内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第 9 講 神智の探索

第九講 神智の探索  約百記十一章、十二章の研究(六月廿日)
 
○我等の研究は次第に進みて今やヨブの獲たる最大真理に近よらんとして居るのである、此際特に約百〔ヨブ〕記研究全体について一言の注意をし度い、抑(そもそ)も約百記了解の困難なる理由の一はそれが余りに多くの真理を含んで居るに在る、一見平凡なるが如〔ごと〕き辞句が或重き真理を暗示し居る場合が甚だ多いのである故、それを見落さぬためには細心の注意を要するのである、約百記に限らず聖書全体に亘〔わた〕りて、その記者たちの語法が我等のそれと根本的に相違せるは忘るべからざる事である、我等は順序を整へ論理を辿〔たど〕りて組織的に結論に導き、彼等は前後の関係を顧慮せずして続々として真理を提示する、恰〔あたか〕も宝の匡(はこ)を開きて手当り次第に宝石を取り出すが如くである、これ余りに多く真理に充てるがためである、さり乍〔なが〕ら本講演はむしろ大体の経過を本流に於て探るを目的とし、支流又は分流に探究の舟を乗り入るゝ場合は甚だ少ないのである。
 
○エリパズは初め実験に徴して「神は善なり」と説き、次にビルダデは所伝(つたへ)によりて「神は義なり」と主張す、そして孰〔いず〕れもヨブの撃退する所となつた、茲〔ここ〕に於〔おい〕てか最年少のゾパル現はれ天然学上より「神智測り難きこと」を述べる、これ第十一章である、然〔しか〕るに前述せし通りヨブは信仰に於て知識に於て遥かに三友を凌駕せる故ゾパルの振廻す天然知識位にて怯(ひる)むべき筈〔はず〕がない直〔ただ〕ちにその豊富なる知識の庫を開いて逆襲的にゾパルに答へるのである、これを載するは十二章である、そして彼の語は尚〔な〕ほ続いて十三、四章となり、かくてヨブ対三友人の第一回問答は決了するのである。
 
○まづ十一章に於てゾパルの語を見よ、一節―三節は彼の言(ものい)はざるを得ざる理由を述べたものであつて、ヨブの言説に対して起したる青年ゾパルの憤りはさながら見るが如くである、而〔しか〕して四節より本論に入りて云ふ「汝〔なんじ〕は言ふ、我教は正し、我は汝の目の前に潔(きよ)しと、願くは神言(ことば)を出し、汝に向ひて口を開き、智慧の秘密を汝に示してその知識の相倍するを顕(あら)はし給はんことを、然らば汝知らん神は汝の罪よりも軽く汝を処置し給ふことを」と、然り〔しか〕ヨブが自ら正を以て居りて罪なしとせるは過つてゐる、併しゾパルは言ふのである「神もし其智慧の大なるを示し給へばヨブは己の智慧の足らざるを知り、且〔かつ〕己に降りし禍〔わざわい〕はその犯せし罪の報(むくい)以下なることを知るに至るであらう」と、即〔すなわ〕ちゾパルはヨブを以て大罪を犯せるものと見做〔みな〕し、受けし災禍の如きは罰として頗〔すこぶ〕る寛大なものであると主張したのである、友を責める言〔ことば〕として峻烈を超えて寧〔むし〕ろ残酷と言ふべきである、ヨブを大罪人と見做し彼の災禍を以て罪の当然の報と見る点に於て、ゾパルは他の二人と全く同一の誤想に陥つて居たのである。
 
○七節―十二節に於てはゾパルは全能者の測り難き深智を歌つてゐる、「その高きことは天の如し、汝なにを為し得んや、その深きことは陰府(よみ)の如し、汝なにを知り得んや、その量は地よりも長く海よりも闊(ひろ)し」と、彼は神の大智を讃(たた)へつゝヨブの誇(ほこり)を責めてゐるのである、又「彼れもし行きめぐりて人を執(とら)へて召集(めしあつ)め(即ち裁判官が巡回して犯罪人を捕へ集めて裁判する如くし)給ふ時は誰か能く之を阻(はば)まんや、彼は偽る人を善く知り給ふ、又悪事は顧ることなくして見知り給ふなり」と言ふ、これ亦〔また〕神を讃美しつゝヨブを罪人とし偽る人とし悪事を犯せる者として批難した語である、「虚(むな)しき人は悟性(さとり)なし、その生るゝよりして野驢馬(のろば)の駒(こま)の如し」と云ふが如き余りに不当なる悪口と云ふべきである。
 
