内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第19講 ヨブの見神(三)

第十九講ヨブの見神()  約百記第二十八章の研究(十二月五日)
 
○地の事、海を制する事、黎明〔よあけ〕の事を述べて其処〔そこ〕に神の力を見るは三十八章一節―十五節の骨子であつて前回の講演の主題であつた、今日は十六節以下について語らんとする、十六節より三十八節までは自然界の現象を幾つも掲げて、之を起す神智の不可測を示し、之が根源を知らざる人智の狭小を示すのである、各節について精細に説明すべき時を有〔も〕たぬ故その中の二三について語らう。
 
○十六節には「汝海の泉源(みなもと)に至りしことありや、淵の底を歩みしことありや」とある、海水の湧起する源と深き水底は人の達し得ざる所である、其処に於て永遠に隠されたる秘密を探り得ざる人智の弱さを見よとの意である、十八節には「汝地の広さを看究(みきは)めしや、もし之を尽(こと〴〵)く知らば言へ」とある、これ亦〔また〕地の広さの知られざりし時に於ては人智の極限を有力に示す語である、二十四節には「光明の発散(ひろが)る道、東風の地に吹きわたる所の路は何処〔いずこ〕ぞや」とある、光は東より忽〔たちま〕ち全視界に広がり東風は忽ち吹き来つて地を払ふ、光と風の通り来る東の路は何処ぞ、誰人も之を知らずと云ふのである、其他の各節いづれも同一意味を伝ふるものであつて、自然界の諸現象を起し得ず又究め得ざる人間の無力を指摘して、神の智慧と能力(ちから)とを高調したのである。
 
○次に注意すべきは三十一、二節の有名なる語である。
汝 昴宿(ばうしゅく)の鏈索(くさり)を結ぶや、参宿(しんしゅく)の繋縄(つなぎ)を解くや、汝十二宮を其時に従ひて引き出だすや、又北斗とその子星を導くや。
邦訳聖書には各成句(クローズ)の結尾を「得るや」と訳してあるが寧〔むし〕ろ右の如く訳すべきものである、空気清澄にして夜ごとに煌々〔こうこう〕たる満天の星辰を仰ぎ得たるアラビヤ地方に住みて、ヨブは如何〔いか〕に天を仰いで星を歎美しつゝあつたことであらう、隊商(カラバン)に加はりて沙漠の夜の旅を続けし時の如き彼の心は天に燦〔きらめ〕く星の神秘に強く打たれたことであらう、そして斯〔か〕く星天の美妙を歎称しつゝありし彼の心に、恰〔あたか〕もアブラハムに向ひて「天を望みて星を数へ得るかを見よ」と告げ給ひし如く、神は此時此言を下し給ふたのである、彼は神の諭告(さとし)として此時特に強くこの言を聴いたのである。
 
○この語は約百〔ヨブ〕記が各国の語に訳せらるゝと共に人々の注意を惹〔ひ〕きて、崇高麗美の語として名高きものとなつた、各国の人々に天文思想を喚起せし点に於て此語に及ぶものはあるまいと思ふ、寔〔まこと〕に約百記に於て此美〔うる〕はしき文字に接して天を窺〔うかが〕はんとする心を起すは当然である。
 
○九章九節にも既に北斗、参宿、昴宿の語があつたが今また此三つが出で尚〔なお〕その他に十二宮が出でたのである、約百記の読者は天文について少くとも之位は知つて居らねばならぬ、之だけの星を知るも大なる夜の慰めとなるのみならず神の御心を知るに於ても益せらるゝ処少なくない、実に天然は聖書以前の聖書である、其中に神の御心が籠つてゐる、只〔ただ〕人の心浅くして之を悟り得ざるを遺憾とするのである。
 
○先づ参宿(しんしゅく)とはオリオン星座(Orion)のことである、支那にては二十八宿の一として参宿と云ふ、日本にては「三つ星」と称し来りしものである、中央に三星の一列に並ぶあり之を遠く囲む四の星あり、孰〔いず〕れも強き光を放つ星にして巨星の一群として他に類例なく、古来各国の人の注意を惹きしも当然である、ヨブは幾千年前アラビヤの曠野に此星を仰ぎ見て神の能(ちから)と愛とを懐(おも)つたのである、我等今日此星を仰ぎ見て同じく神を懐ひ古人と心相通ずるの感を抱かざるを得ない、次に昴宿(ばうしゅく)はプライアデス(Pleiades)のことで、オリオンの西北方に見ゆる小星の一群を云ふのである、日本にては之を「スバル星」と云ひ来つた、これ縛る星の意であつて幾つもの小星が連なりて一団をなし居るを以て名けたのであらう、又六連星(むつれぼし)とも云ふ、これ普通の視力ある人に六つだけ星が見ゆるからである、併〔しか〕し実は沢山の星の集団なのである、参宿と昴宿は甚だ解り易くして特色があるため古代より人の注意を惹いたのである。
 
