内村鑑三  ヨブ記の研究-2 第10講 再生の欲求

第十講 再生の欲求  約百記第十四章の研究(六月二十七日)
 
○第十二章より第十四章にわたるヨブの言〔ことば〕の中第十二章は前回に学びたれば、今回は第十三章について一言せしのち第十四章に就いて専〔もつぱ〕ら学び度いのである。
 
○十三章に於〔おい〕てはヨブはゾパル等に対して逆襲的態度に出づるのである、「汝等が知る所は我も之を知る、我は汝等に劣らず、然〔しか〕りと雖〔いえど〕も我は全能者に物言はん、我は神と論ぜんことを望む、汝等はたゞ勦言(いつわり)を造り設くる者、汝等は皆無用の医師なり、願くは汝等全く黙せよ、然するは汝等の智慧なるべし」と云ふ如〔ごと〕きは明かにヨブの此態度を示すものである、尚〔な〕ほ十三章の中にて大切なる句は十五節である、邦訳聖書には「彼れ我を殺すとも我は彼に依頼まん、たゞ我は我道を彼の前に明かにせんとす」とある、此語の前半は寔〔まこと〕に美〔うる〕はしき心情を示した語よりたのとして有名であるが実はそれは誤訳である、「彼れ我を殺すとも我は彼を待ち望まず」と改訳すべきである、かくて十五節の意味は「我は飽くまで我無罪を神に訴へん、そのため彼に殺さるゝに至るも敢〔あえ〕て厭〔いと〕はず」と云ふに在る、彼は勇気を揮ひ起して此強き語を発してみた、しかし神よりは何等の反響がなく友は皆かれを誤解してゐる、そして己の中には此勇気を持続せしむるだけの力がない、一度起せし勇気は忽〔たちま〕ち消滅せざるを得ない、恰〔あたか〕も重病人が卒然として敵の其前に立つに会し、憤然として一旦起ち上りしも自己自身に力なきため直〔ただち〕に倒るゝが如くである、第十四章以後のヨブの語には慥〔たし〕かに此心持が見えて居るのである。
 
十四章は約百〔ヨブ〕記中最も重要なる章の一である神と争はんとして己の無力を悟りしヨブの悲歎は壮大なる悲哀美となつて此章に表はれて居る、彼は自然界の諸々(もろ〳〵)の物象に比して人間の果無(はかな)さを描き出づるのである、茲〔ここ〕にも、亦〔また〕約百記作者の優秀豊富なる天然観察者なることを知るのである。
 
○「女の産(う)む人は其日少なくして艱難(なやみ)多し」と一節は曰(い)ふ、人は誰人と雖も女より生れしものであれば女の産む人と殊更に言ふ必要はないとも云へる、しかし此語には深き意味がある、女は体も心も弱きものである、故に「女の産む人」と記して万人の弱き事が暗示せられたのである、実に女の産む人は其日少なくして艱難(なやみ)多しである、クロムヱルの如きナポレオンの如き人類中の最強者と雖も実は弱き女の産みし弱き人の子たるに過ぎない、彼等の生涯は明かに此事を示してゐる、げに人は皆弱き者である、此事を知らずしては我等は真の同情を人に向つて起すことは出来ない。
 
○二節には「その来ること花の如くにして散り、その馳(は)すること影の如くにして止まらず」とある、此節の後半は人の生涯を風強き日に砂原を走る雲の影にたとへたものである、是れ亦約百記の舞台を示す語である、四節の「誰か清き物を汚れたる物の中より出し得る者あらん」は女より生れし人の到底清くあり得ぬを説いたのである、かくヨブは人間の弱く果無(はかな)く汚れ居る事を説きし後「その日既に定まり、其月の数汝により、汝これが区域(さかひ)を立てゝ越えざらしめ給ふなれば、之に目を離して安息(やすみ)を得させ、之をして傭人(やとひびと)の其日を楽しむが如くならしめ給へ」と訴へてゐる、彼は絶望中の僅〔わずか〕の安息を希〔ねが〕つたのである、その心情や洵〔まこと〕に同情すべきである。
○次に見るべきは七節―十二節である、「それ木には望あり、たとひ砍(き)らるゝとも復〔ま〕た芽を出して其枝絶えず、たとひ其根地の中に老い幹(みき) 土(つち)に枯(か)るゝとも水の香にあへば即ち芽をふき枝を出して若樹(わかき)に異ならず」と羨〔うらや〕み、それに比して「されど人は死ぬれば消失(きえう)す、人、気絶えなば安(いずく)に在(あ)らんや」と歎くのである、げに木には望あり、そは復活し又復活す、砍(き)らるゝとも復た芽を出し枝をひろげる、桑の如き櫟(くぬぎ)の如き態(わざ)と砍(き)りてその生命を永久に新鮮ならしむる者さへある、パレスチナに於ても橄欖〔かんらん〕の如きは斯〔か〕くして之を老衰より少壮によび戻し得るのである、樹には復活あり人には復活なし―是れヨブの悲歎であつた。
 
