内村鑑三 マタイ伝51ーⅢ講 馬太伝第十三章の研究-3

51-Ⅲ マタイ伝-
馬太伝第十三章の研究
大正6210日・410 『聖書之研究』199201  署名内村鑑三
注意、読者は此篇を読む前に本文を両三回精読するを要す
 
○ルーテルの聖書発見に由て地は一変した、然し乍ら教会は今尚〔なお〕聖書を蔵(かく)さんと為しつゝある、之を神学と称する思索の下に埋めんと為しつゝある、之を社会事業と称する行為の下に匿〔かく〕さんと為しつゝある、之を国家道徳と称する政略の下に蔽〔おお〕はんと為しつゝある、教会は聖書を尊奉すると称しながら聖書を第一位に置かない、其説教なる者は多くは演説である、其神学なる者は哲学の一種である、教会は昔時〔むかし〕のユダヤ人がモーセの律法〔おきて〕を契約の櫃(はこ)の中に収めて之を崇拝せしが如くに聖書に金縁(きんぶち)の表装を施して之を高壇の上に安置して信徒の服従を要(もと)めつゝある、茲に於てか聖書再度の発見の必要があるのである、聖書は今猶〔な〕ほ万民の書でない、聖書は今猶監督の書、監督の免許を得たる教職の書であつて平民の書、平信徒の書でない、然り聖書が教会の書である間は囚(とら)はれたる書、蔵れたる書である、神の僕(しもべ)は幾度(いくたび)か之を教職てふ獄司の手より救出し之を光明と自由の地に置かねばならぬ、ルーテルの授かりし名誉と事業は未〔いま〕だ尽きない、吾人も亦〔また〕之に与〔あず〕かることが出来る、畑に蔵れたる宝の発見、教会に匿れたる聖書の発見、之に勝りて楽しき喜ばしき大なる発見は無い、而〔しか〕して神は今日猶其愛子より斯〔か〕かる発見を待ち給ひつゝある、励めよ我友!
○宝の発見に次いで宝玉の発見がある、好き真珠の比喩の示す所が是れである、
又天国は好き真珠を求めんとする商人の如し、一の値(あたひ)高き真珠を見出さばその所有(もちもの)を尽く売りて之を買ふなりとある(四五、四六節)、前に述べた通り宝は宝の函である、多くの宝を蒐集(あつ)めたる者である、其中に金がある、銀がある、瑪瑙(めのう)がある、ルビーがある、アメシストがある、ジヤスパーがある、而して又真珠があるのである(黙示録廿一章十八節以下参照)、何〔いず〕れも貴き宝であつて彼を排し是を択むことは出来ない、然れども其中に中心的宝玉とも称すべき者があるのである、即ち宝石の女王とも称すべき者があるのである、珠玉界の花形役者(はながたやくしや)、彼女あるが故に全匣燦然〔さんぜん〕として光彩陸離たるを得る者がある、今や宝石の女王と言へば勿論ダイヤモンドである、然れどもキリストの時に未だダイヤモンドはなかつた(黙示録に金剛石とあるは誤訳である、碧玉(ジヤスパー)と訳すべきであらう)
当時珠玉の女王は真珠であつた、当時大なる真珠は実に値高き者であつた、シーザーが其友ブルータスの母に送りしと云ふ一個の真珠は今日の金に算(つも)りて四十八万円余の者であつた、仏国有名の旅行家タヷニエーが波斯(ペルシヤ)王に売りし真珠は其値百八十万円の者であつたと云ふ、以て古代に於ける真珠の価値(あたひ)が推知せらるゝのである、而して斯かる真珠を発見せる商人の驚愕〔きようがく〕歓喜は察するに余りあり、彼がその所有(もちもの)を尽く売りて之を買ふ也とあるは敢て怪しむに足りない。
