内村鑑三 ヨブ記の研究 第18講 ヨブの見神(二)

第十八講 ヨブの見神()  約百記第三十八章の研究(十一月廿八日)
 
○第三十八章の一―七節は前講の主題であつた、造化の妙趣(みょうしゅ)の中に神を悟るべしと云ふが其根本精神である、七節には「かの時には晨星(あけのほし)相共に歌ひ、神の子ども皆歓びて呼(よば)はりぬ」とある、八―十一節は之を受けて言ふ
海の水流れ出て、胎内より湧〔わ〕き出でし時誰が戸を以て之を閉ぢこめたりしや、かの時我れ雲をもて之が
衣服(ころも)となし、黒暗(くらやみ)をもて之(これ)が襁褓(むつき)となし、これに我法度(のり)を定め関及び門を設けて、曰〔いわ〕く之までは来るべし、茲〔ここ〕を越ゆべからず、汝の高浪(たかなみ)こゝに止まるべしと。
海は動揺常なきものにして到底人に御し得ぬものとは古代人の思想であつた、黙示録〔もくしろく〕第二十一章は新天新地の成立を描きし者であるが、その第一節には「われ新しき天と新しき地を見たり、先の天と先の地は既に過ぎ去り、海も亦有ることなし」とある、海既に無しは旧世界の混乱不安動揺既に去れりとの意であらう、又約百〔ヨブ〕記七章十二節に「我あに海ならんや、鱷(わに)ならんや」と海を鱷(わに)に比較せる如〔ごと〕きも古代人の此思想を語るものである、かくの如く海は人力の到底御し得ぬものである、然〔しか〕るに神は此海を造り給ひそして易々と之を制御しつゝある、以て我等は神の力の偉大なるを知るべきであると、これ八節―十一節の大意である。
 
○そして八節―十一節は海を以て嬰児に譬〔たと〕へ、海の創造を嬰児の出産に譬〔たと〕へて美妙なる筆を揮(ふる)つたのである、海なる嬰児が母の胎内より湧き出でゝ浩々蕩々〔こうこうとうとう〕将〔まさ〕に全地を蔽〔おお〕はんとした時、戸を以て之を閉ぢて氾濫〔はんらん〕を防ぎしは誰であるかと八節は問ふ、けだし此御し難き力を制御せしは神に外ならずとの意である、次に九節は此海てふ嬰児に対して「雲を以て之が衣服となし、黒暗(くらやみ)を以て之が襁褓(むつき)となし」たのは神であると云ふのである、雲は海を蔽ふ衣であり黒暗は之を包む襁褓であるとは寔〔まこと〕に絶妙なる形容であると思ふ、そして単に形容たるのみならず、恐くは渺茫〔びようぼう〕たる大洋(わだつみ)の中に幾日かを送る航海者に取りては、約百記の此語が宛然(さながら)に事実なるが如く感ぜらるゝであらう、昼は満天の漠々たる雲が海を蔽ひ夜は底しれぬ暗黒が海を包む光景を親しく観て、此形容の荘大、優美にして且〔かつ〕如実なるを悟り得るのである。
 
○そして此御〔ぎよ〕し難き奔放自在の海に対して「法度(のり)を定め関(くわん)及び門を設けて」之に向ひて「之までは来るべし茲を越ゆべからず、汝の高浪こゝに止まるべし」と命じ給ひしは実に造物者なる神である、洵〔まこと〕にその蔵する無限のエネルギーに押し立てられて沖天の勢を以て陸に向つて押しよせる時は恰〔あたか〕も陸を一呑みにするかと思はるゝ程である、然るに見よ「我法度(のり)」は儼〔げん〕として其処〔そこ〕に立つ、神は「関及び門」を其処に設け給ふて過(あやま)らない、我等は海岸に立ちて脚下に襲ひ来る丈余の浪が忽〔たちま〕ち力尽きたるが如くに引退くを見て、約百記の此語の妙味を悟り得るのである、我等は九十九里ケ浜の渚(なぎさ)に立ちて寄せ来る太平洋の高浪を見て其強烈なる力に驚く、このエネルギーを利
用して電力を起さしめんと計案しつゝある人がある、それ程の力を以て寄せ来る浩波も打ち破り難き或力に制せ
らるゝ如くに其儘〔そのまま〕後退するのである、神は実に或制限を設けて人の御し得ぬ海を御し給ふのである。
 
○約百記の此見方に対しては今日の科学者に種々の批評があるであらう、併〔しか〕し今日の進歩せる自然科学と雖〔いえど〕も其幾多複雑なる研究を以てして畢竟(つまり)は約百記と同一の言を発する外はないと思ふ、有名なる独逸〔ドイツ〕の科学者フムボルトは科学者は自然現象を説明し得るも其意味を解く能はずと云ふた、巨大なる太平洋をして全地を蔽〔あた〕はしめざるやう之を囲みて陸地の大堤防が儼として存するを見る、我本島の如きは其堤防の一部であると見られる、南氷洋を囲みて同様なる陸の堤ありと探検家は云ふ、寔(まこと)に神は海の大動揺を或範囲に止めて人畜をして安じて地の上に住ましむるのである。
 
○人の御し難き海に堤を設けて之を制するは神である、海は動揺それ自身である、人は各人難問題を抱いて苦む、
その時人の心は一の海である、動揺混乱底止する所を知らない、併し人の御し難き海を神は御し給ふ、我等より
熱誠なる祈の出づる時神はその大なる御手を伸ばして海を制し給ふ、かくて我等の衷(うち)の海は止まるのである。
 
