内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第 6 講神学者ビルダデ語る

第六講 神学者ビルダデ語る第八章の研究(五月三十日)
 
○第八章を研究する前に少し前講を補ふ必要がある、七章十七、八節の「人を如何〔いか〕なる者として汝〔なんじ〕これを大にし之を心に留め、朝ごとに之を看〔み〕そなはし時わかず之を試み給ふや」なるヨブの言は詩篇八篇より引用せるものと思はる、併〔しか〕し彼に於〔おい〕ては神の愛を嘆美せし語であるのに是に於ては神の眼の己より離れぬを呟(つぶや)きしものである、ヨブは何故かゝる悲声を発したのであるか、是れ神に対する呟きであるのみならず其内容たる頗〔すこぶ〕る不道理であると云はざるを得ない、故に或人は曰〔い〕ふ、ヨブの病気は癩病の一種なる象皮病(ざうひべう)にして此病は精神の異常を起しやすきもの故彼は斯〔か〕かる故なき迷想を抱くに至つたのであると、併し乍〔なが〕ら健全なる人にして神が罪の故を以て我を苦しむるとの霊的実感を味ひし人が少なくない、アウガスチンの如〔ごと〕き、バンヤンの如〔ごと〕きは其最たるものである、事は前者の『懺悔〔ざんげ〕録』及び後者の『恩寵溢〔あふ〕るゝの記』に於て明かである、彼等は罪の苦悶の故に心の平安を失ひて悲痛懊悩の極、神に向つて何故かくも我を苦むるかと呟いたのである、さればヨブの呟(つぶや)きは決して彼の病の徴候ではない、多くの真面目なる人の霊的実感として起りし事である。
 
○そして誰人と雖〔いえど〕も神に対して此呟きを抱ける間は神を離れないのである、神を棄てゝ了(しま)へば此呟きも失せる、さはれ斯くては人生の失敗者たるの否運に会するを如何〔いかん〕、人生を愛する以上神を保ち居りて難問題の解決に当らなくてはならない、故に苦難懐疑の中にありて神を保たんとの努力に歩む時その努力の一変態として神に対する呟きの起る事がある、之は善き事でない、しかし全く神を棄つるよりは呟きつゝも神を保つを優に勝れりとする、而〔しか〕して此呟きのある間は神との関係が絶えぬのである、故に再び呟きなくして神を信じ得るに至る見込があるのである。
 
○ヨブは右の如き呟きを以て其哀語を終へた、これに対して此度はシユヒ人ビルダデが語るのである、三友順次に語り之に対してヨブは一々返答する、(ヨブの語には三種ある、甲は友に直接答ふる語、乙は神に訴ふる語、丙
は己に語る語即ち独語である)、そしてヨブは友の攻撃に逢ふ毎に進歩する、されば其語る内容が一段々々光明に向つて進むのである、友に責めらるゝ毎に彼の苦痛は増す、しかし其度ごとに少しづゝ新光明に触れる、かくし
て一階又一階と進展の梯子(はしご)を踏みて遂〔つい〕に最後の大安心境に到るのである、然〔しか〕らば最初エリパズの責むる所となつた時ヨブは如何なる新光明に触れたか、それは六章七章の彼の答に於て明かなるが如く()友の頼むに足らぬことを悟り()神に対する誤想より離れ始めたのである、彼が斯く神に対して呟くのは其抱ける神観の誤謬に基(もとい)するのである、神は信仰に立ち義を行ふ者に物質的恩恵を下し然らざる者に災禍を下すと做〔な〕せし如きは明かに彼の神観の誤謬を示すものである、かく神を正解し居らざりし故呟く必要も起つたのである、神をその真性に於て信受せる者いかで呟くの必要があらうか、故に彼は神に向つて呟きつゝ其神が真の神にあらざるを学びて、次第に真ならぬ神より離れて真の神に近づくに至るのであるそして其第一歩が此時すでに彼に始まつたのである。
 
○第八章のビルダデの言〔ことば〕を調べてみやう、先づ一節―七節を見よ、茲〔ここ〕にビルダデの神学思想は遺憾なく表はれて居る、四節に於て彼は「汝の子供かれ()に罪を獲たるにや之をその愆(とが)の手に付(わた)し終〔給〕へり」と云ふた、彼はヨブの子等の死はその罪の当然の報なりと断定したのである、彼もとよりヨブの子等の罪を見たのではない、たゞ罪を犯したに相違なしと断定したのである(罪を獲たるにやと想像的の言語を用ひたのは単に用語上の礼儀たるに過ぎない)、彼は災禍(わざはひ)は必ず罪の結果であるとの神学思想を以て凡〔すべ〕ての場合を照らす神学者である、故にヨブの子等も当然或重き罪を犯して其罰を受けたものに相違ないと断定したのである、そして彼は進んで「汝もし神に求め全能者に祈り、清く且〔かつ〕正しうしてあらば必ず今汝を顧み汝の義(ただし)き家を栄えしめ給はん……」と云ふ、即ち彼はヨブも亦〔また〕罪の結果なる災禍に苦めるものとなし、死せる子は逐(おう)ふべからず少くとも生ける汝は正(せい)に帰り義を行ひ以て物質的恩恵の回復を計れと勧めるのである、無情なる浅薄なる神学者よ!
 
