内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第 7 講 ヨブ仲保者を要求す

第七講 ヨブ仲保者を要求す 約百記第九章の研究(六月六日)
 
○ヨブの友三人はヨブに臨みし災禍(わざわひ)彼の隠れたる罪の結果と誤断した、そして年長のエリパズ先づ之をヨブに覚(さと)らしめんとて第一回の勧告を試みしも徒労に終つた、之を見たる若きビルダデはあからさまにヨブの罪過を断定して彼に肉迫した、ヨブは益〔ますま〕す心を痛めるのみであつたその様恰〔あたか〕も庸医〔ようい〕が病を誤診して初め普通薬を用ひて無効なりしや更に劇薬を病者に服せしめし如〔ごと〕く、病は平癒せざるのみか益す重る一方であつた、併〔しか〕し乍〔なが〕ら友人の誤解と難詰はヨブの思想を刺戟〔しげき〕し、神を知らんとする熱情を益す高めし故、却〔かえつ〕て彼を光明に向つて導く原動力となるのである、此事を知るは約百〔ヨブ〕記の主部(発端と結末を除きし部)を解する上に於〔おい〕て最も大切である。
 
○前講に於て述べし如く、ヨブの語は友に対する語と己に対する語と神に対する語の三様に分たれる、九章十章のヨブの語の中、九章一節―二十四節は友に対する返答、九章二十五節―三十五節は己に対する語(即ち独語)
十章全部は神に向つての愁訴である、そして九章前半の友に対する答は友の神観の批評とでも称すべきものである、神は善人を栄えしめ悪人を衰へしむるとはビルダデ等の神観であつた、之に対してヨブは答へるのである
「神が果して斯〔か〕くの如きものならば世の此状態は何の故ぞ、善人却て衰へ悪人却て栄えつつあるにあらずや」と、二十四節には「世は悪しき者の手に渡されてあり、彼れまた其裁判人(さばきびと)の顔を蔽(おお)ひ給ふ、もし彼ならずば是れ誰の行為(わざ)なるや」とある、是れ世に悪人の跋扈〔ばつこ〕するを神の業なりと認て神を嘲〔あざけ〕りし語である併し真の神を嘲〔あざけ〕つたのではない、友人の称する所の神を嘲〔あざけ〕つたのである、即ち友人の提唱する神観の誤謬を指摘したのである、此世の凡〔あら〕ゆる不公平、義人に臨む災禍―これ必賞必罰の神の為〔な〕す所としては全く不可解である、友人等の抱く神観を以てしては到底此世の実相を解し得ない、故に彼等の信ずる如き神を彼は信じ得ないと云ふのである、九章前半は文字直接の意味に於ては神を責むるが如くにして褻涜(せっとく)の極と云ふべきも、実は友の提唱する神観の誤を指摘したものであつて畢竟〔ひつきよう〕するに友を責めた語である。
 
○ヨブ対三友人の対話を読むに凡〔すべ〕ての点に於てヨブの彼等に勝つてゐることは明かである、信仰は勿論知識に於ても彼は彼等以上である、三友の信仰と知識を合するも尚〔な〕ほヨブ一人に匹敵し得ないのである、故に三友の語にも見るべきものが少なくないが約百記の中枢は云ふまでもなくヨブ自身の言〔ことば〕である、三友の難詰の語はヨブより大真理を喚び出したといふ点に於て有意味ではあるが、その価値に於ては到底ヨブ自身の語とは比較し得べくもないのである。
 
○九章のヨブの語の中には彼の広き知識が表はれてゐる、五節六節には彼の地文学の知識が窺〔うかが〕はれる、「彼れ()山を移し給ふに山知らず、彼れ震怒(いかり)をもて之を覆(くつがへ)し給ふ」は火山の爆発を形容せし語、「彼れ地を震ひてその所を離れしめ給へば其柱ゆるぐ」は大地震を描(えが)きし語である、次の七節―九節は彼の天文学の知識を示す語である、九節は「また北斗、参宿(しんしゅく)、昴宿(ばうしゅく)及び南方の密室(みつしつ)を造り給ふ」と云ふ、北斗は大熊星座(北斗七星)、参宿はオライオン星座、昴宿はプライアデス星座である、孰〔いず〕れも七つの重なる星を有する星座である、南方の密室は赤道以北の住民には見る能〔あた〕はざる星を総称したものであらう。(之と三十八章三十一、二節とを併〔あわ〕せて当時の天文知識を知る良資料となる)
 
