内村鑑三 ヨブ記の研究-2 第 8 講 ヨブ愛の神に訴ふ

第八講 ヨブ愛の神に訴ふ 約百記第十章の研究(六月十三日)
 
○九章前半は友に対する語、後半は自己に対する語である、そして沈黙暫時の後ヨブは第十章の語を発して神に訴ふる処あつたのである、前述せし如〔ごと〕く九章前半の彼の語は友の神観の不備を指摘したものである、彼は友の提唱する所の神学の神、教会の神に反抗したのである、そして別に真(まこと)の神を発見せんとする努力に入つたのである第十章は即ち此努力の発端を示したものと云ふべきである、抑〔そもそ〕も時代の神学思想に反抗して、別に我魂の飢渇を医〔い〕やすに足るべき神を見出さんとする苦闘は必しもヨブに限らない他にも類例が多いのである、凡〔およ〕そ深刻摯実(しんこくしじつ)なる魂の所有者は皆さうであつた、故に十章に於けるヨブと九章前半に於ける彼とは全然その心の姿を異にしてゐる、十章に入りても彼の説く所は依然として旧き神ながら而〔しか〕も其中に新しき神観が発芽してゐるのである。
 
○ヨブは先づ「わが心 生命(いのち)を厭〔いと〕ふ、されば我れ我憂〔うれい〕を包まず言ひ表はし、わが魂の苦きによりて語(ものい)はんとの発語を述べて後ち痛刻なる語を以て神と争はんとするのである、二節―七節は何故われを苦むるかと神に向つて不平を並べし箇処〔かしよ〕である、「われ神に申さん、我を罪ありとし給ふ勿〔なか〕れ、何故に我と争ふかを我に示し給へ」と云ひ、「何とて汝わが愆(とが)を尋ね我罪を調べ給ふや」と云ふ(二節及び六節) 、彼は神に苦めらるゝが如く感じつゝあつたのである、実に彼は神が己を拷問(ごうもん)にかけて居ると思つたのである、即ち神は予〔あらかじ〕め彼を罪ありと定め而して拷問を以て彼を苦めて彼に罪を自白せしめんとして居ると思つたのである。
 
○凡そ拷問なるものゝ起る理由が二つある、罪ありと推定せらるゝも罪の自白に接せずしては不正確なる故罪人を糾弾〔きゆうだん〕し以て其罪を自白せしめんとするが第一の理由である、人命は明日を期し難きもの故早く罪を定めんとするが第二の理由である、これ人が人を審判(さば)くに当つて拷問(がうもん)の起る理由である、甲の理由は人間知力の有限であつて、乙の理由は人間生命の有限である、故に拷問は有限てふ壁に取囲まるゝ不完全なる人の間の関係の上に生起する事象である、されば無限を以て特徴とする神―無限の知力と生命とを有する神―に於〔おい〕ては何等人を拷問にかける必要がないのである、然〔しか〕るに今神が我を拷問にかけて苦めつゝあるは何故であるかとヨブは神に向つて迫るのである、四節に「汝は肉眼をもち給ふや、汝の観給ふ所は人の観るが如くなるや」と云ふは神の知力は人のそれの如く有限なるかとの問であつて、「否〔いな〕然らず神の知力は無限なり、故に拷問を用ひずして人に罪あるか無きかを知る、然るに我れにのみ拷問を用ふるは何故ぞ」と詰(なじ)つたのである、五節の「汝の日は人間の日の如く、汝の年は人の日の如くなるや」は神の生命が人のそれの如く有限なりやとの問であつて「否然らず無限なり、さらば何ぞ人を拷問にかける要あらんや」との詰問を含む語である、即ち人と人との間に拷問の起り得る二つの理由は神と人との間に於ては全然消滅するとヨブは主張するのである、然るに此の理由なき拷問を神が我に向つて加ふるは全く不可解である、「汝は既に我の罪なきを知り給ふ」然るに何の故のこの拷問ぞとヨブは神を責め且〔かつ〕怨〔うら〕んだのである。
 
