内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第17講 ヨブの見神(一)

第十七講ヨブの見神()  約百記第三十八章の研究(十一月廿一日)
 
○余は約百〔ヨブ〕記の絶頂たる十九章を講じて後ち病を得 数回この講壇を休むの已〔や〕むなきに至つた、詩人バイロンは大なる天才であつたが三十八歳を以て此世を去つた、或人此事を評して彼はその発見せる真理のあまりに大なるため殪〔たお〕れたのであると云ふた、余は自〔みずか〕ら真理を発見したためではないが約百記十九章までに含まるゝ真理の余りに大なるに接して病を得たのである、依て余は最初の計画に変更を加へ、二十章以後を逐章研究することを罷〔や〕めて最後の数章のみを講ぜんと欲する、即ち「第三回論戦」と「エリフ対ヨブ」の条(くだり)を歇〔や〕めて最後の「ヱホバ対ヨブ」を講演の題目とするのである。
 
○ヨブは十九章に於〔おい〕て希望の絶頂に達した、そして二十章以後に於ても種々の貴き事を示されるのである、三友人は依然として彼の攻撃に全力を尽せどもヨブは従来の如〔ごと〕く激せず、受けた攻撃の主意を自分一己の事とせず之を人類全体の大問題として考察する、例へば神の支配する此世に於て善人にして衰ふる者あり悪人にして栄ゆる者あるは何故ぞ等の疑問に対して、之を人類共通の問題として答ふるのである。
 
○三友のヨブ攻撃は依然として続けどもヨブに何等教ふる所なく、次に青年エリフ堪(たま)りかねて仲裁の語を発し(三十二―三十七章)それは多少ヨブを慰むる所あつたが勿論ヨブに充分の満足を与へずして、ヨブは唯〔ただ〕沈黙を以て之に応じたのみであつた、けだし最期の問題はヨブが直接神の声を聴くことである、彼はみづから父の御声に接せずしては満足しないのである、彼は此神秘境を味はずしては其霊魂に真の平安を得ることは出来ぬのである、人の声は人を救ふことは出来ぬ、神の声のみ人を救ひ得るのである。
 
○ヨブの此願は十三章に示されてゐる、「視よ我目これを尽(ことごと)く観、我耳これを聞きて通達(さと)れり、汝等が知る所は我も之を知る、我は汝等に劣らず然〔しか〕りと雖〔いえど〕も我は全能者に物言はん我は神と論ぜんことを望む」(一―三節)とある、又三十一章三十五節には「あゝ我の言ふ所を聴き分るものあらまほし(わが花押(かきはん)茲(ここ)にあり、願〔ねがわく〕は全能者われに答へ給へ)」とある、ヨブは神の声を聴かんことを熱望したのである、そして此熱望は次に希望となり確信となつてゐる、「我が此皮此身の朽ちはてん後われ肉を離れて神を見ん、我自ら彼を見奉らん、我目彼を見んに識らぬ者の如くならじ我心これを望みて焦る」(十九の二六、二七)とある、ヨブは他日神と相対して語るべき時ある事を確信するに至つたのである、既に此熱望を達すべき時来るとの確信に達した以上は或〔あるい〕は既に充分であると云ふ人があるかも知れぬ、しかし約百記著者は詩人である、詩人であると共に又信仰問題の精髄に達した人である、故に最後に至つてヨブに神を示すのである、茲にヨブの切なる望は鮮かに遂げられて彼に大なる満足が臨むのである。
 
○見神の実験と叫ぶ人がある、又見神の実験記の記されしものがある、しかし如何〔いか〕なる見神であるかゞ問題である、ヨブの見神の実験如何〔いかん〕、彼は如何様に神に接し如何様に其声を聞きしか―それが問題である、そして之を記すものは三十八章―四十一章である、これがヨブの見神の実験記である、或はこれを読みて其無価値を称する人もあらう、しかし是れ真の見神実験記である、人もし信仰と祈祷の心とを以て之に対せば之が真の見神記なることを認め得るであらう、徒〔いたず〕らに之を貶〔へん〕するが如きは敬虔〔けいけん〕の念乏しく真摯〔しんし〕に於て欠くる所の態度である。
 
○三十八章一節に云ふ「茲にヱホバ大風の中よりヨブに答へて宣(のたま)はく」と、「大風の中より」と云ふは如何なる状態を指したのであるか知る由もないが、ヱホバの声は兎角〔とかく〕人の道が窮〔きわま〕つた時に聞ゆるものである、此世の人々が全く窮するに至つて茫然〔ぼうぜん〕自失為す所を知らざるに至る時ヱホバの声は預言者の口を通して聞ゆるものである、
三友人の批難の語もエリフの慰めの語も共に問題を解くに足らず、ヨブは光明に触れしも未だ直接父に接するを
得ずして深き遺憾を心に抱ける時、こゝにヱホバは人間の造る大風の混乱の中よりその声を発し給ふのである。
 