○十人の子を悉〔ことごと〕く失ひ身は此上なき困苦の中にある友に向つて此言をなすの如何(いか)に無情なるよ! 汝の子の死は罪の故なりと告ぐ、斯〔かか〕る言を以てして争でヨブを首肯せしむるを得よう、もし罪の故を以てせば我こそ我子等いかより先に死すべきものであると親の心は直に反駁〔はんばく〕するではないか、この人情の機微をも知らずして直〔ただち〕に我神学的断定を友の頭上に加へて得々(とく〳〵)たるところ正にその神学の純正を誇る若き神学者そのまゝと云ふべきである、彼の言は恰〔あたか〕も学舎にて学びし既成の教理を其筆記帳(ノート)を見て繰返すが如くである、これ余が彼を「神学者」と名づくる所以〔ゆえん〕である。
 
○八節―十節に於て彼は己の断定の支持者として古人を引くのである、これ亦いかにも学者らしき態度である、
今日に於て云へば「何某曰〔いわ〕く……、何某曰〔いわ〕く……」と頻〔しき〕りに大家の権威を以て自説を維持する類である。
 
○十一節―十九節は自然界の事象を三度引例して神に悖る者の必滅を主張したのである、十一節に「蘆あに泥な
もとあし
くて長びんや、葦あに水なくして育たんや」とありて、此二つの植物が水辺に生ずるものなることを示してゐる、のよし「蘆」と訳せるはパピラス(Papyrus)であつた、是れエヂプトにありてはナイル河の水辺、パレスチンにありてはメロム湖の周辺に生ずる草である、之を以て古代人は紙を製したのである、英語にて紙をペエパー(Paper)呼ぶはパピラスより出でたのである、日本訳聖書に又「荻」と訳せしは寧〔むし〕ろ葦と訳すべきもので是れ亦水辺に育つ草である、十二節に「是れその青くして未だ苅らざる時にも他の一切の草よりは早く枯る」とある旱魃〔かんばつ〕来りて水退くや此の二つの草が忽〔たちま〕ち枯るゝことを云ふたのである、この両節の如きは古代博物学の資料として値あるものである、而して十三節に「神を忘るゝ者の道は凡〔すべ〕て斯くの如く悖る者の望は空しくなる」とありて、神を忘れ道に悖る者は旱魃時の此の二つの草の如くその繁栄一朝にして消え失すとの意を述べてゐる、これ第一の引例である。
 
○次の十四節には「その恃〔たの〕む所は絶たれ、その倚(よ)る所は蜘蛛網(くものす)の如し」とありて、神を忘れて他の物に頼ることの空しきを述べてゐる、彼が営々として名誉、財産、地位等を積み重ねて之に依頼(よりたの)むは恰も蜘蛛が其網(す)を金城鉄壁として頼めるの類であると云ふのである、これ第二の引例である。
 
○十六節―十九節は神を忘るゝ者を再び或草に例へたのである、「彼れ日の前に青緑(みどり)を呈(あら)はし、その枝を園に蔓延(はびこ)らせ、その根を石堆(いしずか)にからみて石の家を眺むれども、もし其の処より取除かれなば其の処これを認めずして、我は汝を見たる事なしと言はん……」とある、これ多分一夜に育ちて忽ち頭上を蔽〔おお〕へりと云ふヨナの瓢(ひさご)の類であると思ふ、忽ちに成長して全園を蔽〔おお〕ふに至り、其の勢威人を驚かせど一度根を絶たば枯死して跡を止めない、凡て神を忘るゝ者の運命は斯くの如く其繁栄は一夜の夢の如きものであると云ふのである、これ第三の引例である。
 
○ビルダデは右の如くに説きて、ヨブ神を忘れ道に悖りしために其繁栄一朝にして失せたのであると主張したのである、故に二十節以下に於てはヨブが罪を悔い正に帰りて再び神の恩恵に浴さんことを勧めてゐるのである、
 
