内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第20講 ヨブの見神(四)

第二十講ヨブの見神()  約百記第三十八章三十九節より四十二章六節に至るまでの研究(十二月十二日)
 
○次回を以て約百〔ヨブ〕記研究を終へんため今日は三十八章三十九節より四十二章六節までの大意を語らう、三十八章の一節より三十八節までは宇宙の諸現象の中に神の穎智〔えいち〕と力を認めたものであつたが、三十九節以下四十一章までは生物界に於〔おい〕て神の穎智〔えいち〕と愛を―殊に愛を強く―認めたものである、各動物の特徴を誠に能〔よ〕く捉(とら)へし文字である、今日の動物学者は多分之に何等の価値をも見出さぬであらう、併〔しか〕し若〔も〕し我国の動物画家たる応挙に此文字を示したならば、彼は大に喜んで是れ真の動物描写であると云ふであらう、恰〔あたか〕も日本画が僅少の線を以て描きて自然物を躍如たらしむるが如〔ごと〕く、数語を以て各動物を読者の前に躍らせるのである。
 
○先づ第一に獅子を挙げてあるが是れ此動物が当時の人の生活に甚だ近かつた事を示すのである、次には鴉を挙
からす
げ、三十九章に入りては山羊、麀鹿(めしか)、野驢馬(のろば)、兕(のうし)(野牛即ち野生の牛)、駝鳥(だちょう)、馬、鷹〔たか〕、鷲〔わし〕を挙げて各の特徴を述べ、神の与へし智慧による各動物の活動を記して人智の之に関与し得ぬ弱さを示してゐる、其一々の叙述について述べる時なきを遺憾とするが、十九―二十五節の馬(軍馬)の描写の如きは最も美〔うる〕はしきものである、カアライルは其『英雄崇拝論』中に此の馬の描写に対して大なる讃辞を呈してゐる、アラビヤの勇壮なる軍馬の姿は活けるが如くに描かれて居るのである、聖書註解者よりも寧〔むし〕ろ騎兵として実戦に臨みし人は、此描写の真に迫れるを知るであらう、(読者は約百記を開いて自〔みずか〕ら此処〔ここ〕を読まれ度し)
 
○尚〔な〕ほ一例として三十八章末尾の鴉の記事を見るに「また鴉の子神に向ひて呼(よば)はり食物なくして徘徊(ゆきめぐ)る時鴉に餌を与ふる者は誰ぞや」とある、洵〔まこと〕に簡単なる数語である、併し意味は浅くない、神は鴉を養ひ給ふとは詩篇に度々出づる思想であり、又主イエスは「鴉を思ひ見よ稼(ま)かず穡(か)らず倉をも納屋(なや)をも有〔も〕たず、されども神は尚ほ之等を養ひ給ふ」と云ふた(ルカ伝十二の二四)、鴉は人に嫌はるゝ鳥である、この鴉を神が養ひ給ふと云ふ処に意味がある、「鴉に餌を与ふる者は誰ぞや」と神はヨブに問を発して、鴉をさへ養ひ給ふ神の人に対する愛と護りとを彼に悟り知らしめたのである。
 
○以上の如くヱホバは諸現象を引き又動物を引きて、神智神力の無限と、人智人力の有限とを教へた、そして次
の四十章を見るに「ヱホバまたヨブに対(こた)へて言ひ給はく、非難する者よヱホバと争はんとするや、神と論ずる者よ之に答ふべし」とある、併し既に人の無智、無力を充分に悟りたるヨブは「あゝ我は賎(いや)しき者なり、何と汝に答へまつらんや、唯〔ただ〕手を我口に当てんのみ」と云ふ外はなきに至つた、毅然〔きぜん〕として友に降らざりしヨブも今は神御自身の直示に接して此謙遜の心態に入るに至つたのである、しかも彼の悟りし所は尚ほ足らざりしと見えヱホバは尚ほ教へ給ふたのである。
 