○畑に蔵(かく)れたる宝が聖書であるならば値高き真珠は何である乎、宝の中の宝、珠玉界の女王として見れば茲に云ふ大真珠は聖書の中心的真理を表示するのであると思ふ、即ち之を中心として聖書に示されたるすべての智慧と知識とが一の完全なる組織体を成す者、恰〔あた〕かも大陽の大陽系中の諸遊星に於けるが如く其中心たり聯結(つなぎ)たる者、其れが此真理の真珠であると思ふ、而して聖書に斯かる中心的大真理の在ることは敬虔以て此書を学びし者の何人も知る所である、之を発見して聖書は解明(わか)るのである聖書研究の目的は此真理の発見に在るのである、際限なき註解書を読了するも聖書は少しも解明(わか)らないのである、大抵の註解書は寧〔むし〕ろ之を読まざるを以て可(よし)とするのである、然れども聖霊の御指導に由りて幸にして其中心的真理を発見するを得ん乎、聖書は瞬間にして光明耀き渡る神の城邑(みやこ)と化するのである、其時註解書に依ることなくして聖書其物が無限の光を供給するに至るのである、其時「彼処(かしこ)に夜あることなく、燈(ともしび)の光と日の光とを用ゐることなし、蓋(そは)神御自身彼等を照らし給へば也」とある祝福されたる状態が吾人の聖書研究の上に臨むのである、此真理は実に聖書なる神の知識の宝庫を開く為の鍵(かぎ)である、最上の註解書である、然り解釈其物である、此真理、此真珠を握るまでは聖書は暗黒の邑(まち)である、燈(ともしび)の光、即ち神学者の力を藉(か)ること如何に多くあるとも此真理なくして人は聖書の門に入りて其街(ちまた)に彷徨(さまよ)はざるを得ないのである。
○然らば値高き真珠、即ち聖書の中心的真理は何である乎、ルーテルの場合に於ては是は「人の義とせらるゝは行為(おこない)に由るに非ず信仰に由る」との教義であつた(羅馬〔ロマ〕書三章廿八節)、彼は此教義を鍵(かぎ)とし用ゐて聖書を開きしに聖書は窮(かぎ)りなき智慧と知識との宝を彼に与へた、而して此鍵〔かぎ〕を以て開かれたる聖書に由て十六世紀に於ける宗教大改革が起つたのである、而して単に宗教に止まらず、政治、法律、経済、文物、人生の全体に渉〔わた〕る大改革が実行されたのである、実(まこと)に法理学者マツキントツシが言ひし如く、近世史に於ける自由政体なる者は素々(もと〳〵)人の義とせらるゝは信仰に由るとのルーテルの主唱に由りて起つたのである、聖書の中堅は新約に在り、新約の真髄は羅馬書に在り、羅馬書の中心は其第三章に在る、故に聖書を解するに羅馬書殊に其第三章を以てせざるべからずとはプロテスタント主義の立脚地である、トルストイの如くに山上の垂訓を聖書の中心的真理と見做〔みな〕して聖書は不
可解の書たらざるを得ない、聖書は道徳の書ではない、信仰の書である、信仰に導くための道徳であつて、道徳を助くるための信仰ではない、羅馬書を鍵として持ちて聖書に臨んで聖書は宝の山と化して吾人を迎ふるのである。
然し乍ら信仰に由て義とせらるとの教義が果して値高き真珠の比喩が示さんとする聖書の中心的真理である乎、其事を断定することは出来ない、聖書の中には此教義を以てするも闡明〔せんめい〕する能〔あた〕はざる真理がある、是は之れ聖書の根柢的真理也と称するを得んも中心的真理と称するには猶足りないやうに思はれる、茲〔ここ〕に於てか近世に至りてキリストの再臨が此の中心的真理であると信ずる者が益々多きを加ふるに至つた、此事に就て詳細を論ずるは此論文の許さゞる所である、然れどもキリスト再臨の観察点に立ちて聖書を見て、其の更らに一層円満なる、始終一貫せる、各部整頓せる書たるに至ることを否定することは出来ない、新約聖書中明かにキリストの再臨に就て示す所の聖語は四百八十箇所の多きに達すと云ひ、全聖書を通じて此教義に就て直接間接に啓示する所の三万有余の章句があると云ふ、以て其の聖書に在りて如何に重要なる教義である乎が判明(わか)る、実にキリストの再臨を無視して聖書は解らない、若し再臨が迷信であるならば聖書は迷信の書である、聖書の信仰も希望も道徳もすべてキリストの再臨に基(もとず)ゐて居る、再臨を信受して聖書は光明の書となる、キリストの再臨が聖書の中心的真理であると云ふ説に多くの固き根拠がある、是は或ひは此比喩が預言する所の値高き真珠である乎も知れない、余輩は有力なる仮定説として此説を本誌の読者に提供する。