○次には八節―十二節を一段として読むべきである、「汝の手われを営み我を悉〔ことごと〕く作れり、然るに汝今われを滅(ほろぼ)し給ふなり」と八節は云ひ、九節は八節の反覆と云ふべく、又十節―十二節は「汝は我を乳の如く斟(そそぎ)ぎ牛酪(うらく)の如くに固め給ひしに非ずや、汝は皮と肉とを我に着せ骨と筋(すぢ)とをもて我を編(あ)み、生命(いのち)と恩恵(めぐみ)とを我に授け我を顧みて我息(いき)を守り給へり」と云ふ、乳の如く斟(そそぎ)ぎ牛酪(うらく)の如くに固め云々とあるは「乳産製造業」の盛なる地方にて初めて云はるゝ形容語であるアラビヤ人、韃靼(だつたん)等牧畜業の盛なる地方に於ては獣乳が主要なる食物であるため之を種々の物に製するのである、神が人を造るに乳の如く斟ぎ牛酪の如く固め皮と肉とを着せ骨と筋とをもて編むと云ふは胎内に於ける発生を語つたもので、当時の発生学(Embryology)の知識を示すものである、勿論幼稚不充分ながら九章の天文学と相対して茲に古代生理学の一端が見ゆるのである、実に神は斯〔か〕く人を母の胎内に造りしのみならず、之に生命と恩恵とを授け、之を顧みて、恰〔あたか〕も母が其子の寝息(ねいき)を守るが如くに人の息(いき)を守るのである、かほど迄に神は努力と苦心と愛とを以て人を造り、育(そだ)て、養ひ、守るのである、ヨブ自身は斯くの如くに造られ又育てられたのである、然るに神の所作にして愛養物なる我を何故に彼は斯〔かく〕まで苦め且滅(ほろぼ)さんとするのであるかと、ヨブは依然として神に向つて肉迫するのである。
 
○九章に於て神の宇宙創造及び支配を述べて高遠なる想像を筆に上(のぼ)せたるヨブは、茲(ここ)に繊細微妙(せんさいびみょう)なる造化の一面にその豊かなる描写力を向けたのである、心憎きまでに美〔うる〕はしき筆なる哉〔かな〕! 想像の翼を張つて天の高きに達し又地の深きを穿〔うが〕つ、高遠と細微と伴ひ荘大と優美と並立す、まことに得難き筆、古今独歩の大文学と云ふべきである。
 
○人間発生の叙述としては十、十一節の不正確なるは云ふまでもない、文字直接の意味に於ては勿論近世科学の
承認を得ることは出来ない、併〔しか〕し乍〔なが〕ら言ふ所の精神に至つては近世科学と雖〔いえど〕も敢〔あえ〕て抗議を提出し得ないのである、宇宙万物を神の所作(しよさく)と見る時一個の人を獲るまでの其準備、其努力果して如何〔いかん〕、神なる思想を外より入るるは科学の拒む所なる故姑(しばら)く科学者の筆法を用ひて「天然」なる文字を用ふるも事は同一である、即ち今日の科学に基き宇宙万物の進化生成を認め其上に立ちて進化の永き歴史を想へ、漠々たる大虚の中に散乱せる物質は一団又一団相集合して遂に無数の天体を形造るに至り、我太陽生れそれに附随する数百の遊星現はれ、初め火と熱せる地球も漸次冷却して漸〔ようや〕く生物の育ち得るに至つた、それまでには無限に等しき永き年を経過したであらう、地球生成以後人類が之に住み得るに至りし迄には三億五千万年乃至〔ないし〕七億万年を経過せしと科学者は算す、その間の変遷は如何〔どう〕であつたか想像にもあまる事である、そして単細胞生物の発生より進化又進化の幾億万年を経て、一重又一階の過程に整然たる秩序の道を一歩づつ踏み上りて遂に人類の発生となつたのである、それまでの「天然」の努力奮闘は実に想像に余る絶大なるものであつた、そして神を信ずる者に於ては神の此凡〔すべ〕ての努力、此凡ての準備、此凡ての時が人類生成のために費されたるを知る時は、勿論その人類と云ふ観念の中に己をも加へざるを得ないのである、即ち父が我一人のために之だけの準備と労苦を為し給ひしことを認めざるを得ないのである。
 
