内村鑑三 創世記 第1章第1節(1)

創世記第一章第一節 (1)
 
(一九一九年一月一日東京基督教青年会々館に於て述べし所)
大正8110日『聖書之研究』222  署名内村鑑三
 
「元始(はじめ)に神天地を創造(つく)リ給へり」、実に偉大なる言辞(ことば)である、之にまさるの言辞は天上天下他に有らうとは思はれない、五箇(いつつ)の大なる言(ことば)より成る一節である、元始、神、天、地、創造、いずれも巨大なる言辞である、五箇の大世界を以て形成(かたちづく)られたる大宇宙の如き観(くわん)がある。
 
「元始(はじめ)」、何の元始である乎、勿論神の元始ではない、神は無窮(むきゅう)であつて始もなければ終もない、故に元始と云へば云ふまでもなく天と地との元始である、即〔すなわ〕ち万有の元始である、此無窮なるが如くに見ゆる宇宙万物、之に元始があつたのである、故に終焉(おわり)があるのである、即ち此天地が無かつた時があつたのである、神のみが在〔い〕まして他に何物も無つた時があつたのである、遠大なる過去、人は之を想像する事が出来ない、然し斯〔か〕かる時があつたことは確実(たしか)である。宇宙は大なりと雖〔いえど〕も一の製造物に過ぎないのである。
 
「神」在りて在る者(I am that I am)、無窮の実在者、天地の在らざりしさきに在りし者、何者にも造られざる者、父の父にして父を有(もた)ざる者宇宙広しと雖も之を包含して之に包含されざる者宏大無辺、憐憫(あわれみ)あり、恩恵(めぐみ)あり、怒ることの遅き、恩恵(めぐみ)と真実(まこと)の大なる者、是れが神である、名を附すべからざる者、然かも人の霊に最も近き者、神と云ひて我等は無限を云ひ、凡(すべて)の凡(All in All)を云ふのである。
 
「天」地以外のすべての物体を指して云ふ、月と日と大陽系に属するすべての遊星、蒼穹に輝く幾千万の星、
星雲、星河、オライオン、プライアデス其他諸(すべて)の星座、之を総称して天と云ふ、宏大荘美、之を叙述するに足るの言辞(ことば)あるなしである。
 
「地」人類の置かれし此地、直経僅(わずか)に八千哩〔マイル〕の小球なりと雖も、神の像(かたち)に象(かたど)られて造られし人を置かんが為に造られし宇宙の楽園、ベツレヘムのユダの郡中にて至小(いとちいさ)きものたるに拘(かか)はらず民を牧(やしな)ふべき者の其中より出しが如くに、恒星遊星の中に在りて至小(いとちいさ)き星なりと雖も、神の子と称せられて万物を治むるの権能を与へられたる者、即ち人が其上に現はれたのである、地は量に於て小なりと雖も質に於て大である、宇宙広しと雖も地の如くに美〔うる〕はしき所はないのであらう、是れ神が其独子(ひとりご)を降(くだ)して御自身に贖〔あがな〕はんと欲し給ひし者であつて、之を全宇宙の道徳的中心と見て誤らないのであらう。
 
「創造」、無きものを有(もた)らしむるの意である、理想実現の意である、詩人が其思想を韻文に現はすが如き、美術家が其の理想を彫刻又は絵画又は楽譜に現はすが如き之れ皆な創造のたぐいである、創造は製作であつて製作以上である、製作はすでに有る物を以ていまだ有らざる者を作ることである、創造は未だ無き物を世に出す事である、製作は機械師の事(わざ)であり創造は天才の業(しごと)である、意志と理想と技巧とありて創造は成し遂げらるゝのである、工作の至極、之を称して創造と云ふと謂〔い〕ひて誤らないと思ふ。
 
「元始に神天地を創造り給へり」、天地は自(おのづ)から出来たのではない、神が創造(つく)り給ふたのである、進化論と云ひて物質が自から現はれ、自から進化して天地万物と成つたのではない、神が之を造り給ふたのである、又神是れ宇宙ではない、宇宙は神に由て造られたのである、神は宇宙と同体ではない、神は宇宙を造り之を支(ささ)へ之を持続し、以つて彼の目的を達し給ふのである、聖書は巻頭第一に「元始に神天地を創造り給へり」と唱へてダーウインの進化論を排しスピノーザの汎神論を斥〔しりぞ〕けたのである、宇宙は神の手(みて)の作である、自(おのず)から出来た者ではない、勿論神ではない。
 