○又第十二章に依ればヨブは生理学にも通じてゐたのである、寔〔まこと〕に彼は其時代の最も深く且〔かつ〕広き知識を有して居たのである、約百記作者は学識と信仰とに於ける当代の最優者を主人公として、其煩悶(はんもん)と最後の勝利とを描かんと努めたのである、約百記の大作たる理由の一は慥(たしかに)に茲(ここ)に在る、試に今日世界のあらゆる知識に達し居る人が宗教的大煩悶を味ひ、遂〔つい〕に翻然(ほんぜん)一切を棄てゝ父なる神に帰服せしといふ心的経過を描きし小説又は脚本あらば、これほど現代の人に強く訴ふるものはあるまい、げに広博深遠なる知識の所有者なりしヨブは最後に其知識を悉〔ことごと〕くヱホバの前に投げ出して「我は罪人なり」との痛切なる叫びを発したのである、無学者の軽き煩悶と浅き解決ではない、大学者の重き煩悶と深き解決である、その煩悶の深刻なりしと共に其勝利は絶大であつたのである。
 
○九節に於て星辰界の神秘を述べたるヨブは十節に於て「大なることを行ひ給ふこと測られず奇(くす)しき業(わざ)を為し給ふこと数知れず」と云ふ、当時の幼稚なる天文知識を以てすら神の聖業の驚異すべきを知る、まして今日の進歩せる天文知識を以て宇宙の精妙荘美を知る我等は益す造化の神を讃美すべきではないか、然〔しか〕るに事実は之に反して科学の進歩は却〔かえつ〕て神を駆逐する傾きを生じ、今日の科学は人を神に導くものでなくして神を否定せしむるものとなつた、これ実に痛歎すべき事であつて理想の状態の正反対である近世の科学者中にてもニュートンの如き敬虔〔けいけん〕なる信仰家ありと雖も、其多くは仏の天文学者ラランドの類である、彼れラランドは一生涯を天体観察に献げた人であるが、彼は言ふた「余の望遠鏡に神の映りし事なし、故に神は在る者に非ず」と、現今の所謂〔いわゆる〕基督教国の科学は大抵は無神論の味方である。
 
○九章前半は神に対する強き疑の語である、これ無神論者の言に似たるものである、併し懐疑は決して信仰を否
定するものではない、大なる懐疑のある所ならずしては大なる信仰の光は現はれない、黒烟の濛々〔もうもう〕として立ち昇る所に一度火が移れば焔々〔えんえん〕天を焦(こが)す猛火を見るに至る、ヨブは九章の如き深き懐疑の黒烟に閉ぢ込められたるが故に遂に信仰の火これに移りて霊界の煌火燄々〔こうかえんえん〕として昇り、大光明は彼に臨み又彼を通して世に臨んだのである、故に懐疑は貴いものである、知識のない所に懐疑はない、知識の少ない所に懐疑は少ない、ヨブの如き深き性質の人に広き知識備はりて天の城を攻略せんとする如き激烈雄大なる懐疑が起つたのである、しかも此懐疑の黒煙に天の霊火移りし故遂に最終章に示すが如き光燿赫々〔こうようかくかく〕たる大信仰に入つたのである。
 
○次に九章の二十五節―三十五節はヨブの己に対する独語である、己の憐れさを愍(あわれ)む語である、邦訳聖書に於て見るもその悲哀美に富める哀哭〔あいこく〕(Lamentation)たるを知り得るのである、二十四節までの友に対する語は天地を挑むが如き元気充盈(じうえい)せるものにて恰(あたか〕もバイロンやニエチエの一篇を読むやうであるが、之に反して二十五節以下は沈痛悲寥なる哀語である、その対照著しと云ふべきである、しかし実は二十四節以前に於ても我を愍む語が見えるのである、即ち二十、二十一節に曰ふ「たとひ我れ正しかるとも我口われを悪しとなさん、たとひ我れ全かるとも尚〔なお〕われを罪ありとせん。我は全し、然れども我は我心を知らず、わが生命(いのち)を賎(いやし)む」と、而〔しか〕して是れバイロン、ニエチエ等の近代文士の云ひ得ざる所である、大宇宙を前にしての此謙卑(へりくだり)は彼等になきものである、ヨブの此言たるパウロの「我れみづから省るに過(あやまち)あるを覚えず、然れども之によりて義とせられず、我を審判(さば)く者は主なり」(コリント前四の四)と其精神を一にするものであつて、神を畏るゝ者の魂より流れいづる語である、ヨブに此心あり又二十五節以下の如き己に対する失望ありし故に遂に最後の救に浴し得たのである是れやゝもすれば自己を神となさんとする近代文人とヨブとの著しき相違点である。
 
○「わが日は駅使(はゆまずかい)(早馬使(はやうまずかい)、駅丁)よりも迅(はや)く、徒(いたずら)に過ぎ去りて福祉(さいわひ)を見ず、其走ること葦舟(あしぶね)の如く、物を攫(つか)まんとて飛びかける鷲の如し」との悲歎の語が二十五、六節にある、我日の過ぎ去る事の早きを陸上、水上、空中の
最も早きものに比したのである、今日に於て自動車、汽船、飛行機を挙ぐるが如きものである、(葦舟は速力早き
軽舸〔けいか〕にして今日も南米秘露(ペルー)国に於て用ひられてゐる)
 