○近頃に至り聖書の中心点を哥羅西〔コロサイ〕書に移さんと欲する者がある、彼等の言ふ所に循〔したが〕へば其第一章第十節より第十九節までが聖書の中心的真理であると、或は爾〔そ〕うである乎も知れない、然れども問題は甚〔はなは〕だ遠大にして余輩は
茲に之を詳論するの場所を有〔も〕たない、唯〔ただ〕此説あるを掲げて読者の参考に供するを以て足れりとする。
○真珠の比喩が示さんとする中心的真理の何である乎を茲に決定することは出来ない、是は多分今猶未定の問題として存るのであらう、キリストの預言は未だ悉〔ことごと〕く事実となりて現はれない、預言は時を待ちて開示せらるゝものである、我等は心の腰に帯して其明かに示さるゝ時を待つべきである。
○暗黒に次いで光明が臨む、暗黒(くらき)の勢力が其極に達する時に真理の宝の発見あるべしとは第五、第六の比喩の教ふる所である、然らば此発見に由りて暗黒は悉く取除かるゝ乎と云ふに決して爾うではない、暗黒は依然として存するのである、光は暗の裡に輝るも暗は取除かれないのである、聖書の発見と其中心的真理の発見とに由りて天国の子等は信仰を強うし希望を固うして歓ぶと雖も、而かも世は依然として暗黒の世として存し、教会は依然として悪魔の巣窟として存するのである、真理は貴しと雖も真理丈けでは世は改まらないのである、茲に於てか最後に真理以外、他に神の大能の発顕(はつげん)の必要があるのである、終末の審判是れである、是れ最後の比喩即ち引網(ひきあみ)の比喩の示す所である、又天国は海に投(う)ちて各様(さま〴〵)の魚を捕る網の如し、既に盈(と)れば岸に引揚げ、坐(すわ)りて善きものは之を器(うつは)に入れ、悪しき者は之を棄るなり、世の終末(おわり)に於ても此〔かく〕の如くならん、天使等出でゝ義者の中より悪者を取分(とりわ)け、之を炉の火の中に投(なげ)入るべし、其処〔そこ〕にて哀哭切歯(かなしみはがみ)すること有らんとある(四七―五〇節)、茲に比喩と其解釈とがある、故に其意味は明瞭である、是が万事の終結(おわり)である、神の播き給ひし種は如斯〔かくのごと〕くにして其結果を彼の蔵に収めらるゝのである、福音の宣伝に由て地上に演ぜらるゝ悲劇喜劇は如斯くにして終結(をはり)を告げて万事は神の栄光に帰するのである、地上に於ける福音の経路はキリストの御生涯と等しく多事多難にして妨害多くある、其種は播くに難く、生ゆるに難く、保つに難い、而して漸〔ようや〕くにして生長(そだ)ちし樹は空天(そら)の鳥即ち悪魔の宿る所となり、麪種(ぱんだね)即ち此世の精神の毒する所となる、然れども神は其植ゑ給ひし真理の絶滅を許し給はない、彼は時に到りて再び光明を喚起(よびおこ)し給ふ、暗黒は世に普(あまね)しと雖も、暗黒の裡に在りて真理の証明は絶えない、而して世は如斯くにして其終末(をわり)にまで及ぶのである、而して最後に神の大審判が行はれて茲に始めて真偽の判別を見るのである、茲に稗子(からすむぎ)は焼棄られて真(まこと)の麦のみが残るのである。茲に山羊は逐はれて純白なる神の小羊のみが残るのである、宇宙の祝日は最後に来るのである、其日の到るまで試誘(こころみ)の日は続くのである、「今は汝等の時暗黒の勢力なり」と主が言ひ給ひし其時は終末まで続くのである(路加〔ルカ〕伝廿二章五十三節)然れども何をか恐れん、光明の暗黒の裡に輝くあり、而して最後に主の臨(きた)り給ふて万物を完成し給ふあり、彼の宣(の)べ給ひし比喩的預言は着々として実現されつゝある、我等耐忍(たへしの)びて彼の再臨を待つべきである。
 
〔以上、410