内村鑑三 ヨブ記の研究ー2 第5講 ヨブ再び口を啓く

第五講ヨブ再び口を啓く第六章、七章の研究(五月二十三日)
 
○前にも説きし如〔ごと〕くエリパズ等は禍〔わざわい〕は罪の結果なりとの既成観念を抱き、この観念を以てヨブの場合を判定し以てヨブをして其罪を認めしめんとしたのである、彼等はかくしてヨブを其災禍(わざはひ)より救ひ得ると信じた、そして年長のエリパズ先づ此意味を以て五章六章の語を発しヨブをして其隠れたる罪を告白せしめんと計つた、ヨブもとより己を以て完全無疵〔むきず〕とはしない、併〔しか〕し乍〔なが〕らこのたびの災禍(わざはひ)が或る隠れたる罪の結果なりとは彼に於〔おい〕て全然覚えなき事であつた、故に彼はエリパズの訶詰(かきつ)に接して憤然として弁明せざるを得なかつた、これ第六章に載する所である。
 
○一節―四節は友に対する不満の発表と己の立場の弁明である、「願くは我憤恨(いきどほり)の善く権(はか)られ、我懊悩(なやみ)の之と向ひて天秤(はかり)にかけられんことを」と云ふは友の観察の浅きを責めし語である、「さすれば是れは海の沙よりも重からん、かゝればこそ我言躁妄(みだり)なりけれ」とあるは苦悩大なるため前の哀哭も我れ知らず躁妄(そうもう、みだり)に陥つたのであるとの意である、ヨブは自己の哀語の乱調を明かに認めて居たのである、これ苦悩に重く圧せられし心の琴のおのづからなる乱奏であつた、然〔しか〕るに友は之を悟らずしてヨブの哀々たる心の呻(うめき)を言句の末に於て判定する、これヨブの大なる不満であつた、故に此語を発したのである、「それ全能者の箭(や)わが身に入りわが魂(たましい)その毒を飲めり、神の畏怖(おそれ)われを襲(おそ)ひ攻む」と四節は曰〔い〕ふ、これヨブが其苦悶の理由を示して我立場を弁明したのである、神は今や我敵となりて我を撃ちたるかと、これ彼の暗き疑であり又その懊悩の原因であつたのである。
 
○五節―七節は友の言の無価値なるを冷笑した語である、「淡(あわ)き物あに塩なくして食はれんや、卵の蛋白(しろみ)あに味あらんや」と云ふは、謂〔いわ〕ゆる乾燥無味沙〔すな〕を噛〔か〕むが如しと云ふ類の語であつて、エリパズの言に対する思ひきつた嘲罵〔ちようば〕である。
 
○友今や頼むに足らず、友の言は徒〔いたず〕らに我を怒らするも一毫〔いちごう〕の慰藉をも我に与へない、然らば我願ふ所は依然として死の一のみと、かくて八節―十三節の語となつたのである、「願くは我求むる所を得んことを……願くは神われを滅(ほろぼ)すを善しとし御手を伸べて我を絶ち給はんことを」と彼は只管(ひたす)に死を希〔ねが〕ふのである、前説せし如く彼は死を願へどもそれは神が己を取り去り給はんことを願つたのである、決して不自然なる自殺を望んだのではない、自殺など云ふことは彼の思ふだにしない所であつた、これ大に注意すべき点である。
 
○十四節―三十節は友の頼み難きを述べし言として頗〔すこぶ〕る有名である、文学的意味に於ても価値と名と共に高く西洋の文学書に屡々〔しばしば〕引用せらるるものである、先づ十四節に於て友の同情心の不足を責めて軽き脅迫を与へ、十五節―二十節に於ては友を沙漠の渓川(たにかわ)に譬〔たと〕へて、生命を潤(うる)ほす水を得んとて其処(そこ)に到る隊客旅(くみたびびと)(Caravan)を失望慚愧〔ざんき〕せしむるものであるとなして居る、げに当時のヨブの心を語るべく此比喩は適切である、人生の沙漠に生命の水を求めつゝあつたヨブは偶々〔たまたま〕三友の来訪に接して恰〔あたか〕も隊客旅(からばん)が遥かに渓川を望見せし如くに感じた、そこには必ず彼の求むる水があると思つた、然るに愈〔いよい〕よ近づきて彼等の態度を見又その語に接するや期待は全然裏切られて、我渇を医すべき水は一滴も見当らないのである、ヨブの失望察すべきである、故に二十一節に於て「汝等も今は虚(むな)しき者なり」と彼は友人等に対し先づ総括的断定を下して後ち、激語を重ねて彼等を責むるの已(や)むなきに至つたのである。
 