○植物に再生あるに比して人に之なきを歎き或〔あるい〕は之あるを望む、これ印度〔インド〕、スカンデナビヤ等の各国の古文学に共通せる思想である、ヨブ亦植物に再生ありて人に之なきを歎く、しかも此悲歎(なげき)たる実はこれ復活再生の希望の初現とも云ふべきものである、この悲歎の裏面に此希望が起りつゝあつたのである、抑〔そもそ〕も植物は人間以下のものである、然るに神は之をしも再生せしむ、況(ま)して神の心を籠(こ)めての所作なる人に於ておや……とは当然此の悲歎(なげき)と形影相伴ひて起るべき推定である、根(ね)地の中に老い幹(みき)土に枯(か)るゝ樹木も水の香にあへば忽ち若樹(わかぎ)として再生するが如く、人は其体地の中に枯れ其魂(たましい)土に帰するも一度神の霊の香に会はんか忽(たちまち)ち復生し再び若くして地の上に立つに至るであらう……と黒雲の中に光明(ひかり)は隠見するのである。
 
○第十一、第十二節も同じく悲歎である、「水は海に竭(つ)き、河は涸(か)れて乾(かわ)く」とは砂漠地にて常に目撃する現象である(海とは真の海ではない、池の如く凡〔すべ〕て水の溜(たま)れる処を云ふのである)、「かくの如く人も寝ね臥してまた起きず、天の尽くるまで目覚めず睡眠(ねむり)を醒(さ)まさゞるなり」とは死後陰府(よみ)に於ける生活を描(えが)いたもので、陰府(よみ)の生活は忘却睡眠を特徴とすと猶太〔ユダヤ〕人は考へてゐたのである、「天の尽くるまで」は永久にの意である、天は永久に尽きずとの思想より出でた句である。
 
○次は十三節―十七節である、「願くは汝我を陰府(よみ)に蔵(かく)し、汝の震怒(いかり)の息(や)むまで我を掩(おほ)ひ、我がために期(とき)を定め、而〔しか〕して我を念(おも)ひ給へ」(十三)とは再生の欲求の発表である、ヨブは今神の怒に会へりと信じてゐる、故に世を去りて陰府(よみ)に降(くだ)らば神が彼を其処(そこ)に保護してその怒(いかり)息(や)みし後に於て彼を再生せしめんことを欲(ねが)つたのである。次の十四節の前半は挿入句である、「人もし死なばまた生きんや」は人死ぬも再生すべきかとの問題の提出である、此時ヨブは直〔ただ〕ちに「然り再生す」とは答へ得なかつた、彼は此大問題を提出したまゝに放置して十四節後半より直ちにまた前節の欲求に帰つて了(しま)つた、恰も天よりの閃光〔せんこう〕のごとく此問題は突如として彼に起り又突如として彼を去つた、それは恰も雲の切れ目より一瞬間日光が照りしが如くであつた、そして之に対しての「然り」といふ答は約百記の最後に至つて現はれるのである、洵〔まこと〕に文学として絶妙である、そして是れ亦実験の上の作たるを証(あかし)するものである。
 
○十四節後半―十七節は少しく改訳せねばならぬ、即ち「我は我(わが)征戦(いくさ)の諸日の間望み居りて我変更(かわり)の来るを待たん、汝我を呼び給はん而して我れ答へん、汝必ず汝の手の業(わざ)を顧み給はん、其時汝は我の歩みを数へ給はん、我罪を汝うかゞひ給はざるべし、わが愆(とが)は凡て嚢(ふくろ)の中に封ぜられ汝わが罪を縫ひこめ給はん」と訳すべきである、言ふ所もとより漠然たるを免れない、さり乍〔なが〕ら復活の欲求に於て甚だ大なるものがあり且〔かつ〕何等かの形に於て再生のあるべき事の予感が見えるのである、未来の或時に彼の上に或変動来り、神と彼と相呼ぶに至り、神彼の業を顧み歩みを数へて彼を愛護し、神彼の罪を窺〔うかが〕はず、愆(とが)と罪を抑へて外に出でざらしむと云ふのである、想の大、言の美まことに三歎すべきである、是れキリスト以前に生れし摯実〔しじつ〕なる心霊の来世探究史として見逃すべからざる箇処〔かしよ〕である。
 