○ヱホバは又大風の中より左の如くヨブに言ひ給ふた。
汝わが審判(さばき)を棄てんとするや、我を非として己を是とせんとするや、汝神の如き腕ありや、神の如き声にて轟〔とどろ〕きわたらんや、さらば汝威光(いきほひ)と尊重(たふとき)とをもて自ら飾り、栄光(さかえ)と華美(うるわしき)とをもて身に纏(まと)へ、…………高ぶる者を見て之を悉〔ことごと〕く鞠(かが)ませ、また悪人を立所〔たちどころ〕に践〔ふ〕みつけ、之を塵の中に埋め之が面(かほ)を隠れたる処に閉ぢこめよ、さらば我も汝を讃(ほ)めて汝の右の手汝を救ひ得るとせん。
若しヨブに神の如き力あらんか、もし倨傲者(たかぶるもの)と悪人を即坐に打砕く腕あらんか、神も亦〔また〕ヨブが自ら己を救ひ得ることを認むるであらう、併し乍〔なが〕ら事実はその正反対である、神は絶対の力であるにヨブは絶対の無力である、かくても尚〔な〕ほヨブは自己を是とし神を非と做し得るであらうか、神の審判(さばき)に対して呟(つぶや)き得るであらうか、―かく神はヨブに告げヨブは自己の心に問ふた、彼の魂は益〔ますま〕す砕くるのみであつた、彼は謙(へりくだ)るより外に行き道がなきに至つた。
 
○次に又ヱホバは二の動物を挙げてヨブに教ふる所があつた(十五節以下)、先づ出づるは河馬である(十五節よ
り廿四節まで)、次に出づるは鱷〔わに〕である(四十一章全部)、これ熱帯地方にありては最も怖ろしき二の動物である、ヱホバはヨブに向つて汝かゝる怖ろしき生物を御し得るやと云ふのであつて、神の力と人の無力が益す強く示されるのである。
 
○一度謙遜に達せしヨブは右の如く再び大風の中より出づる神の声に教へられたのである、茲〔ここ〕に於て彼は遂〔つい〕に四十二章二節―六節の語を発せざるを得ざるに至つた。
我れ知る汝は一切〔すべて〕の事を為すを得給ふ、又如何〔いか〕なる意志(おぼしめし)にても成す能〔あた〕はざるなし、無知をもて道を蔽〔おお〕ふ者は誰ぞや、斯〔か〕く我は自ら了解(さと)らざる事を言ひ、自ら知らざる測り難き事を述べたり、請ふ聴き給へ、我れ言ふ所あらん、我れ汝に問ひまつらん、我に答へ給へ、われ汝の事を耳にて聞きゐたりしが今は目をもて汝を見奉る、是をもて我れ自ら恨み、塵と灰との中にて悔ゆ
先づヨブは神の全能を讃美し、次に己れ無知にして神の摂理に暗き陰影を自ら投じたる不明を耻ぢ、これより
は全然神に服従せんとの意を表はし、以後神と彼との間に直接なる思想(こころ)の伝達あらんことを希〔ねが〕ひ、最後に五節、六節の著しき語を発したのである。
 
○「われ汝の事を耳にて聞きゐたりしが今は目をもて汝を見奉る」と云ふ、ヨブは今まで神を知つて居ると思つ
てゐた、けれどもそれは真に神を知つて居たのではない神について聞いて居たに過ぎなかつた、神に関する知
識を所有してゐたに過ぎなかつた、然るに今や万象を通して神を直観直視するの域に至つたのである、彼の歓び
知るべきである、かく神を事実上に見て其の全能を悟るや自己の無力汚穢〔おわい〕は何よりも痛切に感ぜらるゝに至り、驕慢〔きようまん〕にして自己に頼りし既往の浅墓さは懺悔〔ざんげ〕の種とのみなつた、されば最後に彼は「是をもて我れ自ら恨み (自己を諱(い)み嫌(きらひ)、塵と灰との中にて悔ゆ」と悔改の涙を出すに至つたのである。
 
○以上約百記三十八章以下の「ヱホバ対ヨブの問答」について茲に二三の注意を述べ度いと思ふ、(第一)茲に各
種の現象と動物に就て記されて植物に関して一言も云はざるは何故であるかと批評家は問題を起すであらう、思
ふに是れ約百記が沙漠を舞台とせるためであらう、ヨブは植物に乏しき沙漠の住人として神の力を植物に於て充
分に窺〔うかが〕ふことは出来なかつたのである、約百記は慥〔たしか〕にこれ「沙漠文学」である。
 
(第二)或人は抗議を提出して云ふであらう、ヨブは天然物を見て神を悟り得しならんも今の時代に於て煩悶(はんもん)苦悩せる人に向つて「鴉を見よ、馬を見よ」と云ふも何等の効果あるべからずと、そして今や悩める人に向つては教会に行けとか、宗教書類を読めとか云ふのが普通である、さりながらヨブの三友人は当時の神学を以て彼に迫つて失敗に終つた、もし此上希臘羅馬〔ギリシア〕、〔ローマ〕の哲学を以てするも到底彼に満足を与へ得なかつた事は明かである、人の言を以てしては到底ヨブを安心せしむるを得なかつたのである、此時彼は神の所造物に於て神を拝するを得て自己の罪を懺悔(ざんげ)するに至り、ために事は喜ばしき解決を告ぐるに至つたのである、そして此事は今日と雖〔いえど〕も変るべき筈〔はず〕がない、苦悶者の真の行き場所は教会にあらず、教師にあらず、宗教書類にあらず、神の所作物たる自然の万物万象である、それに親みて神を見且〔かつ〕己の真相を知り以てヨブの如き平安と歓喜を味ふに至るのである
約百記は此事を教ふる書物である。
 