○然るに世人の人を見るは之と異つてゐる、政治家はたゞ民を民衆てふ一団として見、経済学者は数を以てのみ人を見、軍人は恰も将棋〔しようぎ〕の駒を動かすが如き考を以て部下の兵に臨むのである、かく個人の認められざる社会にありては我等も亦〔また〕人を軽んじ又〔また〕自〔みずか〕ら軽んぜんとする、然るに一度ヨブの見る処を以てせんか、人一人が神の絶大なる努力の結果として現はれたるものにして一人は大宇宙全体と匹敵〔ひつてき〕するのである、而して是れ単にヨブ一人の思想に止まらず又約百〔ヨブ〕記一書の主張に止まらずして実に聖書全体の教ふる処である。
 
神の心をこめての所作なる人を何故神は苦むるかとヨブは神に迫つたのである、そして我等キリストの救に浴して永遠の生命を信ずる者はヨブの此詰問に対しては永生の真理を以て之に答ふるを最上の途〔みち〕とする、即ち「神はその所作にかかる忠誠なる魂を決して棄てず、たとへ一時彼を苦しむることあるも、而して彼の生命断たるることあるも、神は復活の恵を以て彼を起し永遠の生命を彼に与へて彼をして最後の且永久の勝利を獲しむ」と答へるのである、そして之に関してはキリストの復活、その永生賦与〔ふよ〕の約束等確実なる証拠を提供し得るのである、是れキリスト以後に生れし我等の幸福である、げに人生の苦痛惨禍は幕一重の彼方〔かなた〕なる永生を以てせずしては根本的に慰められ得ない、たとへば多年苦心撫育〔ぶいく〕せし子女を失ひたる母親の心の如き、復活再会の希望に依らずして何に依りてか慰め得よう、そして単に婦人のみに限らず男子も亦同様である、今日まで多くの知力優秀なる男子が此事を信じて大に慰められたのである、近時の欧洲に於てサー・オリヷー・ロッヂやロムブロゾーの如き大科学者が競つて心霊現象を以てする来世問題の研究に没頭する如きは見逃すべからざる事柄(ことがら)である、さり乍ら来世問題についての最大権威者はキリストである、彼の復活ありて来世問題は完全に解かれたのである。
 
○しかし乍ら此時のヨブはその詰問に対して未だ明確なる解答を得なかつたのである、故に彼は十三節以下に於
てまた呟(つぶや)きと哭(なげき)きとに入るのである、「もし頭をあげなば獅子の如くに汝われを追打ち……汝はしば〱証(あかし)する者を入れかへて我を攻め、我に向ひて汝の怒を増し新手(あらて)に新手(あらて)を加へて我を攻め給ふ」とヨブは神の迫撃(はくげき)盛なるを怨(えん)じ、そして十八節以下に於てはまた死を慕ふ心を哀々(えんえん)たる文字を以て発表するのである、十八、十九節に於てヨブは此世に生れ来りしを悲み次に二十節に於て言ふ「我日は幾何(いくばく)もなきにあらずや、願くは彼れ()姑(しば)らく
息(や)めて我を離れ、我をして少しく安んぜしめんことを」と、ヨブは我生命の終近きを感じ其前の少時日の間神の迫撃の手が己の上に来らざらんことを願つたのである、憐むべきかなヨブ! 彼は神に攻められつつありと感じて、死ぬる前数日間なりと神がその手を緩(ゆる)め給はんことを乞ふたのである、その心情(こころ)まことに同情すべきではないか、そして彼は最後に言ふ「我は暗き地、死の蔭の地に往かん、この地は暗くして晦冥(かげやみ)に等しく死の蔭にして区別(わかち)なし、彼処(かしこ)にては光明(ひかり)も黒暗(くらやみ)の如し」と、これ世を去つて陰府(よみ)に往かんとの心を言ひ表はしたものである、けだし旧約時代に於ては死者は陰府(Sheol)てふ暗黒世界に住むと信ぜられて居たのである。
 
