内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第21講 ヨブの終末 (最終講)

第廿一講ヨブの終末 約百記第四十二章七節以下の研究(十二月十九日)
 
○雅各(ヤコブ)書第五章十一節に曰〔いわ〕く「汝等曾〔かつ〕てヨブの忍びを聞けり、主いかに彼に行(な)し給ひし乎〔か〕その終末(おはり)を見よ、即ち主は慈悲深く且つ矜恤(あわれみ)ある者なり」と、まことに其通りである。
 
○ヨブの終末を記す約百〔ヨブ〕記の結末を語る前に既往を回顧するに、ヨブの異常の災禍に逢へるを三友人は罪悪の結果と見、此罪を告白し懺悔〔ざんげ〕せば禍〔わざわい〕は自ら去るべしと做〔な〕して経験と神学と常識とを以てヨブを責める、しかもおのづかヨブは罪を犯せし覚なし、と称して強硬に友の言を斥〔しりぞ〕ける、青年ヱリフ亦〔また〕ヨブに説く所ありしも効果少く、茲〔ここ〕に己の力も他人(ひと)の力もヨブを救ふ能〔あた〕はざるに至つてヱホバの声遂〔つい〕に大風の中に聞える、ヱホバは彼に其所造(つくりしところ)にかゝる万有を指示しヨブは茲に心に平安を得るに至る、彼が斯〔か〕く天然を見て平安を得しは単に天然に教へられたるに非ず、種々の苦悩の経験を味ひて遂に十九章二十五―二十七節の大希望を抱くに至りしため、神に対する見方が変りて天然に対する見方も変つたのである、かくしてヨブは遂に四十二章の劈頭〔へきとう〕に記さるゝ大告白を発するに至つたのである、「我れ知る汝は一切の事をなすを得給ふ」と云ひ又「われ汝の事を耳にて聞きゐたりしが今は目をもて汝を見奉る、是をもて我れ自ら恨み、塵灰(ちりはい)の中にて悔(く)ゆ」と云ふ、されば約百記は茲を以て終結とすべきではないかと思はれる。
 
○然るに約百記は茲を以て終らずして七節以下ヨブに物的幸福の臨みしことを記してゐる、最後に物的幸福を描
かずして唯〔ただ〕ヨブが「塵灰の中にて悔い」しまゝにて、即ち孤独と病苦のまゝに放置して約百記全体を悲劇(トラヂデー)となした方遥かに大文学らしくあると云ふ人があるであらう、近頃の文学者の如〔ごと〕きは人生の悲痛を描きて悲痛を以て終
るを以て人生に徹底したのであると考へて居る、併〔しか〕し乍〔なが〕ら大文学の多くは決して悲劇を以て終らないのである、ダンテの神曲の如きは其著しき一例である、原名Divina Comedia は「聖なる喜劇」の意である、悲痛を以て終るは不健全の印(しりし)である、喜びを以て終つて真に人生に徹(てつ)せる健全なる文学と云ふべきである、勿論ヨブは霊魂の聖境に入つたのであつて其上に何等此世の幸福を望まなかつたのであるが、約百記を茲まで読み来りし人は何〔いず〕れも此処〔ここ〕を以て終つては満足出来ぬのである。
 
○先づ七節八節を見よ。
ヱホバ是等の言葉をヨブに語り給ひて後、テマン人エリパズに言ひ給ひけるは我れ汝と汝の二人の友を怒る、そは汝等が我に就きて言述べたる所は我僕〔しもべ〕ヨブの言ひたる事の如く正しからざればなり、されば汝等牡牛(をうし)七頭、牡羊(をひつじ)七頭を取りて我僕ヨブに至り汝等の身のために燔祭〔はんさい〕を献げよ、我僕ヨブ汝等のために祈らん、われ彼を嘉納(うけいれ)べければ之によりて汝等の愚を罰せざらん……。
 
