内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第11講 エリパズ再び語る

第十一講 エリパズ再び語る 約百記第十五章の研究(九月十二日)
 
○茲〔ここ〕に夏期休暇を終へて約百(ヨブ)記研究を再開するに至りしは我等の歓びとする所である、余は今年中又は来春までに於〔おい〕て約百記講演を完了せんと希図してゐる、これ講者に取りても聴者に取りても明かに一の記録(レコード)を造ることである。
 
○今日は第十五章を研究するのであるが其前に二三の雑感を述べ度い、過ぐる数年間欧亜の天地を荒らした世界
戦争が幾百万人の生命を戦場の露と化した後、戦争と動乱とは尚〔な〕ほ世界の各地に於て行はれつゝあつて新たに何万何十万の生命が断たれたのである、あゝ人類は今に至るも尚ほ戦ひつゝある、世は依然として涙の谷である、此事を思ふて我等に無限の哀愁(かなしみ)なきを得ない。
 
○次に新星出現について余は感ずる所あつた、余は八月二十一日の夕より此新星を見たのであるが、新星とは云ふものゝ、凡〔すべ〕て恒星より此地球まで光のとゞくには少くも数年を要するのである故、これは今より幾年又は幾十年以前に現はれし新星が今に至つて初て見えたに過ぎぬのである、この新星に接して余は「茲に大なる異象(しるし)天に現はる(黙示録〔もくしろく〕十二章一節)の一句を想起した、これ吾人々類に対して何事かを教示する異象(しるし)と見て意味深くある、天文学者の説によれば新星とは暗星(光の消えし星)が大速力を以て漠々たる空間を航行中他の星と激突して高熱を生じ爆発燃焼せしものであると云ふ、勿論各天体は広漠なる宇宙間に浮動せる者故天体と天体の衝突が頻々として起ると云ふ事はない、同時に何時それが起るかも知れぬと云ふ虞〔おそれ〕がある、我地球の如〔ごと〕きもかゝる衝突に会して忽〔たちま〕ち燃焼し新星と化すると共に地上の生物悉〔ことごと〕く焼死するの悲運に何時〔いつ〕逢ふかも計られぬのである、聖書に云ふ所の「世の終末(おわり)」は或(あるい)は斯〔か〕くの如き事情のもとに起るものであらう、「其日(主の日世の終)に天大なる響ありて去り体質悉く焚毀(やけくず)れ地と其中にある物みな焚尽(やけつく)さん、かくの如く凡てのもの鎔(とか)されん……神の日には天燃(もえ)毀(くず)れ体質焼(やけ)鎔(とけ)ん、されど我等はその約束に因りて新しき天と新しき地を望み待てり、義その中に在り」(ペテロ後三章)と云ふ、此時地は悉く燃え去るのである、万物は痕形(あとかた)もなく虚空(こくう)に向て消え去るのである、凡ての物焼毀(やけくず)れ、燃尽(もえつく)し、燃毀(もえくづ)れ、焼鎔(やけと)けるのである、あゝ恐るべき世の終万物の終極よ! 併〔しか〕し乍〔なが〕ら我等は神の恵を確信する、主の約束に信頼する、その時新しき天と新しき地は出現して、義その中に在る理想の社会は起るのである、我等その事を望むが故に今や世界はその終末に向つて急走しつゝあるも我等は恐れないのである、「すでに之を望み待てば汚(しみ)なく疵(きづ)なく主の前に安然(やすらか)に在らんことを務」むるのである。
 
○此度の新星は幾年又は幾月ほど其光を地球まで放つかと云ふのが問題であつて、少くも半年や一年は其光輝を
保つと思はれしに、日に光を減じて今や肉眼を以ては殆〔ほと〕んど見る能〔あた〕はざるに至つたのである、すべて新宗教、新神学の類はこれである、その出現の時に当つては大なる光を放ち以て一世を風靡〔ふうび〕するが如く見える、其時我等の信ずる基督教の如きは其光甚だ薄く見えるのである。併し仮すに暫〔しばら〕くの時日を以てすれば足りる、三年、四年、か又は十年を出でずして新宗教の光は忽ち薄(うす)れゆきて世の噂〔うわさ〕にすら上らぬ程になる、然〔しか〕るに福音は依然として世を照す光として止まるのである、されば我等は此永久に新しくして且輝光を放つ福音を学ぶために聖書研究の必要ます〱大なるを思ふのである。
 
