する事が出来ない。
 
○天地万物は如何にして造られし乎は第一章の教ふる所である。人は如何にして造られし乎が第二章の示す所である。第二章は人の造化に関する精(くわ)しき記事である。「ヱホバ神土の塵を以て人を造り、生気を其鼻に嘘(ふき)入れ給へり、人即ち生霊となりぬ」とある。此は人は神に象(かたど)りて其像(かたち)の如くに造られたりと第一章に記さるよりも更らに精細なる記事である。即ち人が神に似るは其霊に於〔おい〕て在りて肉に於てあらざる事が的確に記さる。
又地と其内に在る万物は人の為に造られし事が記さる、即ち造化の目的は人に在り、人は万物の内の一にあらずして其主人公たる事が記さる。又人が置かれしと云ふエデンの園は四大河の発源地に方〔あた〕り、古代世界の中心に位し、四通八達の地たりし事が記さる。又女性の創造に就て記さる、即ち男は女の為に造られしに非ずして女は男の為に造られし事が記さる。殊に夫婦一体の真理が示さる。以上何〔いず〕れも現代人の立場より見て記事の疎雑を免れずと雖も、其伝ふる真理の深遠なるや疑ふべきに非ず。神に教へられし者にあらざれば、四千年前の昔に是等の大真理を伝ふることは出来ない。
 
○ことに驚くべきは第九節並に第十七節の言〔ことば〕である。
ヱホバ神、園の中に生命の樹及び善悪を知るの樹を生ぜしめ給へり……ヱホバ神人に命じて言ひ給ひけるは、園の各種の樹の果は汝意の儘〔まま〕に食ふことを得、されど善悪を知るの樹は汝その果(み)を食ふべからず、汝之を食ふ日には必ず死ぬべければなり。
園は世界の中心にあり、其園の中心に二本又は二種の樹があつた、生命の樹と善悪を知るの樹とがあつた。人は前者を食ふて生き、後者を食へば死すとの事であつた。此は事実である乎比喩である乎、能〔よ〕く判明〔わか〕らない、然し人生の大事実を語る者であることは明白である。生命の樹は信仰である、善悪を知るの樹は知識である。人は信仰に由て生き、知識に由て亡ぶと云ふのである。現代人の到底承知せざる所である、然れども聖書が堅く執りて動かざる真理である。義人は信仰に由て生く。文字は殺し霊は生かす(〔コリント〕後書三の六)
人の生命は真の神を信ずる信仰に於てある、知識、文字、哲学、芸術に於て無い。深い貴い真理である人が始めて造られしや、直〔ただち〕に彼に示されねばならぬ真理である。人の造化に関する記事の内に此記事が欠けて大なる書きおとしがあるのである。
 
○かくのごとくにして地は成り、人は成り、万物は成りて、人の生活即ち人生が始つた。然し人生は無条件にて幸福なるべき者でなかつた。人の最初の住所たりしエデンの園の中心に二箇の樹が植えられた。其の孰〔いず〕れを食ふ乎に由つて祝福と呪詛(のろい)とが定められた。生命か行為か、信仰か知識か、アブラハムソクラテスか、ユダヤかギリシヤか、道は唯〔ただ〕二途あるのみであつた。此世はその創始より試練の世であつた。創世記第二章は人生を其初発(はじめ)の時期に於て画いて誤らなかつた。
 
○人は試練を経る前に恥を知らなかつた。「アダムと其妻は二人共に裸体にして愧(はじ)ざりき」とある。即ち辜無(つみな)き小児の状態である。知識なく、愧(はじ)を知らずして、野蛮人の状態でありし乎の如くに見ゆ。然し人は知識の利益を知つて信仰の効果を知らないのである。知識が発達して成つた者が今日の文明である、然し信仰が発達して成りし者の如何なりし乎を知らない。少数の個人の場合に於て真の信仰は真の紳士と淑女とを作つた。人類が若し知識に由らず信仰に依りて其発達を遂げたならば今とは全く異なりたる文明を産んだであらう即ち人生の至上善と称せらるゝ愛、義、同情の世界を実現したであらう。そして知識も亦豊かに賦与(さずけ)られたであらう。戦争と涙の伴はざる進歩発達を見たであらう。そして今の世に於ても信仰が知識に代りて勢力と成るに及んで真の幸福を見るのである。生命である、知識でない。善悪を知り、倫理哲学の蘊奥(うんおう)を窮めて生命が得らるゝのでない、神を知るの知識即ち信仰が有りて善悪が明白に成るのである。