○「汝昴宿の鏈索(くさり)を結ぶや、参宿の繋縄(つなぎ)を解くや」とは何を意味するか、古代人は凡〔すべ〕て天象を動物に擬(なぞら)へたもの故、「結ぶ」「解く」等の語を用ひたのであると云ふのが普通の見方である、併しそれだけでは文意は充分明かとならず従つて註解者は大に苦心し来つたのである、而して最近の天文学上の新原理が極めて鮮かに此語を解し去るのは誠に面白き一事実である、「昴宿の鏈索を結ぶや」と云ふは昴宿の各星を繋ぐ無形の連鎖ありと考へ、それを結びつゝあるは造物者にして到底人に不可能なりとの意味を言ひ表はしたのである、また「参宿の繋縄(つなぎ)を解くや」は参宿の各星の繋ぎを解きつゝあるは神にして人間の為し得る処にあらずとの意である、故に若〔も〕し昴宿の各星は永久に結ばれ参宿の各星は次第に分離しつゝありとすれば、此語の意味は頗〔すこぶ〕る的確になるのである。
 
○そして不思議な事には最近の天文学上の新学説が此事を語りつゝあるのである、宇宙には二大星流ありて凡て
の星は二大星流の孰れか一に属して流動しつゝありとは最近の学説である、即ち宇宙の凡ての星は二大系統に別
れて全虚空を運動しつゝあるのである、かくの如き星の運動の結果、昴宿の各星は孰れも同一方向に動きつゝあ
るため全団が一となりて流動しつゝあるわけにて其繋ぎ永久に不変であるが、参宿の各星は別々の方向に動きつ
ゝあるため五万年の後には遂に分散し去るべしとの事である、(フラムメリオンの如き天文学者は明かに此事を
断定してゐる)、約百記著作の時代に於て昴宿の永久的不変と参宿の漸々的分散とが天文学上に解つて居たとは
断じ難い、併し最近に発見せられたる此事を以て約百記の此語を鮮かに解き得ると云ふは面白き事である。
○「汝十二宮を其時に従ひて引出し得るや」とは何を意味するか、「十二宮」とは謂〔いわ〕ゆる黄道十二宮にして地球より見て太陽の通る道に当る十二の星座を指すのである、そして其現はるゝ期節は各々異なるのであるから「其時に従ひて引出し得るや」と云ふたのである、又「北斗と其子星を導き得るや」とは北斗七星が北極星の周囲を廻りつゝあるを捉〔かな〕へて、汝この事を為し得るやと問ふたのである、即ち十二宮の各星を其時に適ふやう誤りなく東方に上らしめ且〔かつ〕北斗七星を北極星の周囲に動かす事の如き、到底人力の為し得ざる処にして其処に全能者の力と智慧を認めざるを得ずとの意味である、(今日の人にして十二宮の名を知れる人、又これを天に於て認め得る人が幾人あるか、数千年前の天文学の侮るべからざると共に、ヨブが信仰家なる外に又天然学者なりし事を知るのである)
 
○ヨブは右の如く天の星を見た、彼は人力の及ばざる其処に神の無限の力と智慧とを見た、人の小と神の大とを
知つた、彼は星夜に独り天を仰いで其処に神を見た、神と彼と只二人相対して前者の声は燦(きらめ)く神秘の星を通して後者に臨んだのである、是れ彼の実験的に味ひし聖境にての聖感であつた、星を見るも何等感ずる所なしと云ふ人もあらう、併しそは其人の低劣を自白するだけのことである、星を見て神を見るの実感が起らざる人にはヨブの心は解らない、神の所作を見て神を知り得ぬ筈がない、我等は彼の作物たる万象に上下左右を囲まれて呼吸しつゝある、さればそれに依て益々神を知らんと努むべきである。
 
○三十八節を以て無生物の列挙は終り三十九節より動物のことに移りて其儘〔そのまま〕次の三十九章に及ぶのである、既に神の第一の所作なる無生物を見終へたれば之よりは其第二の所作たる生物に及ぶのである、その委〔くわ〕しきは之を次回に譲らう。
 
○神の造り給ひし万物に囲繞〔いじよう〕されて我等は今既に神の懐(ふところ)にある、我等は今神に護られ、養はれ、育てられつゝある、神を見んと欲するか、さらば彼の天然を見よ、海を見よ、地を見よ、曙を見よ、天の諸星を見よ、空の鳥、野の獣を見よ、森羅万象一として神を吾人に示さぬものはない、我等は今神を見つゝある、たゞ神を見て居りながら自ら其事を知らぬのである、併〔しか〕し乍〔なが〕ら少しく心を開き眼を深くすれば我等が今神を見つゝある事を悟るのである、万象の中に神を見る、これヨブの見神の実験にして又我等の最も確実健全なる見神の実験である。
 
 
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