○これより再び約百記の研究に入らんとするに当つて約百記全体の綱目(こうもく)を掲げて研究の便に供する、即ち左の如くである。
 
約百記綱目
発端……………………………一、二章
ヨブ対友人…………………………三章―三十三〔三七〕章
ヨブの独語…………………………三章
論戦第一回
エリパズ語る……………………四、五章
ヨブ之に答ふ…………………六、七章
ビルダデ語る……………………八章
ヨブ之に答ふ…………………九、十章
ゾパル語る………………………十一章
ヨブ之に答ふ…………………十二、十三、十四章
論戦第二回
エリパズ語る……………………十五章
ヨブ之に答ふ…………………十六、十七章
ビルダデ語る……………………十八章
ヨブ之に答ふ…………………十九章
ゾパル語る………………………二十章
ヨブ之に答ふ…………………二十一章
論戦第三回
エリパズ語る……………………二十二章
ヨブ之に答ふ…………………二十三、二十四章
ビルダデ語る……………………二十五章
ヨブ之に答ふ…………………二十六―三十一章
エリフの仲裁………………………三十二―三十七章
ヱホバ対ヨブ………………………三十八―四十一章
結末……………………………四十二章
 
○約百記は右の如き結構の上に成立つものである、三回の論戦の経過を見るにヨブは次第に其論陣を進め三友は
次第に萎縮退嬰〔いしゆくたいえい〕するの形がある、論戦すゝむに従つてヨブの語が次第に長くなる傾きあるに反して三友の語は次第に短くなり、第三回戦の最後に現はるべきゾパルは遂に姿を見せないのである、此時青年エリフ両者の態度に憤りを起して現はれて仲裁を試み、最後にヱホバ御自身ヨブを諭してヨブに平安臨み、そして結末となるのである。
 
(項 目) (章の数)
発  端   2
エリパズ   4
ビルダデ   3
ル   2
ヨ  ブ   20
フ   6
バ   4
結  末   1
総 計    42
 
○今全巻四十二章を左表の如く分類することが出来る、之に依て見るにヨブの語りし所は併〔あわ〕せて二十章に亘〔わた〕るも、三友の語は全部にて九章に過ぎず、之にエリフの語を加ふも尚ほ十五章を出でないのである、もし彼等節の数による分類表を作らば更に興味あることであらう。
 
○約百記の主部はヨブ対三友の論戦である、此論戦は十四章までに於て第一回を了〔お〕へて十五章よりは第二回に入るのである、論戦の主題は簡単なれども人生の深き疑問に関す、即ち患難は凡て罪悪の結果なるか如何〔いかん〕、義〔ただ〕しき者に患難の下る理由如何の問題である、三友は患難災禍を以て罪悪の結果とのみ見る時代思想の中に呼吸せる人、故にヨブに続々として臨みし禍(わざわひ)は彼の罪悪を証明するものと堅く思ひて動かなかつた、されば彼等は先づ間接に此事を暗示してヨブをして其理由を認めて悔改〔くいあらた〕めしめんとしたのである、ヨブ一度其罪を自認して告白せば災禍は忽ち彼を去つて倍旧の物的恩恵かれを見舞ふならんと彼等は考へたのである、誠に彼等は時代思想の子であつたのである、故に第一回戦に於ては彼等は成るべく穏かなる語を以てヨブを責め、彼等に責めらるゝヨブは却〔かえつ〕て真理の閃光〔せんこう〕を浴びつゝ徐々として光明の域に向つて進むのである、さり乍〔なが〕ら一方彼はまた友等に対しては頗〔すこぶ〕る頑強の態度を持し自己の無罪を主張して敢て降らず、却て無罪なる彼を虐(しひた)ぐる神を惨酷無慈悲なりと呼号するのである、茲に於て三友は彼を頑冥〔がんめい〕不霊となして憤りを発し、此度は陣容を改めて間接射撃を罷〔や〕めて直接射撃に入つたのである、これ即ち第二回戦である。
 
