内村鑑三 マタイ伝 52講 馬太伝第十三章の研究-2

52 マタイ伝
 
馬太伝第十三章の研究-2
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(東京神田三崎町バプチスト中央会堂に於て六月廿三日)
大正7810日『聖書之研究』217  署名内村鑑三  藤井武筆記
 
聖書の研究は困難なる事業である、其の研究の結果窮(かぎり)なき生命(いのち)の泉を掬〔く〕むを得るも、茲〔ここ〕に達する迄には大なる努力を要する、そは恰〔あたか〕も金銀の採掘の如きである、金を以て身を装(よそほ)ひ銀を以て物を飾るは美〔うる〕はしと雖〔いえど〕も之を採掘するは容易ならざる事業である、聖書も亦〔また〕然り、其研究には人の知らざる苦心がある、聖書の一言一句を其前後の関係に照合して穿鑿(せんさく)し注意に注意を重ねて其意義を探究しなければならない、然しながら困難なりと雖も是れ最も貴き事業である、聖書研究の困難を解せず又其意義を解せざる者は動(やゝ)もすれば之を以て伝道事業と別視する者がある、彼等は曰〔い〕ふ聖書学者は伝道を為さずと、又曰〔い〕ふ最早や聖書を棄て起ちて国民を救へよと、然しながら聖書研究に勝るの伝道はないのである、聖書を措いて他に国民を救ふ途〔みち〕は何処〔どこ〕にある乎〔か〕、力〔つと〕むべきは聖書研究である、勧(すゝ)むべきは神の言(ことば)の探究である。
今茲処(ここ)に馬太〔マタイ〕伝第十三章の講解を試みんとするは即〔すなわ〕ち聖書研究の如何〔いか〕なる乎に就て其例を示さんと欲するに過ぎない、説教者は多く聖書中の一句を題文(テクスト)として縦横に論を行(や)る、之れ必ずしも悪しき事ではない、然しながら又或時は馬太伝若(もし)くは羅馬〔ロマ〕書等の全体に就て其の何を教ふる乎を説かなければならない、一書又は一章を題文(テクスト)としての説教も亦甚〔はなは〕だ必要である、馬太伝第十三章は何を教ふる乎、之れ今日の題目である、而〔しか〕して此一章が一の大なる教訓を与ふるものなる事を明かにせんと欲するのである。
馬太伝第十三章は七個の譬喩(たとへ)より成る、而して七は聖書に在て完全を示すの数である、七教会、七封印、七福、七日、七年又は四十九年等の如し、而して七個の譬喩の内容は左の如くである、
第一種蒔(たねまき)の譬喩
第二稗子(からすむぎ)の譬喩
第三芥種(からしだね)の譬喩
第四パン種(パンだね)の譬喩
第五隠れたる宝の譬喩
第六真珠の譬喩
第七網打(あみうち)の譬喩
 
所謂〔いわゆる〕高等批評家は曰ふ「馬太伝は順序を逐うて編纂〔へんさん〕せられし書ではない、イエスの事蹟又は教訓を其種類に由て撰択分類したる者である、故に山上之垂訓又は奇跡又は譬喩又は預言等を各々〔おのおの〕其題目の下に一括して記述した
るに過ぎない、教訓相互の間又は譬喩相互の間には何等の関係なく唯〔ただ〕雑然として籠中(かごのなか)に投入したるが如くである」と、果して爾(そ)うである乎、若〔も〕し然らんには少くとも馬太伝は全く文学上の価値を有せざる書である、斯〔かく〕如き粗笨(そほん)なる編纂を為したるマタイは到底文学者としての資格を要求する事が出来ない、然しながら馬太伝の価値は人の能く知る処である、世界に有名なる文学者が此書を評して「人類に最大の感化を与へたる書」と呼び做(な)して居るのである、斯〔か〕かる貴重なる書の記事が雑然たる羅列(られつ)に過ぎずして其相互の間に何の関係なく一貫して或る大なる真理を伝ふる処なしとは何(どう)しても受取る事が出来ない、換言すればイエスは茲に七個の譬喩を以て断片的に別個の真理を語り給ひしものに非ずして本章全体が七個の譬喩を以てする一の大説教なる事を疑ふことが出来ない、七は完全の数である、故に七個の譬喩は全体として一の真理を教ふるものであつて其相互の間に深き関係
ありと見るは極めて適当なる解釈である、而して是れ本章を解するが為の第一の鍵(キー)である。
 