かくヱホバの審判(さばき)三友人の上に下つて其愚は明示せられたのである、彼等は論理に於て精確なりしも其根本思想に於て全然愚妄であつたのである、之に反してヨブは所論支離滅裂なりしも其精神に於て正しく、その心は三友よりも却〔かえつ〕つて神と真理とに近かつたのである、理論の正確にして徹底せるもの必しも真理を体得せるに非ず理論の不正確にして乱れがちなる者必しも真理より遠きにあらず、理論周到にして知識正確なる神学者の言説却て福音の真髄を外(はづ)れ、無学にして発表に拙(せつ)なる一平信徒の信仰却て福音の中心的生命に触る、これ往々にして我等の見る所である、今や神の判定エリパズ等の上に臨みて其愚妄は明瞭となつたのである。
 
○さてエリパズ等は命ぜられし如く燔祭を献げ、ヱホバはヨブを嘉納(うけい)るゝに至つた、其時ヨブは三友人のために祈つた(九、十節)、見よ彼は三友の凡〔すべ〕ての悪罵と無情とを赦〔ゆる〕して彼等のために祈るに至つた、この大なる愛は如何〔いか〕にして生れしぞ云ふまでもなく「是をもて我れ自ら恨み塵灰の中にて悔ゆ」との彼の大なる謙遜の結果である、
愛は謙遜に伴ふ、大なる謙遜に入りし彼は大なる愛を現はし得たのである、己に矜誇(たかぶり)ある時は愛に於て充分なるを得ない、我心神の前に深く謙(へりく)だるに至て無情なる友をも、又敵をも愛し得るのである。
 
○ヨブ此高き境地に入るに至つてヱホバが彼に災禍を下せし理由は全く消失した、されば「ヱホバ、ヨブの艱難(なやみ)を解きて旧(もと)に復〔かえ〕し、而〔しか〕してヱホバ遂にヨブの所有物(もちもの)を二倍に増し給」ふた、ヱホバは斯くして彼を恵み給ふた、是に於て彼の凡ての兄弟、凡ての姉妹、及び其もと相知れる〔者〕ども悉〔ことごと〕く来りて彼と共に其家にて飲食〔のみくい〕を為し且〔かつ〕ヱホバの彼に降し給ひし一切の災禍(わざわひ)につきて彼をいたはり慰め、また各々金一ケセタと金の環〔わ〕一箇を之に贈れり」と十一節に在る、ヨブの病中は傍(そば)に寄りつく事だにしなかつた兄弟姉妹知友たち、今ヨブが病癒えて昔日以上の
繁栄に入るや、俄〔にわか〕に彼の家を訪ふて飲食し、既に慰めいたはる必要なきヨブを慰め労(いたわ)り、又銀一ケセタと金の環一箇を彼に贈つたとある、人情の浮薄さ東西古今別なきを思つて微笑(ほほえ)まるゝのである。(金一ケセタとあるは銀一ケセタの誤訳である、ケセタは多分銀貨の名であつたと思ふ、一ケセタは寧〔むし〕ろ少額の貨幣であつたと思はれるが斯かる際に習慣として贈られた額であつたのであらう)
 
○十二節は彼の財産の二倍となりし事を記し(第一章と比較せよ)、次に十三―十五節に言ふ。
又男子七人、女子(むすめ)三人ありき、彼れ其第一の女をエミマと名〔なづ〕け第二をケジアと名け第三をケレンハツプクとむすめ名けたり、全国の中にてヨブの女子等ほど美しき婦人は見えざりき、其父之に其兄弟たちと同じく産業を与へたり。
女子の名のみ挙げそして其女子が全国に比(たぐい)なく美しく且男の子同様産業を分与せられたと特記したのは、女子をば特別に貴ぶ当時の風習の表現(あらわれ)として注意すべきである、エミマは「鳩」を意味し、ケジアは「肉桂(香料として)」を意味し、ケレンハツプクは「眼に塗る化粧薬の角(つの)」を意味す、原名に於ては孰〔いず〕れも優雅な名であつたことゝ思ふ、「この後ヨブは百四十年生きながらへて其子其孫と四代までを見たり、かくヨブは年老い日満ちて死にたりき」と十六、十七節は語りて約百記は大団円となる、実に悔改後のヨブは此世の幸福と云ふ幸福を以て見舞はれたのである。
 
