内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第13講 ヨブ答ふ(下) 遂に仲保者を見る

第十三講ヨブ答ふ() 遂に仲保者を見る約百記第十七章の研究(九月廿六日)
○約百〔ヨブ〕記第十七章の研究をなす前に於〔おい〕て以賽亜〔イザヤ〕書四十六章について一言所感を述べ度い、先〔ま〕づ一節、二節には左の如く記してある。
ベルは伏しネボは屈(かゞ)む、彼等の像は獣(けもの)と家畜との上に在り、汝らが擡げあるきしものは疲れ衰へたる獣(けだもの)の負(もた)ふ所となりぬ、彼等は屈(かが)み彼等は共に臥(ふ)し、その荷となれる者を救ふこと能(あた)はずして己れ捕はれゆく。ベルとネボとは共にバビロニヤの偶像である、今やバビロニヤは富国強兵を以て誇り其偶像も皆勢威隆々たるの感がある、さり乍〔なが〕ら一度〔ひとたび〕東方の強ペルシヤの来り犯すあらば如何〔いかん〕、其時は今まで万民を伏さしめ屈(かが)ましめたる偶像は忽〔たちま〕ち伏し屈む外はない、民は獣と家畜とをして之を背に載せて担ひ行かしむるであらう、今まで民はその偶像を擡〔もた〕げ歩いて年毎の祭をなした、然〔しか〕るに今は之を疲れたる獣に負はせて落ちゆく有様である、そして民は遂〔つい〕に疲れ倒れて其荷物とせし偶像を救ふ能はずして之と共に敵人の手に捕はるゝに至るのである、偶像は木石である、祭の時は之を担(かつ)ぎて騒ぎまはり、敗戦に会しては獣の背に乗せて共に逃れんとするも遂に疲れて共に敵人の手中に帰するに至るものである。
 
○之に対してヱホバの神は如何、彼は預言者の口を通して其民に告げて言ふ。
ヤコブの家よ、イスラエルの家の遺(のこ)れる者よ、腹を出でしより我に負はれ胎を出でしより我に擡(もた)げられし者よ、皆われに聴くべし、汝等の年老ゆるまで我は変らず、白髪(しらが)となるまで我れ汝等を負はん、我れ造りたれば擡〔かつ〕ぐべし、我れ亦〔また〕負ひ且救はん。(三、四)
偶像は人の担(にな)ふもの、神は人を担(にな)ふものである、偶像信者はその偶像を担(かつ)ぎて行列をなし以て其宗教の勢力誇示をせんとする、彼等はみづから其神を担(にな)ひて一種の示威運動をなすのである、そして基督教徒までが神を担(かつ)ぎまはり其勢威を誇示して以て福音宣播に忠なりと思ひ易いのである、種々の手段方法に依り福音の力を外部的に現はして、神の国を拡張せんとする普通の伝道法の如きは実はこの異教的精神の産物である、しかし事実は我等が神を支へるのではなくして我等が神に支へられるのである我等が神に負はれ神に擡(もた)げられ神に救はれるのである。
 
○世には飽くまで自力に立ちて神を担ふ人が甚だ多い、自力に依る信仰的修養、自力に依る神国拡張―これ等
は無効に終るのみならず遂には過労心痛のため自身の疲憊廃滅(ひはいはいめつ)を惹〔ひ〕き起すものである、しかし真の信仰はたゞ神に抱かれ、育てられ、恵まれ、護られ、救はるゝ信仰でなくてはならぬ、そして自力によらず神に力を与へられて力に充つる信者とならねばならぬ、神より力を与へらるればこそ、白髪(しらが)となるまでも彼に負はるればこそ、中途の挫折なく益〔ますま〕す力より力に進むのである、古来偉大なる伝道者、偉大なる基督信者は皆この秘義を自得したものであつた、我等は偶像教徒の如く神を担はんとせずして、神に担はれんとすべきである。
 
**********第13章のここまでの部分は「聖書注解全集には含まれず。***********
 
○さて約百記十七章を見るにそれが十六章の継続なることは明かである、殊に十六章の十八節より十七章九節ま
では一の思想を伝へてゐるのである、十六章二十二節は「数年過ぎ去らば我は還らぬ旅路に往くべし」と言ふた、
そして十七章一節は言ふ「わが息(いき)は已(すで)に腐り、我日すでに尽きなんとし、墓われを待つ」と、彼は斯か〔か〕る悲境にありて十六章末尾の如く地に向つて訴へ又天の証者に向つて訴へた、そして茲〔ここ〕に十七章三節に於て「願くは質(ものしろ)を賜ふて汝みづから我の保証(うけあひ)となり給へ、誰か他(ほか)に我手を拍(う)つ者あらんや」と呼ぶのである、これ深く注意すべき一節である。
 