次に注意すべきは七なる数の中に四と三との順序である、聖書に在ては四は地の数にして三は天又は霊の数である、而して見よ七個の譬喩中第一の種蒔(たねまき)は地に属(つ)ける事である、第二の稗子(からすむぎ)の成長亦然り、故に其第三第四も亦同様ならんと想像する事が出来る、終の三に至ては明白に天又は霊の事である、隠れたる宝の発見といひ真珠の発見といひ何〔いず〕れも地以上の事である、殊に最後の網打(あみうち)は即ち審判であつて神の自〔みずか〕ら為し給ふ所である、四と三、地と天、是れ本章を解する上に於ての第二の鍵(キー)である。
斯くの如くに解し来れば本章の意義は略々〔ほぼ〕明白である、即ち種蒔を以て始まり網打を以て終る七個の譬喩は神の言の初めて地に蒔かれしより世の終に至る迄の福音史を預言したる大預言である、こは一個の仮説なりと雖も確実なる根拠に基づく仮説にして、而して七個の譬喩の内容は歴史上の事実と相俟〔ま〕ちて此説の謬〔あやま〕らざる事を証明するのである。
第一種蒔の譬喩の教ふる所はキリスト御自身の説き給ひし福音の其効を奏すること甚だ少き事実である、其或者は路傍に落ちて空中の鳥に啄(ついば)まれ或者はパレスチナ地方通有の岩上土浅き地に落ちて直〔ただち〕に枯れ或者は棘(いばら)の中に落ちて蔽〔おお〕はれ而して唯少数の者のみが沃地(よきち)に落ちて三十倍六十倍又は百倍の実を結ぶといふ、即ち之を一言すれぼ福音の説かるゝや其の実を結ぶものは決して全体に非ずして僅〔わず〕かに其一小部分に過ぎないとの事である、之れキリスト御自身の実験にして又後の事実の預言であつた。
然らば其沃地(よきち)に落ちたる少数の種は健全なる発育を遂ぐる乎〔か〕と言ふに、然らず、其中に稗子(からすむぎ)が現はれるのである、稗子とはパレスチナ地方に生ずる「チツァニア」であつて結実前は真の麦と区別する事が出来ない、故に農夫は之を引抜かずして収獲の時を待つといふ、即ち少数の麦の間には偽〔いつ〕はりの麦が生存すべしと、之れ第二の預言である。
次に来るものは芥種(かあらしだね)の譬喩である、此の譬喩は通常福音の膨脹力を示すものと解せらる、然しながら注意すべきは茲に来りて其枝に宿るといふ「空の鳥」は同じ本章の中に既〔すで〕に悪しき者の意味に用ゐられたるのみならず聖書の他の部分に在ても亦同様なる事である、或〔あるい〕は「空中に権威を握る者」といひ凡〔すべ〕て悪魔は上空に在りて人を狙(ねら)ひ恰〔あたか〕も鷹の小禽を攫(さら)ふが如くに人を攫ふとの思想がある、故に芥種の譬喩も亦前後の関係より之を見て寧〔むし〕ろ教会の俗化を表すものと解すべきである、而して之れ事実の証明する処である、キリストの教会は初めは微小なりしも次第に増大して遂〔つい〕に羅馬〔ローマ〕帝国の国教会となるに至つた、嘗〔かつ〕てユーセビアス羅馬皇帝の卓側(たくそく)に坐し一座の光景を指して曰く「陛下よ約翰黙示録〔ヨハネもくしろく〕に所謂新しきヱルサレムとは即ち是れなり」と、然しながら教会の斯く増大して空の鳥を宿すに至りし其事が最大の不幸であつた、空の鳥とは何ぞ、悪魔彼自身である、前には福音の種を啄み(ついば)し者が後には自ら教会に入りて勢力を振ふのである、而して教会は悪魔を迎ふれば一夜にして増大するのである、之れ独り欧洲に於ける事実のみではない、我国に於ても亦同様である、教会は芥種の如くに小さく基督者は必ず迫害を免れざりしは近き過去の事実であつた、然るに今や基督教は此国に於ても一大勢力と成りつゝある、富豪之を迎へ政治家之に近づく、基督教会の牧師が総理大臣の許〔もと〕に出入するが如きは果して何の徴である乎、噫〔ああ〕空の
鳥は既に我国の教会にも来り宿つたのである。
第四のパン種の譬喩は如何〔いかん〕、パン種は感化力を表すが故に此の譬喩は福音の社会に対する感化力を示すものと解せらる、然しながら単に感化力ならば其反対も亦事実である、否〔いな〕むしろ悪魔の感化力は福音の感化力よりも更に顕著である、故に此譬喩の意味は他にありと見ざるを得ない。
茲にパン種といひ又婦之(をんな)を取り云々といふ、聖書に於てパン種は常に異端の意味に解せらる、キリスト自ら其弟子に対し「汝等パン種を慎めよ」と言ひ給ひしはパリサイ及びサドカイの異端を慎めよとの謂〔いい〕であつた(馬太〔マタイ〕伝一六の一二)、而して又聖書に於て婦と言へば大抵悪しき意味に用ゐらる、ヨハネがテアテラの教会に宛てたる書翰中「汝は……婦イエザベルを容れ置けり」とあるは言ふ迄もなく甚だ悪しき婦人であつた(黙示録二の廿)
