内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第12講 ヨブ答ふ(上) 終に仲保者を見る

第十二講ヨブ答ふ() 終に仲保者を見る約百記第十六章の研究(九月十九日)
 
○約百〔ヨブ〕記研究に先〔さきだ〕ちて一の所感を述べ度い、路加〔ルカ〕伝十七章二十節以下に神の国に関するイエスの教がある、パリサイ人の問に対しては主は「神の国は顕れて来るものにあらず、此(ここ)に見よ彼(かしこ)に見よと人の言ふべきものにあらず、それ神の国は汝等の衷(うち)にあり」と答へた、これ此世の不信者に対するイエスの答として初めて其真意が解るのである、之を再臨反対のために用ふる如〔ごと〕きは背理の甚しきものである、世の人は宗教を社会運動として見る、「神の国は何〔いず〕れの時来るか」とのパリサイ人の質問は即ち宗教を外部的顕勢と見ての問である、彼等は外部的に勢威を張るものに非ずしては之を宗教として認めないのである、之に対してイエス神の国は顕れて来るものにあらずと答へたのである、神の福音は人の注意を惹〔ひ〕く為の行列を作つて来るものではない、其勢力を誇示するための外部的運動として現はるべきものでない、然〔しか〕るに世の俗人のみに止まらず基督教徒と称する者の中にさへ福音を外部的に考へ、此世の権勢や財力の前に拝跪〔はいき〕して其援助の下に大運動を為すを以て得意とするものがある、これ昔
もあり今もある大迷誤である、神の国は此処彼処〔ここかしこ〕に見ゆべきものに非ず人の内心に深く存するものであると主は答へて、まづ福音の非社会的性質、外部的無勢力を教示したのである。
 
○然るに二十二節以下の弟子に教ふる聖語を見るに、最後の日に於ける神の国の外的顕栄が少しも疑ふ余地なく
明確に予示されてゐる、電光(いなずま)の天の彼方〔かなた〕より閃〔ひらめ〕き天の此方〔こなた〕に光るが如く最後の日は突如として来る、これ行列的示威運動の類ではない、神みづから行ひ給ふ天地宇宙の変動、改造、完成である、人の子はその絶大なる権能を以て来り彼の敵は悉〔ことごと〕く滅びて神の国は其充溢せる栄光を以て万(すべ)ての眼の前に顕はれるのである、この時のみが神の国の外部的顕栄である、然し乍〔なが〕ら其時至る前に当つて「人の子必ず先づ多くの苦を受け又此世の人に棄てられ」るのである、そして彼の弟子も亦〔また〕然るのである、最後の顕栄の日まではイエスと彼を信ずる者とは世の嘲笑〔ちようしよう〕、誤解、迫害の中に住みて、心の中に神の国を抱くも外部的勢力として現はれぬため無力微弱賎劣なる者として蔑視されるのである、世より斯〔か〕く見らるゝ者が真の基督者なのである、神の国は勢力誇示ではない、外部的運動ではない、先づ我衷(うち)に細き神の声を聞き、我魂天なる父と静かにして深き交通に入りしもの、此者が真のキリストの弟子である、他は俗人にして信者の衣を纏〔まと〕へるものである、今や福音が社会的運動として見られんとする時我等は特に此一事を深く思はねばならない。
 
○之より約百記第十六章の大意を語らう、第十五章の二回戦開始に於てエリパズは先づヨブを罪人として責め、
次に罪悪の結果として必ず恐怖煩悶〔はんもん〕患苦零落の臨むべきを説いた、之に対してヨブは先づ一節―五節に於て友の忠言の無価値なることを主張するのである、「斯〔かか〕る事は我れ多く聞けり」は汝等の反覆語に倦(あ)きたとの意である、「汝等は皆人を慰めんとて却〔かえつ〕て人を煩はすものなり」は原語を直訳すれば「汝等は人を苦しむる慰者(なぐさめて)なり」となる、慰者とは名のみで実は人を苦め煩はす者であるとの意、強き嘲〔あざけ〕りの語である、次に「もし汝等の身わが身と処を換へなば……口をもて汝等を強くし、唇の慰藉(なぐさめ)をもて汝等の憂愁(うれへ)を解くことを得るなり」とあるは我と汝等と位置を代へなば我は立派に汝等を慰め得んと云ふのでもある、其半面に三友の慰藉が徒〔いたず〕らに安価なる口と唇の慰めに過ぎぬことを暗に嘲(あざけ)つたのである。
 