○哥林多〔コリント〕後書五章は先づ終の日に於ける信徒の栄化(永生賦与)を述べ次に五節に於て「それ此事に応(かな)ふ者と我等を為し給ふ者は神なり、彼れ聖霊(みたま)を其質(かた)として我等に賜へり」と云ふ、質(かた)とは手附金、見本の意である、後に賜ふ栄化の契約の印として今聖霊を賜はるのである、我等は之を賜はりて契約の確立を信じ得又後に賜はる者の見本を接受するのである、されば「質(かた)」とは後に実行さるべき事を今確〔かた〕く約する所の確証である、十七章三節のヨブの願は彼の死後に於て神が彼の無罪を証明する約束の確証を今賜はらんことを願ふのである、彼は今や罪の故ならずして死せんとしてゐる、友はそれを罪の故と断定して彼を責めてゐる、併〔しか〕し神は彼の無罪を知り給ふ、然り神のみが彼の無罪を知り給ふ、我亡(な)きのち我の無罪を証し給ふものは神である、これヨブの暗中に望み見た燈火である、故に彼は神のこの証(あかし)の確証を今与へ給はんことを願ふのである、神が彼の死後必ず彼の無罪を証明するとの約束の印(商業上の契約ならば手附金)を今神より得たしと望んだのである。
 
○ヨブは神が罪なき彼を苦めつゝある事を認めて之を怨じながら今また同一の神に無罪の証明を求めてゐる、其
処〔そこ〕に明かに思想上の矛盾がある、由来仲保といふ観念は思想上の矛盾の上に成立する観念である、神は罪を悪〔にく〕む神なるが故に人が罪を犯した場合には人を責めなければならぬ、彼は人を罰して霊界の秩序を維持せねばならない、彼は已むを得ずして―実に已〔や〕むを得ずして人の敵となるのである、此時人の側よりして仲保者を要求する心は当然起らざるを得ない、「人のために神と論弁」する者即ち弁護者を要求せざるを得ない、而〔しか〕してかゝる仲保者はたゞの人にては力足らず神自身でなくてはならぬのである同一の神が我を責め且我ために弁護す、同一の神が我を苦めそして我のために証(あかし)すると、その明白なる矛盾あるにも係〔かかわ〕らず人は神に向つて我ための証明、論弁、仲保を望むのである、神以外の者に向つては到底起らない二つの相反せる望を神に向つては起すのである茲に明なる矛盾があると共に又茲に霊界の秘義がある、又人心の機微がある、そして此矛盾せる、然れども牢乎〔ろうこ〕として抜き難き要求はキリストの出現に依て完全に充たさるゝに至つたのである、それ迄〔まで〕は暗中の光明探索である。
 
○回教の経典たる『コーラン』に曰〔い〕ふ「神と争ふ時の最後の逃げ場所は神御自身なり」と、まことに人は神と争ひて苦むとき其我を苦しむる神の所へ往くほかに逃げ場所はないのである、イエスを称して最大の無神論者と云ふ人がある、そは彼が此世に於て遺したる最後の語が感謝をも平安をも伝へずして「我神我神何ぞ我を棄て給ふや」と彼の大失望を語つてゐるからである、しかし此哀切なる悲声が彼の魂(たましひ)の咽喉(のど)を絞(しぼ)りて出でたるがために多くの患難悲痛にある人々が彼によつて救はるゝのである、失望痛苦懊悩〔おうのう〕にありて神を疑ひて離れんとする人がイエスの此大悲声に接して、この深刻なる内的経験に於て彼と己と霊犀〔れいさい〕相通ずるを知り、彼に頼りて神を見出し神に還るに至るのである、かくして「最大の無神論者」が我等を真実の―空理に依らぬ実験上の―有神論者とするのである、そは「最大の無神論者」は実は最大の有神論者であるからである。
 