○その声に云ふ「無知の言詞(ことば)をもて道を暗からしむる此者は誰ぞや」と、「道」とは神の御計画、世界を造り給ひし時の御精神と云ふ意である、神は光明の道を以て世界を造り且〔かつ〕導き給ふ、然るに強〔し〕ひて心中の懐疑を以て其道を暗くするものは誰ぞと云ふのである。
○次に「汝腰ひきからげて丈夫(おとこ)の如くせよ、我れ汝に問はん、汝われに答へよ」とありて次に左の如く言ふ。地の基〔もとい〕を我が置(す)ゑたりし時なんぢ何処〔いずこ〕にありしや、汝もし穎悟(さとり)あらば言へ、汝もし知らんには誰が度量(どりやう)を定めたりしや、誰が準縄(はかりなは)を地の上に張(は)りたりしや、その基は何の上に置かれしや、その隅石は誰が置(す)ゑたりしや(四―六節)
是れ神が世界を造りし時汝はその計画に参与せしかとの問であつて、造化の秘義に関する人間の無知を諷〔ふう〕せし語である、「地」と云ふも勿論当時の地文学に循〔したが〕つての語であつて地球を意味せず地を扁平なものと見ての言である、故に「地の基を我が置ゑたりし時」と云ふのである、「誰が度量を定めたりしや、誰が準縄(はかりなは)を地の上に張りたりしや」は地の目方、長さ、幅等を汝が与〔あずか〕り知るや、人智の微弱なる到底これを知る能〔あた〕はず、たゞ地を造りし神のみ知るとの意である、六節も同様の主趣の語であつて「基」と云ひ「隅石」と云ふは何〔いず〕れも地を扁平体の大建築物と見ての言ひ方である。
 
○人は地―己が脚を立てつゝある所の地についても斯く無知である、之を知るは神のみ、造化の秘義、摂理の
妙趣は人智の把握の外に在る、徒らに小なる知力を以て神の宇宙について是非得失の論議をなすは空しき極であ
るとの主意である、今日の科学に於ては地球の長さ、幅、目方も正確に知られてゐる(太陽や月のそれさへ知られ
てゐる)、故に約百記の此言〔このことば〕は何等肯綮(こうけい、カナメ)に当らないと云ふ人があるかも知れぬ、しかし是れ愚かなる批評である、数千年前の約百記なるが故にかく論じて人間の無知を充分明示し得たのである、もし今日約百記が作らるゝならば他の難問を提起して人間の無知を証し得るのである、人知の進歩と人は叫べども未だ人に知られぬ事は宇宙に夥〔おびただ〕しく存するのである、そして昨の知識は今すでに非なるが常である、人は地に関してすら未だ甚しく無知である、約百記の此言はその精神に於て今なほ有効である。
 
○次の第七節に言ふ「かの時には晨星(あけのほし)あひともに歌ひ、神の子たち皆歓びて呼(よば)はりぬ」と、地の造られし時天の星と天使との合唱歓呼せしことを云ふ、まことに荘大なる言である、あゝ如何なる合唱(コ-ラス)なりしぞ、あゝ如何なる歓呼なりしぞ、人の合唱、人の歓呼すら荘大高妙を極むることあるに   之はまた類なき合唱歓呼―晨星(あけのほし)声を揃〔そろ〕えて歌ひ、神の子たち皆歓び呼はるの合唱歓呼である、人は宇宙の創造に参与せずして少しも此事を知らない、そして今いたづらに其貧弱なる智嚢〔ちのう〕を絞りつくして宇宙と造化の秘義について知らんとし、少許〔すこしばかり〕の推測の上に喋〔ちようちよう〕
々し喃々〔なんなん〕する、実に憐むべきは人の無知である、知らずや地は人の思ふが如くにして現はれ出でたのではない、思ふだに心躍る所の荘大と云ひ厳粛と云ひ優美と云ふも到底云ひ尽し得ぬ所の光景の中に造られたのである。
 
○然り地は斯かる大讃美の中に勇しく生れ出でたものである既に斯〔かか〕る地である、神が造り且治め給ふ斯る地である、斯る讃美の中に生れて神に治めらるゝ此地である、そして斯くの如き地に生を享〔う〕けたる人である、さらば人よ無益なる不平や疑惑を去れ、諸星と天使との大讃美大歓呼の中に生れし地に住みて心に讃美の歌なく歓呼の声なくして生くるは酔生夢死である、小さき理知の生む悶〔もだ〕えと疑とを去りて星と共に、天使と共に、神と其造化とを讃美しつゝ意義あり希望ある生を送るべきである。
 
○あゝ人は無智にして造化の秘義を知らぬ、そして独り悶えてゐる、然るに人の立つ所の地の造られし時に於て
全宇宙の讃美歓呼があつたのである、神は地と其上に住む人を空しく造つたのではない、されば我等は地を見て
其処に神の愛を悟るべきである、そして安ずべきである。〔以上1210
 
 
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