それ神は完〔まつた〕き人を棄て給はず……(汝もし神に帰らば)遂に哂笑をもて汝の口を充たし歓喜を汝の唇に置き給はわらひよろこびくちびる」と云ふて居る。
 
○ビルダデの説く所に多少の真理がないではない、しかし此場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である、
彼の苦言も唯〔ただ〕 ヨブより哀哭の反覆を引き出したのみに終つた、神の言であると云ふ聖書に斯く友に対する無情なる語あるを怪む人があるであらう、しかし之は此種の場合に此種の言を友に向つて発することの無効なるを記して、読者に言外の警〔いまし〕 めを与へたのである艱難にある友に向つては斯くの如く語るべからずと教へたのである、
 
同様に一夫一妻を明白に主張する聖書がアブラハムの一夫多妻を記したのは、彼の一夫多妻が彼の凡ての苦痛災禍の種となつたことを記述して、一夫多妻の害を事実的に示し、一夫一妻の利を間接に教へたのである、聖書は
文字の表面のみを読むべきものでない、その裏面に其真意の蔵せられある場合が少なくないのである。
 
○ビルダデはオルソドクス(正統教会)の若き神学者である、彼はその真理と信ずる所を場合も考へず相手の感情をも顧慮せずして頭から述べ立てたのである、恰も一の学説を主張するが如くに其論理を運ばするのみであつて、
実際問題に携はるに当つて必要なる気転(きてん)や分別(ふんべつ)は其影すら無いのである、最初にヨブの子等の死を以て罪の結果のみと一挙に論断し去る如きは相手の心を少しも察せざる無分別の言と云はねばならない、その神学思想の幼稚なるは時代の罪として已〔や〕むを得ずとするも、其信条を確定不変の金科玉条となし之を以て凡〔あら〕ゆる場合を説明し去り、之がためには相手の感情の如きは勿論何を犠牲に供するも厭〔いと〕 はぬと云ふ其心持、その態度そのものが全くの神学者のそれである。
 
○右の如きビルダデの態度及びそれと大同小異なるエリパズ、ゾパル等の態度は何〔いず〕れも排すべきである、約百〔ヨブ〕記は此事を其教訓の一として教へるのである、そして彼等三友が教理を知るも愛を知らざるは斯かる態度を生みし原因である愛ありてこそ教義も知識も生きるのである、愛ありてこそ人を救ひ得るのである、愛なき知識は無効である、此事を約百記は文字の裡〔うち〕 に暗示して居るのである、これ約百記の大文学たる徴証の一である。
 
○諸君もし約百記八章に併〔あわ〕せて哥林多〔コリント〕前書十三章を読まば思ひ半(なかば)に過ぐるものがあるであらう殊に其初めの三節に於て如何に広き知識も、如何に強き信仰も、如何に盛なる行為も愛を含まざる時は全く空であると説けるは恰もビルダデを責むるが如くではないか、彼に種々の長処があつたかも知れぬ、しかし其説く所が明かに示す如く彼は神の愛を能〔よ〕く知らず、又事実が示す如く友に対して真の愛を抱き得なかつた、是れ彼の凡ての長処もヨブを慰むるに於て全く無効であつた理由である。
○まことに愛なくば凡てが空である、愛はキリストの福音の真髄である、再臨の信仰と雖も之を既定教理の一となし之に照して人を審判(さば)くが如きは謂〔いわ〕ゆるオルソドクシーにて余の採らざる所である、これ真理の濫用又は誤用であつてビルダデの流を汲める者である、再臨は神の愛を最も能〔よ〕く示すものである故に之を信ずと云ふが健全なる信じ方である、聖潔(きよめ)の真理と雖も亦同様である、神の愛を第一前提として其上に立ちし教理にして初めて値あるのである、又伝道も人を愛するがための伝道たるに至つて初めて真の伝道となるのである、此愛を根柢とせざる時徒〔いたず〕 らに純福音と誇称するも無効である、無効であるのみならず大なる害を伴ふのである、然るに愛を心に置かずしてたゞ教理のために教理を説く者が世に甚だ多い、是れ教理のためには何者を犠牲とするも厭はぬ心を
生み易きものであつて、愛の反対なる憎を喚び起し、無数の害悪を生むに至るのである、如何なる教理を説き如何なる伝道に従ふもそれが愛の動機より出でしものでなくてはならぬ、余の此の小なる伝道の如きも亦父の愛を
示さんため、又人の魂を愛するがためでなくてはならぬ、諸君の此処〔ここ〕に参集し来るも亦父の愛を尚〔な〕 ほ深く知らんため、そして人に対する我愛を増さんがためでなくてはならぬ、然らずしては此集りを幾度なすも無効である、  げに愛の不足を描く約百記八章は愛の必要を我等に教へてやまぬのである。
 
○愛である、然り愛である、愛ありての神学である、愛ありての教会である、愛ありての伝道である、愛なくして如何なる知識も、如何なる熱心も害ありて益なき者である、然るに嗚呼〔ああ〕 、ビルダデ流の神学何ぞ多き、憤慨に 堪へない。〔以上、7・9〕
 
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