○かくヨブの禍を罪の報と定む、故に当然十三節以下の忠言となるのである、「手に罪のあらんには之を遠く去れ、悪を汝の幕屋に留むる勿〔なか〕れ、さすれば汝顔をあげて玷(きず)なかるべく、堅く立ちて懼〔おそ〕るゝ事なかるべし、即ち汝憂愁(うれへ)を忘れん……汝の生き存(ながら)ふ日は真昼(まひる)よりも輝かん……汝は何にも恐れさせらるゝ事なくして伏し休まん……」と、即ち罪を去れ 然せば幸福臨まんと云ふのである、最年少なるゾパルも亦依然として時代の神学思想に囚はれてゐたのである。
○二十節は改訳して「されど悪しき者は目くらみ遁れ処を失はん、その望は死なり」とすべきである、悪しき者
は来世の生活を厭〔いと〕ふ、これ罪の罰を懼るゝからである、故に悪しき者の望は死(絶滅)であると云ふのである、此語はヨブが頻〔しき〕りに死を希(こひねが)ふ心を表はし居たるに因して発したものである、ゾパルはヨブを罪人となし愚者となし又悪しき者となすのである。
 
○此のゾパルの語に対するヨブの答は十二章に載せられてゐる、彼は若き友がその抱ける知識と思想とに照らし
て無遠慮に彼を批難するに会して、憤激の情は一転化して冷き笑となり、皮肉の言葉を並べて相手を翻弄せんと
するのである、彼は未熟なる知識を糧とせる乳臭児の襲撃を受けて、知識の事ならば我れいかで汝に譲らんやと
かてて、暫〔しば〕し病苦と悲境とを忘れて嘲弄〔ちようろう〕的逆襲に出たのである、劈頭〔へきとう〕の「汝等のみまことに人なり、智慧は汝等と共に死なん」とある語を初とし以下凡〔すべ〕てに此冷笑的気分が漲〔みなぎ〕つてゐるのである。
 
○「誰か汝等の言ひし如き事を知らざらんや」とヨブは言ふ、ゾパルは新知識の所有者を以て自〔みずか〕ら任じ新説の提唱をなすが如く思ひて意気揚々として舌を揮ふ、之に対してヨブは右の如く答へるのである、今日新説と称し革命的思想と唱へて得々として或は之を口にし或〔あるい〕は之を筆にす併しヨブの此答を借りて我等は「誰か汝等の言ひし如き事を知らざらんや」と言はんとする、畢竟〔ひつきよう〕かの新説と称するもの概〔おおむね〕旧説の焼き直したるに過ぎない、その内容とその精神に於て何等の相違あるに非ず唯〔ただ〕外衣と装飾とを異にせるのみである。
 
○六節は之を改めて「掠奪(かすめうば)ふ者の天幕は栄え、神を怒らする者は安泰(やすらか)なり、彼等は己の手に神を携ふ」とすべきである、これ即ち悪人の繁栄と安泰を世に通有のこととして述べたのである、げに「彼等は己の手に神を携ふ」るのである、彼等は自己の抱く思想、自己の信ずる教義、自己の選ぶ行動、悉〔ことごと〕く真正妥当にして最も能〔よ〕く真理に適〔かな〕へる者と做〔な〕す、彼等は自己中心の徒である、自己の凡てが神に適ひ、神は凡てに於て己の味方であるとなす、即ち彼等は己を悉く棄てゝ神に随はんとするに非ず、己を悉く立てゝ神をしてそれに随はしめんとす、否〔いな〕神がそれに随ひ居るとなすのである、これ最大の自己中心である、実は最も「神を怒ら」するものである、彼等の類は世に甚だ多く而して富み栄え且安らかであるそれに比して義(ただ)しき者の悲境に沈淪〔ちんりん〕せるは何の故ぞとヨブは疑ふのである
 