○神に由りて造られし宇宙は言ふまでもなく完全である、精巧である、此の宇宙の中に在りて地球が彗星と衝突して破壊するやうなる事はない、如何(いか)に完全なる時計と雖も宇宙の完全なるが如く完全なる能(あた)はず、人の作りし機械は神の造り給ひし宇宙の真似事に過ぎないのである、又完全なる宇宙であれば人が之を気儘(きまま)に使ふ事は出来ない、宇宙は一定の法則の下に造られし者であつて之を使ふには其法則に服従しなければならい、神の造り給ひし宇宙である、故に敬虔(けいけん)以て之に当らなければならない、ヱホバ其聖殿に在(いいま)し給ふ、世界の人其前に静にすべしである、天地は神の聖殿である、ソロモンが一国の富を挙げて七年を費して建てしと云ふシオンの山の聖殿に勝(まさ)るの聖殿である、人は其内にありて其造主(つくりぬし)を敬畏せざるべからず、然るに何者ぞ此聖殿の内にありながら劇場に在るが如きの感を懐き、酔酒放蕩の中に其生涯を送るとは、神の造り給ひし天地である、故に神の為に使用すべき者である。
林の諸(もろ〳〵)の獣(けもの)、山上(やまのうえ)の千々の牲畜(けだもの)は我有(わがもの)なり我は山の凡(すべて)の鳥を知る、野の猛獣(たけきけもの)は我有(わがもの)なり世界とその中に充(みつ)るものとは我有なりと言ひ給ひしが如くである(詩篇五十篇十―十二節)、然り金も銀も鉄も銅も山も林も野も原も而して其中に充る凡(すべて)の物は悉〔ことごと〕く神の造り給ひしものであつて彼の有(もの)である、然るに人類は極めて少数者を除くの外は此簡単にして明瞭なる事を知らないのである、彼等は神の造りし物を我有(わがもの)と見做(みな)すのである、いわく我が山林、我が原野、我が家畜と、彼等は財産と称して之に対する己が権利を主張し、人の之を侵害(しんがい)するあれば腕力に訴へても之を守らんとする、彼等は皇帝(カイゼル)のものは之を皇帝(カイゼル)に納むる事あるも神のものは之を神に納めんとしない、神の造り給ひし葡萄園を奪ひ其主人を殺し以て己が所有権を擅(ほしいまま)にするのである(馬太〔マタイ〕伝廿一章三三以下)。神「此等の悪人を甚く討滅(うちほろぼ)し給はざらんやである(四十一節)、神の造り給ひしものを己が有(もの)と見做す、戦争の起因は此に在るのである、盗賊相互に奪ひしものを争ふのである、人類は盗賊である、彼等は神の造り給ひしものを奪ひて之を相互の間に争ひつゝあるのである、人類が神の万物の所有権を認むるまでは戦争は止〔や〕まない、彼等は神のものを奪ひし其罪の結果として相互に対して戦争を宣告し相互を屠〔ほふ〕り以て神に対して彼等が犯せし強奪(ごうだつ)の罪を相互の間に罰
しつゝあるのである。
 
○「元始に神天地を創造り給へり」、神は無暗に手当り次第に天地を造り給ふたのではない、或る明確なる目的を以て之れを造り給ふたのである、義と愛との神の造り給ひし天地であれば終〔つい〕に義と愛とを実現せざれば止まない筈である、神の創造が失敗に終りやう筈はない、彼が永久に之を悪人の濫用に委〔ゆだ〕ね給うとは如何(どう)しても思はれない、彼は「此等の悪人を甚く討滅(ほろぼ)し期(とき)に及んでその果(ぶどう)を納むる他の農夫に葡萄園を貸与(かしあた)へ給ふ」に相違ない(馬太伝廿一章四一)、故に今日の悪人の跋扈(ばっこ)、不義不虔の横行、是れ暫時的のものであるに相違ない、「元始に神天地を創造り給へり」、故に終末(おわり)に神之を己に収め給ふべし、神は己が造り給ひしものを己に奪還(とりかへ)さんとて臨(きた)り給ふ、之れを称して審判(さばき)の日といふ、即ち神の勘定日である、万物の復興、義人の復活、悪人の討滅、天地の完成、是れ皆元始に神が天地を創造り給ひし其必然の結果として起るべき事である。
 
「元始に神天地を創造り給へり」とは聖書巻頭第一の言辞(ことば)である、「我れ必ず速(すみやか)に至らんアーメン、主イエスよ来り給へ、願くは主イエスの恩寵すべての聖徒と共に在らんことを」とは聖書の最終最後の言辞である、斯〔か〕くして信仰を以て始まりし聖書は希望を以て終つて居るのである、「我等信仰に由りて諸(もろ〳〵)の世界(天地万物)は神の言(ことば)にて造られ、如此(かく)見ゆる所のものは見るべき物に由りて造られざるを知る」とある(希伯来〔ヘブル〕書十一章三)、神に由る天地の創造は信者の信仰第一である、「我等の生命(いのち)なるキリストの顕(あら)はれん時我等も彼と共に栄(さかえ)の中に顕はるゝ也」とある(哥羅西〔コロサイ〕書三章四節)、キリストの再顕と之に伴ふ信者の栄化(えいくわ)とは彼等の最大希望である、初めに神に造られし万物は終りに茲に至らざるを得ない、神の造り給ひし天地、之が混沌(こんとん)に終りやう筈はない天地は神の工作(みわざ)である、故に神の目的を達して主イエスの恩寵(めぐみ)をすべての聖徒に下すに至るや必然である、実(まこと)に聖書巻頭第一の言辞(ことば)の中に聖書の全部が包含(ふく)まれてあるのである。
1919(大正8)1
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