抑〔そもそ〕も「慰め」とは何を指すか、『言海』を見るに邦語の「なぐさめ」はなぐより出た語であつて(風がなぐ() の類)「物思ひを晴らして暫〔しば〕し楽む」を意味すると云ふ、他の事に紛(まぎ)らして暫し鬱(うつ)を忘れると云ふのが東洋思想の「慰め」である、されば東洋人は或〔あるい〕は風月に親み或〔あるい〕は詩歌管絃の楽みに従ひて人生の憂苦を其時だけ忘れるを以て「慰め」と思つてゐる、従〔したがつ〕て尚(な)ほ低級なる「慰め」の道も起り得るのである、正面より人生の痛苦と相対して堂々の戦をなさんとせず、之を逃避して他の娯楽を以て我が鬱を慰めると言ふのは寔(まこと)に浅い、弱い、退嬰的な態度である、聖書的の「慰め」は決して此種のものではないのである。
 
○英語に於て「慰め」をComfort と云ふ、勿論慰めと訳しては甚だ不充分である、fort は「力」の意である故、、
Comfort は「力を共にする、力を分つ」を意味するのである、抑も人が苦悩するのは患難災禍に当りて力が足ら
ざるためである、其時他より力を供することが即ちComfort である、故に真の力を供するのが真のComfort である、然らざるものはComfort ではない、殊に天父より、主イエスより此力を供せられるのが基教的の「慰め」である、かくの如き力を供給する慰めが真の慰めである、ヨブの三友の慰めの如きは寧ろ力を奪ふ慰めであつたのである。
 
○六節―十七節に於てヨブは復〔ま〕た神に対して恨みの語を述べてゐる、或は神を「彼」と呼びて「彼れ怒りて我を掻裂(かぎさ)き且窘(くる)しめ、我に向ひて歯を噛鳴(かみな)らし我敵となり目を鋭くして我を看(み)る……彼は我を打敗(やぶ)りて破壊(やぶれ)に破壊(やぶれ)を加へ、勇士(ますらお)のごとく我に奔(はや)せかゝり給ふ」と恨み、或は神を「汝」と呼びて「汝わが宗族をことごとく荒せり、汝我れをして皺(しわよ)らしめたり」と怨じて居る、其語法の不統一は却て情感の熾烈(しれつ)を語るものである、実に六節―十七節の全体にわたる神に対する怨恨は其語調と其感情と共に激越痛烈を極めてゐる、而〔しか〕してヨブはその最後に於て「然れども我手には不義あるなく我祈祷(いのり)は清し」と主張して依然として己の無罪を高調し、此の罪なき彼を撃つ神の杖(つえ)の無情を怨んでゐる。
 
○此怨語を聴きゐたる三友はヨブを以て神を謗〔そし〕る不信の徒となしたのである、そして凡て斯る語を傍より冷かに批評する者は彼等と判断(おもひ)を同じうする外はない、併しながら事実は彼等の思ひと異なる、神に対して怨の語を放つは勿論その人の魂の健全を語ることではない、併し是れ冷かなる批評家よりも却て神に近きを示すものである、
かく神を怨みて已〔や〕まざるは神を忘れ得ず又神に背き得ざる魂の呻(うめ)きであつて、やがて光明境に到るべき産(うみ)の苦みである、神を離れし者又は神に背ける者は神を忘れ去る者であつて神を怨み得ないのである、神に対する怨言は絶望懊悩〔おうのう〕の極にある心霊の乱奏曲である、斯の如き悲痛を経過して魂は熱火に鍛はれて次第に神とその真理に近づくのである、これ心霊実験上の事実である、この実験なき浅薄者流は之を解し得ずしてエリパズ等の過誤を繰返すのである。
 
○十七節までに於てヨブは三友を嘲り神を怨んだ、今や三友人は彼の友でなく神も亦彼の友ではない、茲に於て
彼は訴ふるに処なくして遂に大地に向つて訴ふるに至つた、これ十八節である、「地よ我血を掩(おほ)ふ勿〔なか〕れ、我号叫(さけび)は休(やす)む処を得ざれ」と云ふ、彼今や無実の罪を着せられて不当の死に会はんとしてゐる、彼の無辜〔むこ〕なる血は地に流やすれんとしてゐる、彼の死後に於て彼の血は彼の不当の死を証明するであらう、故に地に向つて血を蔽〔おお〕ふことなく何時〔いつ〕までも之を地に止めて其の血の号叫(さけび)をして永久に終熄〔しゆうそく〕すること無からしめんことを求めたのである、「汝の弟の血の声地より我に叫べり」と兄を殺したるカインにヱホバは言ふた(創世記四の十)、ヨブは死の近きを知り且その不当の死なることを一人も知るものなきを悲みて、我血をして我無罪を証明せしめんとて地に後事を托して、綿々たる怨を抱いて世を去らんとするのである、これ絶望の悲声であつて理性の叫ではない、然し乍ら人の心は何か訴ふる所を要求するのである、人は何かに我の証人となつて貰〔もら〕ひ度いのである、溺〔おぼ〕るゝ者は藁〔わら〕にも縋〔すが〕ると云ふ、人は神にも友にも棄てられしと感ぜし時は大地に向つて訴へ、我血に向つて我の証人たれと願ふのである。
 