○二十七節―三十一節は我病の苦痛を訴へし語なると共に又我が心霊の苦悶をあり〱と述べしものである、か
く見てその生々(いきいき)した発表たるを知るのである、「われ雪水(ゆきみず)をもて身を洗ひ、灰汁(あく)をもて手を潔むるとも、汝われを汚らはしき穴の中に陥(おとし)いれ給はん、而して我衣も我を厭ふに至らん」の如きを見よ、肉体の汚れと共に心霊の汚れを歎きしものたること明かである、「雪水」は沙漠地のことゝて雪のある時にのみ水を充分有〔も〕ち得るからの語である、「灰汁(あく)」は天然曹達(nat ron)即ち天然に存する結晶せる曹達〔ソーダ〕である、之を石鹸の如く使用するのである。
 
○三十二節以下は約百記中に於ても最も注意すべき語の一である、「神は我の如き人にあらざれば我かれに答ふ
べからず、我等二個(ふたり)して共に審判(さばき)に臨むべからず」と三十二節に言ふ、ヨブは神と己との間に充分なる交通の道なきを歎じたのである、そして三十三節にては「又我等の間には我等二個(ふたり)の上に手を置くべき仲保(ちうほう)あらず」と云ひて、彼は神と己の間に仲保者のなきを遺憾としたのである、「仲保あらず」と云ふは仲保を欲する心を示した語である、欲(ほ)しきものが無き故にその無きを歎いたのである、ヨブの此叫は神の探究におのづと伴ふ仲保要求の最初の声である、旧新約全体に於て之より以前に此声はないのである、その声は短く且微(かす)かである、しかし人の本性より出づる重大なる叫びである、人の心の深みより生るゝ人類本具の叫である、そして此要求は世界大となりて遂に満たさるべきものである、高等動物の眼の如きは頗〔すこぶ〕る精妙なるものであるが生物進化の流を溯〔さかのぼ〕つてみれば其初現は一黒点、一核子たるに過ぎないのである、しかも此微(かすか)なる原始ありてこそ後の完〔まつた〕き発達あるのである、そして十九章二十五節に至れば「われ知る我を贖(あがな)ふ者は活く、後の日に彼れ必ず地の上に立たん」と云ひて仲保者出現の確固たる希望を歌つてゐるのである。
 
○而してヨブの仲保要求の完全に充たされたるは勿論イエスの降世に依てである、かの微かなる叫が遂に此大な
る実現にまで進化したのである、新約聖書は云ふ「それ神は一位(ひとり)なり、又神と人との間には一位(ひとり)の仲保あり、即ち人なるキリストイエスなり」と(テモテ前書二の五)、又云ふ「もし人罪を犯せば我等のために父の前に保恵師あり、即ち義なるイエスキリスト」と(ヨハネ一書二の一)、又云ふ「新約の仲保なるイエス」と(ヘブル十二の二四)
ヨハネ2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
ヘブル12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
 
此新約的大事実はその初現をヨブのかの語に於て発したのである、約百記には斯くの如き貴き語が処々に在
る、そは恰も砂中に真珠を拾ふが如くである。
 
○同じ意味に於て我等は又九章二節に注意すべきである、そこに「人いかでか神の前に義しかるべけん」とある、
たゞ
義人なし一人も有るなしとのことである、ヨブは之をその最も深き意味に於て云ふたのではないとするも、茲に
新約の中心問題が存してゐるのである、彼は単なる失望の声として之を発せしも実はこれ神と人とに提出せられ
し最重要の問題なのである、宇宙の中心問題とも云ふべき重大問題がその発芽をヨブの語に於て有したのである、
見よ「人いかでか神の前に義(ただ)しかるべけん」と、げに是れ此世に於ける最も難き問題の提出ではないか、人は罪に生れ罪に育ち罪に歩みて、如何〔いか〕に発奮努力するも神の前に己を義しくすることは出来ない、併し乍ら人義たらずして永生を獲得することは出来ない、神 徒(いたず)らに人を義とする時はみづから義たり得ぬを如何〔いかん〕、茲に問題は至難中の至難として現れたのである、併し乍ら人より見ての至難は神より見ての至難ではない、彼は遂にその独子〔ひとりご〕を世に降し給ふて罪人を義とすると共に又自ら義たるの道を拓〔ひら〕き、遂に千古の難問を解決したのである、而して此難問題は実に約百記の九章二節にその源を発したのである。
 
○約百記は種々の大問題を暗示的に提出して之に対して多少の解決を試みてゐる、しかし其全き解決は勿論新約
に於て在るのである、かの有名なる法王グレゴリー七世(ヒルデブランド)は特に約百記を愛読せしと云ふ、その
理由は此書の中に聖書中の真理が悉く含まれ居ると云ふにあつた、凡て基督教の大真理は約百記の中に発芽して
居る、而もそれが暗示の形に於て問題として提出されてゐる、凡て大著述の特徴は論証的なるよりも暗示的
サツゼスチヨン(suggestive)なるにある以て約百記の大を知るべきである。
 
 
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