○今第十章全部を心に置きて考ふるにヨブは義の神に対して愛の神を求めて居るのである、八節―十二節に於て彼が神の愛護を述べたとき彼の心に愛の神は曙の光を発し初めたのである、神は義たるに止まらず又愛なりとの
観念が此時彼の悩める心に光明として臨み初めたのであるこの曙光〔しよこう〕が発展して真昼(まひる)の輝きとならば神の愛は悉く解〔わか〕り来世の希望は手に取る如く鮮かとなるのである、しかし乍ら之は急速に発展すべきものではない、ちらと輝いた曙光は一先づ消えてヨブはまた元(もと)の哭きに入つたのである、さはれ曙光は慥〔たし〕かに現はれたのである、これ見逃すべからざる点である。
 
○神を義と見るは不充分である、ためにヨブは解決点を得ないのである、故に彼の神観は是非とも一転化を経ね
ばならぬ、第一の神のほかに第二の神を認めねばならぬ、義なる神のほかに愛なる神を認めねばならぬ、そして
ヨブは十章に於て愛なる神を認め始めたのである、神を義とのみ見る時人の心は平安を得ない、罪を罰し悪をた
ゞし規律を維持するをのみ神の属性と見做〔みな〕す時、人は我罪の報を怖れて平安(やすき)を得ない、此時キリストを通して愛の神を知るに至れば、神観一転化を経て赦免の恩恵を実感し以て光明に入るのである、しかしキリストを知らぬヨブは独りみづから愛の神の捜索に従はざるを得なかつた、義の神と愛の神とが人の魂の中に於て平均(バランス)を取るに至つて初めて人の心は安定するのである、それに至るまでは苦闘である、ヨブは今此苦闘の道程に於て在る、それは恰も車を峻坂に押し進めるが如くである、二歩進みしかと思へば一歩退く、ヨブは十章の八節―十二節に於て愛の神の一端に触れしも十三節以下また後退(あとすさり)するのである、しかし凡そ光明接受に向つて進む道程は常にこれである、此微細なる点を過(あやま)たず描(えが)きし約百記は偉大なる書と云はざるを得ない、同時に此書が人生の確実なる実験を背景とせる劇詩なる事を知るのである。
 
因〔ちなみ〕に記す、十章八節―十二節に似たる箇処を旧約中に求むれば左記の如き代表的のものがある、何〔いず〕れも旧約中の新約的曙光と云ふべきものである。
ヱホバが己を畏るゝ者を憐み給ふことは父が其子を憐むが如し(詩百三編十三)
女その乳児(ちのみご)を忘れて己が腹の子を憐まざる事あらんや、たとひ彼等忘るゝ事ありとも我は汝を忘るゝことなし(イザヤ四九の十五) 我等の尚ほ亡びざるはヱホバの仁愛(いつくしみ)によりその憐みの尽きざるに因る……(哀歌三の二二以下)
 
○約百記十章と併せて読むべき者は詩四十二、三篇である、「わが魂は渇(かわ)ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞ慕ふ」、しかし神は容易に見えない「何れの時にか我れ行きて神のみまへに出でん」と歎く、然れども神の見えざる時は静かに神の見ゆる時を俟〔ま〕ち、其希望の中に活くべきである、「あゝ我魂よ、汝何ぞうなだるゝや、なんぞ我衷(うち)に思ひ乱るゝや、汝神を待ち望め、われに聖顔(みかお)の助けありて我れ尚ほ我神を讃(ほ)め称(たと)ふべければなり」と三度繰返さるゝに注意せよ(四十二篇五節と十一節と四十三篇五節とに於て)、望は達せられずしては満足しない、しかし望の達せられぬ間は望のある事その事が慰めである、「汝神を待ち望め」と我魂に告げつゝ、静に待つ者は幸なるかな、ヨブは愛の神を探りて未だ得ず僅〔わずか〕にその一端を捉(とら)へてまた之を放(はな)す、暗黒は尚霽れやらず光明は未だ照り亘〔わた〕はらない、しかし願は必ず充たさるゝ時が来るのである。
 
○疑問あり煩悶(はんもん)ある時直ちに解決し得べきものではない、たゞ必ず神より解答を賜はる時あるべしと信じて希望を以て今の痛苦を慰むべきである、急ぐ勿れ、慌(あわ)てる勿れ、神を待ち望め、静に待望(たいぼう)せよ、これ暗中に処する唯一の健全なる道である。
 
 
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