○七節―十節は言ふ「今請ふ獣に問へ、さらば汝に教へん、天空(そら)の鳥に問へ、さらば汝に語らん、地に言へ、さらば汝に教へん、海の魚も亦汝に述ぶべし、誰かこの一切(すべて)のものに依りてヱホバの手の之を作りしなるを知らざらんや、一切(すべて)の生物(いきもの)の生気(いのち)及び一切の人の霊魂(たましい)共に彼の手の中にあり」と、天地万有を通して造化の神を認むる心を言ひ表はしたものである、ヨブは精密周到なる天然観察によりて天然を通して神の心を学んだのである、野の獣、空の鳥、海の魚、地上のもろ〱の植物、いづれも彼に神を示した、彼が各地に旅行して自然科学上の豊富なる知識を貯へたる人なることは三十章以後に於て明かである、実に彼は健全なる路を経て大なる神を学びつつあつた人である。
 
○今日基督信徒が自然研究を遺却して徒〔いたず〕らに新著新説に走り、変り易き理論を以て自己を養はんとするは愚の骨頂(こつちょう)である、雀の雌雄を知らず不如帰(ほととぎす)の無慈悲を悟らずして新しき神学説を喋々〔ちようちよう〕するも何の効ぞ、魚類の如き凡て面白く鰻〔うなぎ〕の如き最も不可解なる生物である、心を潜めて一小天然物を観よ、そこに神を知ること深きを加ふるではないか、凡ての天然物は我等に神の測り難き穎智〔えいち〕を教ふ、故に天然研究は神を信ずる者の娯楽であり又責務である、ヨブの如きは熱心なる天然研究に依りて信仰の養成をなしつゝあつたのである、勿論この研究のみにて人は救はれるのではない、しかし是れ救の基礎とし準備として役立つことは疑ない、神の著はせし書物に二つある、甲は聖書、乙は自然界(全宇宙)である、両者を知りて初て神を知るに於て全〔まつた〕い、自然研究の効大なりと云はねばならない、之を軽んずる時は造化の神を能く知ることは出来ない、神の探究と称して徒らに脳中に思索を繰返すは労して効なき業である、むしろ神の作物について直接に神を学ぶべきである、神の作物たる聖書と天然、この二を学びて初めて神を知り得又益〔ますま〕す深く彼を知り得るのである。
 
○十一節―二十五節は七節―十節と其精神を等しくする、彼は天然物を通して神の全智全能を学び、是は此世に
臨む神の支配を通してその測り難き智と抗し難き能力(ちから)とを知るを述べてゐる「智慧と権能(ちから)とは神にあり、智謀と穎悟(さとり)も彼に属す」る事を此世の各方面にわたりて実証してゐる、辞句の意味は説明せずして明かである。
 
○十一章と十二章を通ずる問題は神智の探索である、それについて記さるゝ凡てが貴き真理の提示たるは明瞭で
ある、天然を通し人事に徴して神智神能の絶大を知るほか尚ほ一事を知らずしては、我等の神に関する知識、又
救に関する知識は不充分である、尚ほ一事とは即ち罪の自覚である、ヨブが己を以て正しとなすは大なる過誤で
ある、この誇り彼にありて彼は未だ救はれず彼の知識は不具である、彼れ我罪の自覚に達し(勿論友の想像せる如
き有形的罪悪の意にあらず)神の前に己を卑(ひく)うするに至つて彼の救は成立し、彼の知識は全きに至るのである、それまでは暗中の彷徨である、しかし光明に向つての暗中の彷徨である。
 
○天然を以て神の権力(ちから)を知る事が出来る、歴史を以て彼の智慧(ちえ)を量(はか)る事が出来る、或る程度までは人智を以て「神の深き事を窮〔きわ〕め、全能者を全く窮〔きわ〕むる事が」出来る(十二〔一一〕章七節)、然し乍ら神の心に至ては天然も歴史も我等に教ふる所がない、神の心に関する知識に至ては我等は全然神の啓示に待たなければならない、神は其独子(ひとりご)を賜ふ程に世の人を愛し給へりと云ふ事は人間の智慧を以てしては到底解らない、天然研究貴しと雖〔いえど〕も神の如何〔いか〕なる者なる乎〔か〕は之に由ては解(わか)らない、而して神の智慧を知悉(しりつく)した所で神の心が解らずして神に関する最も大切なる
事は解(わか)らない、ヨブと彼の友人とは今日まで神の智慧に就て大に学び且つ知る所があつた、而して今や神より直に神の何たる乎、其神心(かみごころ)の何たる乎を教へられつゝあるのである、最も貴きは此の知識である
 
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