○然るに十九節に至つてはヨブは一転して我証人の天に在ることを認めてゐる、「視よ今にても我証(あかし)となる者天にあり、わが真実(まこと)を表明(あらわ)す者高き処にあり」と云ふ、今まで神を怨みながら茲には我証人即ち我の無罪を知るもの天にありと云ふ、其処〔そこ〕に明かなる矛盾がある、併し心霊の実験としては却て此事は真である、恰〔あたか〕も航海者が海上暴風雨に会して船は難破し身は将〔まさ〕に溺れんとして「海よ我を記せよ」と叫びて絶望の悲声を発するかと思へば、
忽〔たちま〕ち暗雲風に開けて雲間に星辰の燦(きらめ)くを見て其処に微〔かす〕かなる希望を起すが如き状態である、悲壮の叫びである、痛烈なる要求である、微かなる併し打ち消し難き希望である。
 
○二十節に言ふ「わが友は我を嘲る、されども我目は神に向ひて涙を注ぐ」と、友には理不尽なる嘲笑を浴びせ
られて其誤解を解くの道なし、茲に於て神に向ひてたゞ目の涙を注ぐのみと、哀切の極である、無限の感情が此
一語の中に籠(こも)つてゐる、言ひ知れぬ深刻、たとひ難き崇高が此一節に於て感ぜられる、他の文籍に類例なき偉大なる語である。
 
○彼を誤解し彼を難詰し彼を侮蔑(ぶべつ)する友を全く忘れ得ぬは何故であるか、「我友は我を嘲る」と云ひて友の嘲笑を何時までも気に掛け居るは如何、そは友の誤解嘲笑は彼にとりて浅からぬ手傷であるからである、恰も針を以て心臓を刺されし如く彼の心は之がために激痛を起したのである、故に忘れんとして忘れ得ないのである、併しながら友に棄てられて全く己一人となりし時、茫々〔ぼうぼう〕たる宇宙間たゞ神と我のみあるの実感に入りて初めて神と真の関係に入り得るのである、而して後また友誼〔ゆうぎ〕を恢復〔かいふく〕して之を潔め得るのである。
 
○二十一節は「願くは彼れ人のために神と論弁し、人の子のために之が友と論弁せんことを」と言ふ(人の子と
あるも人と同じである)、神には撃たれ友には誤解せらる、自〔みずか〕ら自己の為に弁明するも些〔すこし〕の効なく、神の我を苦むる手は弛〔たゆ〕まず友の矢は益〔ますま〕す頻(しげ)く来り注ぐ、茲に於てかヨブは己のために神と論弁し又友と論弁して彼の無罪の証を立つる一種の証人を要求するのである、「彼れ」とは即ち此者を指したのである、実に人は自身神に訴へ自ら友と争ふも力足らず我に代りて此事をなす証者(あかしびと)を切に求めるのである、これ難局に処しての人間自然の要求である、人は己の無力を覚(さと)るとき強くして能(ちから)ある我の代弁者を求めざるを得ないのである、この証者は弱き人類の一員であつてはならぬ、同じく弱き人にては此事に当ることは出来ない、故に人以上の者でなくてはならない、故に神の如き者でなくてはならない、しかし神自身であつてはならぬ、人の如き者にして我等の弱きを思ひやり得る者でなくてはならぬ、神にして神ならざる者、人にして人ならざる者、これ即ち神の独子たるものである、他の者ではない。
 
○ヨブの証者(あかしびと)要求は即ちキリスト出現の予表である、魂の深底に於てヨブは神の独子〔ひとりご〕を暗中に求めて、人心本来の切願を発表したのである、げに独子〔ひとりご〕を求むるは人心おのづからの叫である、而してこの要求はナザレのイエスを独子〔ひとりご〕として信受して初て満たさるゝのである。〔以上、・〕