○そして第二回戦の火蓋(ひぶた)を真先に切つたものは例に依つて長老のエリパズである、この十五章を前の彼の語即ち四、五章と比較するとき其語勢、その態度に大なる相違あることが認められる、間接より直接に、静穏より峻酷(しゅんこく)と彼は変つたのである。
 
○一節―十一節はヨブを驕慢者〔きようまん〕となして直接に向けたる批難の矢である、けだし第一回論戦に於けるヨブの最後の答には彼が己を以て三友に優〔まさ〕れりとなす自信が漲〔みなぎ〕つてゐる、「我は汝等の下に立たず、誰か汝等の言ひし如き事を知らざらんや」と云ひ、又「汝等が知るところは我も之を知る、我は汝等に劣らず」と主張し、そして「汝等は皆無用の医師(くすし)なり、願くは汝等全く黙せよ、然するは汝等の智慧なるべし」と嘲〔あざけ〕る、ヨブの之等の言に彼等はその誇(ほこり)を傷けられ、そしてエリパズはその返報としてヨブを責めるのである、先づヨブを以て智者にあらずと断じたるのち、「まことに汝は神を畏るゝ事を棄て其前に祈ることを止む」とて彼を不信者となして責め、次に「汝の罪汝の口を教ふ……汝の口みづから汝の罪を定む、我にはあらず汝の唇汝の悪きを証(あかし)す」と云ひてヨブの罪を肯定してゐる。
 
○七節―十一節は自〔みずか〕らを智(さと)しと做(な)すヨブの誇を挫〔くじ〕かん為の語である、「汝あに最初(いやさき)に生れたる人ならんや、山よりも前に出来しならんや云々」とあるは、神の世界創造に当つて其相談相手たりし天使ならんやとの意を伝ふ語である、ヱホバ神まづ天使を造り彼を相談相手として天地万有を造れりとは、いつとはなしに古代人間に起りし伝説であつたのである、「我等の中には白髪(しらが)の人及び老いたる人ありて汝の父よりも年高し」とあるは老齢の権威を以て年少者に臨むものである、これ年長者の智慧は年少者に優るとの先有観念の生みし語である、併し乍らエリパズの此態度は心霊問題に関しては全然不合理なる態度である、心霊のことに於ては人は一人々々独立である、神と彼と二者相対の上に心霊問題は生起する、年齢の権威も地位の権威も此間に圧迫の力を揮ふことは許されない、老人なるが故に其智壮者に勝つと云ひ監督(ビショップ)なるが故に其信仰平信徒に優ると云ふが如きは、而して斯くの如く言ふて己を立て他を倒さんとするが如きは過(あやま)れるの甚しきものである、許しがたき背理である。
 
○次の十二節―十六節は「人は如何〔いか〕なる者ぞ、如何〔いか〕にして潔からん、女の産みし者は如何〔いか〕なる者ぞ、如何〔いか〕にして義しからん」との意味を述べて、みづからを義(ただ)しとするヨブの反省を促した語である、十節は「罪を取ること水を飲むが如くする憎むべき穢(けが)れたる人」なる語を以て人間其者の性質を説明してゐる、渇く者はおのづから水を取る、これ其本然の必要に促されてゞある、その如く人が罪を取るは其本性上然る所であつて人は到底罪人たる境涯より脱し得ぬと、これ此語の暗示する所である。
 
○十七節よりエリパズの論歩は一転する、先づ言ふ「我れ汝に語る所あらん、聴けよ我れ見たる所を述べん、是
れ即ち智者等が父祖より受けて隠す所なく伝へ来りしものなり、彼等にのみ此地は授けられて外国人(とつくにびと)は彼等の中に往来(ゆきき)せしことなかりき」と、これ祖先伝来のまゝにて何等外国の影響を受けざる雑(まじ)りなき純の純なる教を説かんとの意である、恰〔あたか〕も我日本に於て日本古来の道にして何等外来思想を混へざるものと称せらるゝものが一部の人々に此上なく(何等格別の理由なくして)尊信せられ居る如く、エリパズは祖先の教の其儘〔そのまま〕に伝へ来りしものを、唯〔ただ〕雑(まじ)りなき祖先の教であると云ふだけの理由の下に神聖視して、茲に説き出さんとするのである。
 