○二十四節の「我を教へよ然らば我れ黙せん、請ふ我の過(あやま)てる所を知らせよ」とは彼の心の切なる願そのまゝの発表である、同時に又之を為し得ぬ友の無能を責めた語(ことば)である、二十六節には「汝等は言を規正(いまし)めんと想ふや、望の絶えたる者の語る所は風の如きなり」とある、ヨブは自己の語る所が風の如く秩序も聯絡もなくして取るに足らぬものなることを自認して居たのである、これ望の絶えたる彼としては自然のことである、然るに斯〔かか〕る者の語の言葉尻(ことばじり)を捉(とら)へて是非の批判を下すは何の陋〔ろう〕ぞと責めたのである、友人等は言語表面の意味のみを見てその誤謬(ごびょう)をたゞさんとしたのである、かくては「言を規正(いまし)」むるに止まつてヨブ自身を規正(いまし)むる事は少しも出来ないのである、是れ謂ゆるオルソドクシー(正統派)の取る態度である、徒らに死文死語に執して相争ひ自己を正しと
し自己の定規(じょうぎ)を他に加へて是否の判定を加へるのである。
 
○二十七節の「汝等は孤子(みなしご)のために籤(くじ)をひき、汝等の友をも商貨(あきないもの)にするならん」は人身売買の罪をも犯すに至らんとの意である、ヨブが斯く友を責めしは余りに峻烈なりと評さるゝであらう、併し是れ感情激発の語であれば普通の批判の標準を以て之に対すべきではない、併しながらヨブの言必しも全然誤謬と云ふことは出来ない、前にも云ふた通りエリパズ等三友人は謂ゆるオルソドクシーの徒である、而〔しか〕してオルソドクシーは其信条その神学の擁護のためには或時は如何なる罪をも犯して憚らないのである、抑〔そもそ〕もオルソドクシーなるものは或真理の一群を信仰箇条と定めて動かざるものである、もし之等の真理を真正の意味に於て受得信奉すれば是れ理想的の状態であつて、斯かるオルソドクシーは貴むべきものである、然るに此一群の真理を固定の教条として相伝的、非実験的に丸呑(まるのみ)にし自ら信条の純正を以て誇り、人に強〔し〕ゆるに之を以てし、又人を批判するに之を以てし、もし人の信仰又は行為にして自分等の信条と相反する時は直〔ただ〕ちに彼を不信非行の罪人(つみびと)として排去せんとする、これ謂ゆるオルソドクシーである、彼等はその教条その神学を凡(あら)ゆる他のものゝ上に置くのである、故に其教条その神学の
ために凡ゆる他のものを犠牲に供して厭〔いと〕はぬのである、その結果は知らず識らず恐ろしき罪をも犯すに至るのである、ヨブは二十七節に於て三友のオルソドクシーの恐ろしさを説いたのである、約百記の著者は此言をヨブに発せしめて或は当時のオルソドクシーを責めしものではなからうか。
 
○かくてヨブは二十八節以下に於て強き語を以て自己の無罪を主張してゐる、「此事に於ては我れ正し、我舌に不義あらんや、我口悪しき物を弁(わきま)へざらんや」とは彼の友に答へし最後の語である、実にヨブは罪の故ならずして禍に逢つたのである、然るに友は罪の故なりと固く信じて彼を責むるのである、故にヨブは怒つて己の無罪を高唱せざるを得なかつたのである。
 
○友は人にして神ではない、友に満全を望むことは出来ない、友より得る所には限がある、故に友に過大の要求
をなすべきではない、此事をヨブは今学んだのである、彼は余りに友を信じ過ぎてゐた友を以て全く己と等し
きものと思ひ、友は我衷心を悉〔ことごと〕く了解しくれるならんと予期してゐた然るに此予期は裏切られて彼は大なる失望を味つた、そして初めて友の頼み難きを悟つたのである、初め彼は妻に背かれ茲〔ここ〕に又友に誤解せられた、夫婦の関係と云ひ友の関係と云ひ何〔いず〕れも是れ人と人との関係であつて、神と人との関係ではない、もし完全の妻を得また完全の夫を得て人生の幸福を計らんとならば直に失望の襲来となる外はない、人は完全なるものでない、故に全然依り頼むべきものではない、人には先天的の制限がある、能〔よ〕く此事を知つて人がその妻、その夫、その友に対して過大の要求をなさゞる時、其処に寛容と理解と平和と愛とが自由の流れ口を得て茲に幸福なる夫婦、幸福なる友人関係が生れるのである、而して此事がヨブに解り、最後に至つて彼が遂〔つい〕に神のみを惟一の真の友として持つに至つて彼は幸福と安心の絶頂に達し、我に同情足らざりし三友のためにも祈る程になり得たのである。 (第四十二章を見よ)
 