○人は苦難に会ひし後謙遜と悔改に達すれば必ずヨブの如く此世の幸福を以て恵まるゝであらうか、或人は約百
記の始と終とのみを読みて物的恩恵は必ず悔改に伴ふべきものとなし、前者に於て足らざるは後者に於て足らざ
るに因ると考ふ、従つて災禍の下るは其人の信仰足らざるためであると見做〔みな〕す、かくなつては三友人と全く等しき愚妄に陥つたのである、見よヨブは決して物的幸福を願つたのではない、彼は此世の事は全く忘れて唯霊に於て生きんと努めたのである、そして今苦難の中にある其儘〔そのまま〕にて歓喜の人となつたのである、故にヨブは最後の物的幸福に入ることなくして充分幸福であつたのである、故に之はなくも宜〔よ〕かつたのである、故に約百記は物的恩恵が悔改に伴ふことを教へた書であると做(みな)す人あらば是れ大なる誤りである。
 
○ヨブは所有物(もちもの)に於て前の二倍となり家富み子女栄えて長寿と健康とを恵まれて、其境遇に於て完全なる幸福を享受するに至つた、故に或人は言ふヨブは前の苦難を悉(ことごと)く忘るゝほどの幸福に入つたのであると、果して然るか、ヨブは後の繁栄幸福の故を以て悲痛極まりし過去を全く忘れ得たであらうか、否! と我等は叫ばねばならぬ、誰か子を失ひし親にして新たに子を賜はるも前の悲痛を忘れ得ようか、一人の子を失ひて十人の子を新たに賜はるも其損失と悲哀を忘るゝことは出来ぬのである、これ誰人に於ても然る所である、ヨブは後の繁栄にありても必ず過去の災禍苦難を想起したことであらう、去りし妻のこと、失ひし子のこと、雇人のこと、其他身の病苦と人の無情、いづれも彼の心に深く食ひこんだものであつて到底忘るゝを得ない事である、故に彼は新しき幸福に浴せしために旧き禍を忘れて満足歓喜に入つたのではない、十九章に記さるゝ「我れ知る我を贖〔あがな〕ふ者は活く後の日に彼れ必ず地の上に立たん、我この皮此身の朽果てん後われ肉を離れて神を見ん、我れ自ら彼を見奉らん、我目彼を見んに識らぬ者の如くならじ、我心これを望みて焦る」との大希望に入りし故ヨブに満足と歓喜が臨んだのである、之に比すれば物の恵みの如きは数ふるに足らぬのである。
 
○初めのヨブの繁栄と後の繁栄との間に或る大なる相違があることを我等は認める、初は信仰が己にありて神に
事〔つか〕へて正〔ただ〕しき故この幸福を以て恵まれて居ると彼は考へた即ち自己の善き信仰と善き行為の結果としての物的繁栄を認めた、これ権利又は報賞として幸福を見たのである、然るに今は何等値なき自分に全く恩恵として幸福の与へられし事を認むるに至つたのである、実に此差別は天地霄壌〔しようじよう、大違〕も啻(ただ)ならざる差別であつて、ヨブは大苦難の杯を飲みしために遂に斯〔かく〕の如き霊的進歩を遂ぐるに至つたのである、今日を以て云へば前の状態は不信者のそれであつて後は信者のそれである、不信者は物の所有を以て正当の権利と考ふ、故にそれに於て薄き時は不平が堪へない、併し信者は僅少の所有物を以て満足する、これ一切自己の功に因らず全く神の恩恵に因ると思ふからである。〔以上、大正・・〕完了
 
 
イメージ 1