○ヨブは再生の欲求に於て盛なれどそれは未だ再生の希望となつたとは云へない、欲求と希望とは大に異なる、
甲はたゞの願ひ乙は我確実なる未来の事の望である、欲求には正しきあり悪しきあり、来世の欲求の如きは正且〔かつ〕善なる者である、必しも自己のためにのみ来世を望むにあらず、神の義の完全なる顕照(けんしやう)を熱望する時自己を離れて人に深刻痛切なる来世希求が起るのである、而して此欲求の充たさるゝ事が確実となるとき其欲求は進で希望となつたのである、来世の欲求の上に神の約束加はりキリスト復活の信仰重なりて茲に来世の希望となるのである、欲求は漠然にして不正確、希望は確乎として正確である、恰も男女間の思慕が初め欲求たる間は不慥(ふたしか)なれど、後進みて婚約成立となりて初めて希望と化して確実になるが如くである。、、
 
○ヨブの此欲求は人類全体の欲求である、人には誰人にも来世の欲求がある、神はキリストを通して永生の下賜を約束し給ひしのみならず、其キリストを復活せしめ給ふて以て彼に従ふ者に確実なる永生の希望を与へ給ふた
のである、かくて来世の欲求は希望と化したのである、そしてキリストの十字架あるが故に我等の愆(とが)は凡て嚢〔ふくろ〕の中に封ぜられ罪は縫ひ込めらるゝのである、かくの如くにして此処〔ここ〕にヨブの願ひし処は遂〔つい〕に或時実現せらるゝのである、実に感謝すべき事ではないか。
 
○然るに十八節以後に於てはヨブに起りし光明の一閃は消えて再び哀哭(あいこく)に入るのである、「それ山も倒れて終に崩(くづ)れ巌(いわ)も移りて其処を離る、水は石を突〔うが〕ち浪は地の塵を押流す、汝は人の望を絶ち給ふ」とヨブは依然として豊富なる自然観察の知識を借りて人間の運命を歎くのである、自然界の変動が目に見えざる如くにして而も徐々として行はるゝが如く人の生命も亦徐々として絶たるゝと云ふのである、「汝は彼を永く攻めなやまして去り往かしめ、彼の面容(かほかたち)を変わらせて逐(お)ひやり給ふ、その子貴くなるも彼は之を知らず、卑賎(いやし)くなるも亦これを暁(さと)らざるなり、たゞ己(おのれ)みづから其心に痛苦を覚え己みづから其心に哀(なげ)くのみ」と云ふ、是れ死者は陰府にありて此世の成行を感知し得ず、半醒半眠の中に唯〔ただ〕自己の痛苦否運を感ずるのみとの時代信念を背景として読むべき箇処である、げに痛切悲愁なる魂の呻(うめ)きである。
 
○今十四章を全体として視るに光明既に臨めりと云ふことは出来ない、全体を蔽ふものは依然たる暗雲である、
而し黒雲を透して電光が閃〔ひらめ〕くが如くに光明は一度又二度隠見するのである、かくて最後に黒雲悉〔ことごと〕く晴れて全天全地光明を以て輝く時が予想せらるゝのである、凡て信仰進歩の順序はこれである、初より全光明を一時に望むべきものではない、まづ懐疑の暗雲に閉ぢこめられて天地晦冥〔かいめい〕の間に時々光明の閃光に接し、その光明次第に増すと反比例して暗雲徐々として去り、遂に全光明に接するに至るのである、此順序を逐ふて過(あやま)たざるは約百記の実験記たる証拠である、そして我が信仰の性質の漸次的進歩にある事を知るは自己のために必要であり、又人に向つて福音を説くに当つて必要である、かの一夜にして人を光明に入れんとする如き伝道法は此心理的事実を無視するものであると言はざるを得ない。
 
○来世的光明の徐々として彼に臨みしは何に因るか、是れ彼に降りたる禍〔わざわい〕、禍のための痛苦、痛苦の極の絶望に因るのである、「来世の希望は那落(ならく)の縁(ふち)に咲く花なり」との語がある、大苦難、大絶望、恰も死に瀕〔ひん〕する如きを心に味ふ時そこに咲く花は来世の希望である、我愛する者の死に会して之を独り彼世に送る、そして自身の心また死の如き寂寥〔せきりよう〕悲愁に会して那落の淵に臨めるが如くである、然るに見よ其時脚下に咲ける美花は来世の欲求であり、進では又来世の希望である、これを摘み来つて我心に植え我に永遠の希望の抜き難きもの生れて、再会の望を以て我残生を霑(うるお)すに至るのである、患難は人生最上の恵みである。
 
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