○然るに斯〔かく〕の如き前振(まえぶれ)を以て勿体(もったい)らしく説き出されし真理なるものは何等貴きものでないのである、説く所は二十節より三十五節に亘れども要するに是れ悪人必衰必滅てふ陳腐なる教義の主張に過ぎぬのである、「悪き人は
其生ける日の間つねに悶(もだ)え苦しむ……其耳には常に怖ろしき音きこえ平安の時にも滅ぼす者これに臨む……彼は富まず、その貨物(たから)は永く保たず、その所有物(もちもの)は地に蔓延(ひろが)らず……邪曲(よこしま)なる者の宗族(やから)は零落(おちぶ)れ、賄賂(まいない)の家は火に焚(や)けん」と云ふ、即ち悪人は苦悶を以て一生を終へ困窮失敗の中に世を去り其家族も亦零落すと云ふのである、同
時に此語は苦悶困窮失敗零落は凡て罪悪の結果であるとの意味を含んで居るのである。
 
○エリパズの此所説は果して人生の事実に合つて居るであらうか、否! と我等は叫ばねばならない、罪悪の巷に物慾の毒酒を汲(く)む人決して悉(ことごと)く苦悶、失敗の果(み)を苅(か)り取らない、悪は必しも困窮零落の母ではない、神を嘲(あざけ)る悪人にして成功又成功の一路を昇る者は決して少なくない、神を畏れず人を敬はざる不逞〔ふてい〕の徒にして何等の恐怖煩悶〔はんもん〕なくして一生を終る者は寧〔むし〕ろ甚だ多い、罪を犯し悪の莚(むしろ)に坐して平然たるが即ち悪人の悪人たる所以である、悪人の特徴は煩悶恐怖を感ぜざる所に在る、ジヨン・バンヤンの作たるThe Life and Death of Mr. Badman(人氏の生死)は或意味に於て『天路歴程』以上の傑作であると思はれるが英人自身はあまり此書を貴まないので
ある、これ此書の価値が彼等に解らぬからである、此書の主人公たる悪人は神を信ぜず道に背く悪人にして而も事業は成功し、身は栄達し、子女悉く良縁を得、艱難痛苦等に少しも襲はれず、何等の苦痛なく恐怖なくして大
満悦を以て此世を送る、然るに読者は彼れ恐らくは死に臨んで大煩悶に陥るならんと予期しつゝ読み進むに、其死また甚だ平安にして彼は安らかなる大往生(だいわうじよう)を遂げるのである、彼の生に死に苦悶又は恐怖又は患難又は失敗の陰影すらない、そして是れ実に本当の悪人の特徴である、真の悪人の生死は実に斯くの如くである、バンヤンは人生の事実に深く徹(てつ)せし人なる故かくの如き真正なる観察をなし得たのである。
 
○之に反して十八世紀の大文豪にて信仰の人たりしドクトル・ジヨンソンは死の床に大なる苦悶を味ひしと云ふ、これ或は地獄に落ちざるかとの憂慮に悶〔もだ〕えたのであつて、此種の苦悶は却て其人の心の醇真と信仰の霊活を語るものである、恐怖苦悶は其人の心霊的に目ざめたるを示すものである、神を知らざる時我等に真の恐怖なく痛烈なる煩悶はない、怖るゝ事、悶ゆる事それは神に捉(とら)へられた証拠である、そして救拯と光明へ向ての中道の峠である、悪人は却て恐怖を味はず善人は却て之を味ふのである、虚人は却て苦悶を知らず真人は却て之を味ふのである、然るに浅薄なるエリパズは伝統的教義の純正を誇りて之を盲目的に抱くのみにて、活ける人生を視る深みと真心(まごころ)とを欠いてゐる、これ我等の大に考ふべき事である、又人を慰めんとするに当つて充分に注意せねばならぬ事である、我等はくれ〲もエリパズ等三人の心を学んではならない。
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