○英の天然詩人ウヲルヅヲス、彼は少時より天然を熱愛せしと雖も而〔しか〕も初より天然を以て悉〔ことごと〕く足れりとした人ではなかつた、少壮にして彼は社会の改善に心を労し、一度は仏国革命に投じて我理想の実現を計りし英気勃々〔ぼつぼつ〕たる青年であつた、しかし彼は遂に文化世界の中に真理と生命を求むるの無効なるを悟りて、カムバランドの片田舎に退きて天然世界の中に神の御手を拝し人生の本趣を見たのである、彼が天然を讃美したのは唯天然を讃美したのではない、彼は天然に於て神を讃美したのである、我等また彼に倣〔なら〕ふべきである。
 
(第三)ヨブの最初よりの言に依て見るに彼はもとから天然に親める人である、然るに今に至つて天然を示され
て神の前に平伏するに至りしは何故か、これ明かに一の難問題である、殊に今日の聖書註解者にとつては然(さ)うである、彼等は思ふ、人生問題は天然物などを以てして解き得るものにあらず故にヨブに此事ありしは不可解であると、余は思ふ是れヨブの味ひたる患難痛苦が彼の天然を見る眼を変へたのであると彼れ異常の災禍に逢ひ且友の理不尽なる攻撃に会し、幾多の悲痛なる経験を嘗〔な〕めて自己が砕かれて自己が新しくなり、かくして天地万有を見る眼が全く一変したのである、余は斯く説明するより外に道なしと思ふ年少にして謂〔いわ〕ゆる青雲の志を以て燃ゆる時眼中天然物なきを常とする、併し乍ら人生の実相に触れ幾多の経験を味ひて疑義重く心を圧するに至る時、其時ヨブの如く天然の中に神と福音とを認むるに至り以て大なる慰藉を得るのである
 
○然らば右の如くヨブの眼を変へしものは何なるかとの問題が起る、その問題を解くものは十九章に於て彼の達
せし希望の高頂である、彼時ヨブは既に心に於て、信と望とに於て神を見たのである、然るが故に天地の万象に
対して新しき眼を張(みは)るを得るに至つたのである、彼の受けし苦難、彼の抱きし希望、これが彼の天然観を変へたのである、かくして遂に神を事実に於て見るに至つたのである。
 
(第四)ヨブは最後に至つて神の何たるかを知つた、彼は神を宇宙の主人公と知つた、従つて自己は神の僕〔しもべ〕であると知つた、それで問題は解けたのである、人は能く云ふ「我は宇宙の主宰者たる神を信じ自己がその僕たるを知る」と、しかし口で斯く云へばとて解なりとて直〔ただ〕ちに抗議を心に抱くが如きは自己の僕たるを知らぬものである、神の摂理を認め己を神の僕と信ずる上は、苦難災禍我を襲ひ来るとも「御心(みこころ)をして成らしめ給へ」と云ひて静かに忍耐すべきであるこれ僕たる者の執るべき唯一の道であるヨブは此信仰に達して真の安心に入つたのである、人もし神の絶対智と絶対力を悟り己を力なき神の僕と認むるに至る時は、人生の凡〔あら〕ゆる境遇に処してそれを御心となして安んじ得るのである、「御心(みこころ)をして成らしめよ」との黙従に入り得るのである
 
 
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ヨブ記40:15 さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの、牛のように草を食らう。
 40:16 見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。
 40:17 尾は杉の木のように垂れ、ももの筋はからみ合っている。
 40:18 骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。
 40:19 これは神が造られた第一の獣、これを造られた方が、ご自分の剣でこれに近づく。
 40:20 山々は、これのために産物をもたらし、野の獣もみな、そこで戯れる。
 40:21 彼ははすの下、あるいは、葦の茂みや沼に横たわる。
 40:22 はすはその陰で、これをおおい、川の柳はこれを囲む。
 40:23 たとい川があふれても、それはあわてない。その口にヨルダン川が注ぎ込んでも、動じない。
 40:24 だれがその目をつかんでこれを捕ええようか。だれがわなにかけて、その鼻を突き通すことができようか。