○人に満全を望みて後ち失望し而して人を怨む、これ我国人の通弊である、失望のあまり信仰より堕(お)つる者さへある、これ出発点に於て全く誤つて居たゝめである、人は頼むべからず頼むべきは父なる神と子なるキリストのみである、人に頼らず神を友としキリストを友として初めて全(まつた)いのである、かゝる状態に入りし人のみ他に対し、夫に対し、妻に対し、子に対し、友に対して正しき関係を保ち得るのである、先づ神に頼みて然る後に人に頼む、其時に人は信頼するに足る者となる
 
○ヨブは七章に於ては神に対して訴ふる処あつた、これ第三章の反覆であつて依然死を希ふ語である、しかし其
間にヨブの思想に進歩がある、三章と七章を仔細〔しさい〕に比較して見れば此事が解る、けれども容易(たやす)くは解らない、これが約百記の実験記たる証拠である、実験そのものゝ提示なるが故に、即ち人生の事実そのまゝの記載なるが故に其れに徐々たる思想の進歩が隠れて存して居るのである、勿論著者の筆の巧妙をも認めないわけには行かない、併し実験の上に立ちての文藻なる故の巧妙である、空虚の上に如何に巧なる想像の橋を架するも斯くの如くなることは出来ないのである。
 
○一節―十一節は逃れ難き人生の苦悩を深刻なる語を以て述べたものである、十二節以下は神の手の彼の上に加
はりて離れざるを厭ひ、死の早く来らん事を望みしものである、「人を如何なる者として汝〔なんじ〕これを大にし、之を心に留め、朝ごとに之を看(み)そなはし、時わかず之を試み給ふや何時〔いつ〕まで汝われに眼を離さず我が津(つ)を咽〔の〕む間も我を捨て置き給はざるや」とは彼の神に対する切々たる哀訴である、故に彼は「我を捨ておき給へ」と願ひ、又「われ生命(いのち)を厭ふ、我は永く生くることを願はず」と歎(なげ)くのである、実に是れ神を篤〔あつ〕く信ずる者の叫である、彼は大災禍に会するも毫も神の存在を疑はない、たゞ神が我を撃ち我を苦しめ我を試み我の上に監視の眼を弛(ゆる)めざるを呟(つぶや)きて神が我より離れんことを願ひ、死の早く来らんことを望むのである、これ実に信仰家の苦悩である、その哀々として吾人の心に迫り来る理由は茲にあるのである。
 
○或人言はん、かく苦悩を重ぬるよりは神を棄つるの勝れるに如(し)かずと、寔〔まこと〕に然り、神を離れ神を忘れ、神の存在を否定する時はヨブの此苦悩は薄らぎ問題の解決は容易となるのである、寔(まこと)に然(さ)うである、併し乍ら神を棄て神を否定する時人生は全然無意味となるを如何、神を棄てゝ問題の解決を計るは最捷径〔しようけい〕である、けれども是れ人生を無意味とするの結果に帰着するのである、故に人生重んずる者は斯かる解決法を計り得ないのである、是非とも神を保持して其上に立ちて問題の解決を計らねばならない、神を棄てざる時この苦難の降れる意味は如何、神の存在と罪なくして降る災禍とは両立し難き二現象である、この二つを何とかして両立せしめずしては問題の解決には達しない、茲にヨブの特殊の苦悩が存するのである、而して又そこに特殊の貴さも存するのである。
 
神を父としキリストを主とする信仰の上に立ちて人生の矛盾を解かんとす茲に我等の特別の苦心困難が存す
るのである、信仰を棄つれば問題は忽ち解ける、しかし斯くては人生は無意味となり、我は貴き生の消費者とな
り、人生の失敗者と堕(だ)するに至るのである、故に人として活きんためには是非とも信仰を保持せるまゝにて難問題の解決に当らなければならない、茲に困難があり茲に苦悶懊悩が生れる、しかし人生を愛重するものは如何なる代価を払つても信仰の上に立ちての解決を計り、神の為し給ふ所の正しきを証さなくてはならぬ、若きミルトンはJustify the ways of God to men と言ひて、神の為し給ふ所を人の前に正しと証するを以て其一生の標語となした、我等も亦〔また〕苦悶を以て信仰の上に立ちて解決を計り、新しき光明に触れ、我のため、人のため、人類のために計らねばならない、これは唯一真正なる人生苦難の解決法である、而して神は斯くの如き解決法を我等に命じ、かくの如き解決を我等より求め給ふのである、故に苦難と痛苦は我等に満全の光と幸福とを与へんとする天使である、我等は此事を忘れてはならない。
 
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