○又今の世界は寔(まこと)に混乱擾雑〔じようざつ〕の海である、社会の腐敗は底なきが如く、世界の表は紛乱を以て充たされてゐる、世界大乱一度収まりし如くにして実は収まらず、戦の噂〔うわさ〕は噂を生みて今や全地大洪水に溺〔おぼ〕れんとするが如く見ゆる、我等の憂慮も何等の効果なし、我等の努力を以て全地の大海を抑ふることは出来ない、我等は唯熱心に祈るのみである、しかし神は此祈を記憶し給ふ、混乱の海を制する力は彼にのみ在る、神は全地を呑まんとする海に対して「之までは来るべし、茲を超ゆべからず、汝の高浪こゝに止まるべし」と言ひ給ふ、実に彼は人の御し難き海を御し給ふ、彼は地の上に其支配権を持ち給ふ、此事を知りて自身としては力なき我等にも大なる安心がある。
 
○一世紀前かの大ナポレオンは世界をその飽くなき欲望の餌食〔えじき〕たらしめんとした、併しウヲルターローの一戦は遂に彼の此暴威を制した、人は皆之を評して英普聯合軍、殊に英軍司令官ウヱリントンと普軍司令官プルーヘルの力に基くと云ふ、独り仏の文豪ヸクトル・ユーゴーは云ふた、神は此朝二三十分間の小雨を降らしナポレオンの勢威を挫〔くじ〕いたのであると、けだし此朝の小降雨が仏軍大砲の轍(わだち)を汚しその為に進軍の予定が数十分後れた、ために仏軍は普軍到着前に英軍を破るべくして破り得なかつたのである、朝の小雨なくば常勝将軍ナポレオンは其異常なる軍事的天才を以て見事に敵を破り得たであらう、かくて欧洲全土は彼の暴威の下に慴伏(しょうふく)したであらう、しかし乍〔なが〕ら神は地を治め給ふ、時あつてか其大なる御手を揮つて人力の制し得ぬ海を制し給ふ、彼の力は永遠に絶大である。
 
○次に見るべきは十二―十五節である、先づ言ふ「汝生れし日より以来(このかた)朝(あした)に向ひて命を下せし事ありや、また黎(よ)明(あけ)に其所〔そのところ〕を知らしめ之をして地の縁(ふち)を取(とら)へて悪き者を地の上より振(ふり)落(おと)さしめたりしや」と、これヱホバが其能力(ちから)をヨブに示すのであつて、即ち人力の到底及ばぬ所に彼の力の存することを示すのである、黎明来ると共に暗黒の悪者どもは忽ち姿を消す、其様恰〔あたか〕も絨毯(じゆうたん)の四隅を取らへて之より塵を払ひ退けるが如くであると云ふのである、神は朝(あした)に命を下し黎明(よあけ)に其所を知らしめて、其造り給へる宇宙に妙(たへ)なる活動を与へつゝあるのである。
 
○続いて十四節は云ふ「地は変りて土に印したる如くになり、諸々の物は美〔うる〕はしき衣服(ころも)の如くに顕はる」と、これ黎明の光景を描きたるものである、この形容の真なるを知るためにはアラビヤの砂漠に到らねばならぬ、或〔あるい〕は大洋の真中に於ける黎明を見ねばならぬ、或は我国にありても真夏に富士山の絶頂に於て雲なき空に日の出を見る時は此語の真なるを知り得るであらう、即ち日が東の地平線を破りて出づると共に今まで暗黒なりし全地は急遽〔きゆうきよ〕として光明(ひかり)の野となり、山川風物さながら土に印を以て押したるが如く姿を現はし、地上の万物は美はしき衣服の如くに出現すると云ふのである、これ実に美尽し真極まれる朝の光景の絵画である、ヨブは度々アラビヤ砂漠に於ける此種の朝(あした)の光景に接して、その絶妙なる詩趣に酔ふたことであらう、今や彼は之が神の為し給ふ所なることに初めて気がついたのである、此事汝に可能なるかと詰問されて彼は神の霊能の前に首を垂れざるを得なかつたのである。
 
○次の十五節は言ふ「また悪人は其光明(ひかり)を奪はれ、高く挙げたる手は折らる」と、これ亦〔また〕朝の形容の一部である、暗黒の間悪人はその悪を擅〔ほしいまま〕にし其手を高く挙げて悪に従ふ、しかし東天を破りて日出づるや彼等はその武器とする暗黒を奪はれて其悪を断たるゝのである、神は日を以を悪を逐ひ給ふ、神は朝を世に現はして悪人を撃ち給ふ、神の力は絶大である。
 
○八節より十五節までを通読せよ、其処にヨブの見神が現はれてゐる、彼は海を見、海を制する陸を見、また黎
明の荘大なる光景に接せしこと一再に止まらなかつた、併し此時までは其処に神を見なかつたのである、そして
此時になつて初めて其処に神を見得たのである、神の造りし荘大なる宇宙とその深妙なる運動、神の所作と支配、
そこに神は見ゆるのである、海を制する力に、又黎明の絶美の中に彼は明かに見ゆるのである、人は之を無意味
に看過する、併し信仰の眼を以てすれば其処に神は見ゆるのである、然り其処に神は明かに見ゆるのである。
 
○一人の人を真に知らん為めには其の人の作物を見るを最上の道とする、もし文士ならば彼の著作を見れば其処に其人の真の姿が見える、肉眼を以て彼を見る事は却〔かえつ〕て彼を誤解する道となる、少くとも彼を正解する道ではない、神を見ることは決して肉眼を以て彼を見ることではない、真に彼を見んには彼の所作物たる宇宙と其中の万物を見るべきである、その中に彼の真の姿が潜んでゐる。
 
 
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