○五節は言ふ「友を交付(わた)して掠奪(かすめ)に遭はしむる者は其子(こども)等の目潰(つぶ)るべし」と、ヨブが三友人に向つて、余を苦しむる汝等はその子等の眼潰るるの報(むくい)に会ふべしと告げたと云ふのである、併し此節については説が多い、ヨブは今まで可成り激しく友に責められ自分も相当に逆襲する所あつたが、未だ曾〔かつ〕てかゝる呪詛(じゅそ)に類するやうな語を発しなかつた、彼が今に至つて此種の語を発するは彼のために惜むべき至りである、否〔いな〕彼が斯かる語を発したと云ふのは甚だ疑はしきことである、故に之を改めて「汝等は友を敵に交付(わた)して掠奪(かすめ)に逢はしむ而して彼等()の子(こ)等は目潰(つぶ)るべし」と訳する学者がある、然る時は汝等は友を苦め其子供(ども)をして目潰(つぶ)れるほどの災に陥らしむとの意となるのである、六章二十七節の筆法と照り合せるとき此見方の方が正しいやうに思はれる、我等はヨブが悪を以て悪に酬〔むく〕いたと見たくはない、万一然りとせば我等はそれを学ばぬやうに力〔つと〕めねばならぬ。
 
○次に注意すべきは第九節である、「さりながら義(ただ)しき者は其道を堅く保ち、手の潔浄(いさぎよ)きものは益〔ますま〕す力を得るなり」とある、之を英語改訂聖書に於て
Yet shall the righteous hold on his way
And he that hath clean hands shall wax stronger and stronger.
と読む時その偉大なる言たるを知るのである、この一節が失望の語〔ことば〕と失望の語〔ことば〕の間に挿〔はさ〕まれあるため之をヨブの言と見ずして、次章のビルダデの語の誤入と見る学者がある、しかし前後関係なくして突如として現はれ又突如として隠れたる事が却〔かえつ〕て此語の純正を証するものである、ヨブは大苦難の真只中(まつただなか)にありて前後左右を暗黒に囲まれつゝ一縷〔いちる〕この光明を抱いたのである、以て此語の偉大さを知るのである、これ人生の根柢に於ける彼の確信の発表である、罪のためならずして大災禍に逢へる彼がその大災禍の中にありて正と義の勝利を確信したのである、ヨブの偉大よ! また約百記々者の偉大よ!
 
○我等は如何〔いか〕なる場合に処しても此信念を失つてはならない、凡〔すべ〕てを失つても此信念を失つてはならぬ、「義(ただ)しき事のために責めらるゝ者は幸なり」と主は教へ給ふた、迫害屈辱に逢ふも正義公道に立てりとの確信あらば我の勝利は確実である、今や北米合衆国は有色人種を窘(くるし)めて明かに国祖清教徒の自由平等の大信条に背いてゐる、彼等はその優秀なる軍備を以て他国を屈服せしめ得るかも知れぬ、併しながら彼等は明白に神の真理に背(そむ)いて果して安きを得るであらうか、彼等に向つて約百記の此語を提示するとき恐らく彼等は耻羞〔ちしゆう〕に顔を蔽〔おお〕ふであらう、明白なる非理を立て通して勝つも実はこれ敗るゝ事である、又彼等に窘(くるし)めらるゝ者と雖〔いえど〕も自身正に立ち義に歩めるの確信だにあらば負けるは即ち勝つであつて少しも恐るゝ処ないのである、神は最後まで義の味方であつて悪の敵である、われらの求むべきは義に歩むの生涯である、自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟あらば我等は即ち大盤石の上に立つて安らかなのである。
 
碩学〔せきがく〕老デリッチは此一節を評して「暗黒中に打ちあげられし狼煙(のろし)の如し」と云ふた、光明は暗黒を破つて一度輝きしも復た忽ち消えて再び暗黒となつた、十節以後の痛切深刻なる悲哀の発表を見よ、その辞惻々〔そくそく〕、読む者の心をうたねば已〔や〕まぬのである、人の弱さとして是れ実に已〔や〕むを得ないのである、さはれ失望中に一閃〔いつせん〕の希望ありて約百記が失望の書にあらず希望の書たることを知るのである、一閃〔いつせん〕また一閃〔いつせん〕、遂に暗黒悉く去つて光明全視界を蔽ふ処まで至るが約百記の経過である。
 
○暗中に一閃の狼煙(のろし)ひらめき又忽ちもとの暗黒となる、これ人の魂の真の実験である、人間心霊の歴史として約百記の優秀は茲に在る、人の霊魂の産(うみ)の劬労(くるしみ)は実にこれである、かゝる道程を経て進歩するのである、されば約百記の実験記たるは益す明かである、第二回論戦に入りてはヨブの失望は第一回論戦の時よりも一層深くなつたやうに思える、併し其間に光明の閃耀 次第に著しくして徐々として進展の階段を攀(よ)づるのである、独りヨブに限らず凡て心霊の悩みは之であつて同一の経過を経て遂に救に入るのである。