加之古来〔しかのみならず〕異端は多く婦人の作出する所である、現今欧米に於て勢力を有する基督教科学(クリスチヤンサイエンス)を創始せし者はエヂー夫人である、霊智学を代表する者はべザント夫人である、再臨に関する異端第七日アドベンチストの開祖はホ
ワイト夫人である、而〔しか〕して是等の事実の暗示する処は能く聖書の言〔ことば〕に適合するのである、依て知るパン種の譬喩は教会内部に於ける異端の出現と其感化力とを示す事を、俗化したる教会に純福音は迎へられない、茲に於てか
神学者なる者現はれて俗物を喜ばすべき異端を唱ふ、而して信者皆之に感化せらる、教会の俗化時代に次ぐものは異端出現の時代である、是れ古今東西の教会歴史の均〔ひと〕しく証明する所である。
然らば福音の前途は全く絶望である乎、教会の歴史は悉〔ことごと〕く失敗である乎、否神は此暗黒中に更に光明を投じ給ふのである、教会を挙げて異端に心酔せる時神の選び給ひし少数者が隠れたる貴〔きよ〕き宝を発見するのである、腐敗したる群の中に尚〔なお〕聖き男女ありて此宝を発見し得るは実に感謝すべき恵みである、而して此事も亦歴史上の
事実であつた、多くの註解者は隠れたる宝(たから)の譬喩を以てルーテルの聖書発見と解するに於て一致して居る、前四個の譬喩に就ては全然別様の解釈を取る学者も此点に於て一致する者が多い、隠れたる宝とは何ぞ、聖書である、神の言である、教会内に俗物跋扈(ばつこ)し異端横行(おうこう)する時隠れたる聖書の発見があつた、而して発見者は之を胸に抱いて喜び仮令〔たとえ〕教会より破門せられ身を焚(や)かるゝとも此貴き宝さへあらば即ち足ると做〔な〕したのである。
若し宝の譬喩にして果して聖書の発見ならん乎、次に来る真珠の発見の意味も亦〔また〕之を探るに難くない、宝とは宝の一団の意味であつて函〔はこ〕又は鞄(かばん)等に蔵(おさ)められたるものと見る事が出来る、然るに真珠は一個の宝である、即ち一団の宝の中更に貴き者である、始めに宝の発見あり、次に其中の更に貴き真珠の発見がある、聖書中の最も貴き真理とは何である乎。贖罪乎〔しよくざいか〕復活乎昇天乎、此点に就て我等は独断的であつてはならない、然しながらA・J・ゴルドン等の説〔とき〕たる真珠とは再臨の真理なりとの説明は侮るべからざる思想である、再臨を聖書の中心的真理と信じて之が為には自己の一切の所有を放棄するも顧みずと為す者は決して少くない、余自身に取ても再臨を信じて聖書全体が更に価値あるものとなつたのである、宝の発見に次いで真珠の発見がある、斯〔かく〕の如くにして俗化したる教会に光明は臨むのである。
而して最後に網が打たるゝのである、善も悪も一度〔ひとた〕びは神の前に出でゝ火に焼かれ其価値を験(ため)さるゝ時が来るのである、真信者も偽信者も最後にはキリストの台前に立ちて大なる審判を受くる日が来るのである、聖書は近代人の考ふるが如き進化的審判を説かない、教会が徐々として発達進歩し遂に全世界を抱容する黄金時代を実現
すべしと言ふが如きは全然聖書と相容れざる思想である、聖書は明白に善と共に悪の成長すべきを預言する、而して最後に審判の行はるべきを預言するのである。
斯の如くに解釈すれば七個の譬喩は全体として一貫したる大真理を教ふるものである、福音の種は蒔かるゝも之を受くる者は少数に過ぎない、而して其少数者中に更に偽(いつわり)の信者が入り来る、斯くて教会は俗化して富豪政治家等に近づき神学者は彼等に佞(おもね)りて異端を唱ふ、然れども悪魔の子等の間に又神の子現はれて隠れたる宝及び真
珠を発見し依〔よつ〕て死に瀕〔ひん〕したる教会の復活がある、而して後に最終審判は行はるゝのである、故に馬太伝第十三章は一の大預言である、其中に死の半面あり又生の半面あり、暗黒あり又光明あり、神の深き真理が明白に伝へらるゝのである。
而して独り本章のみならず馬太伝全体然り否聖書全体然り、聖書は個々の言を読みて其意義を誤り易くある、然しながら其全体を読みてキリストの精神の存する処を受けん乎、我等の霊を充実せしむると共に又之を寛容ならしめ深さと共に広さを与ふる事此書の如きは他に無いのである、聖書研究の秘訣は茲にある、是れ実に何物を以ても代ふべからざる貴き事業である。
附記近頃或人基督再臨の信仰を起し、歓喜抑へ難く、其所有(もちもの)の総額(すべて)を持来り曰く「今謹んで之を聖前に献す、願くは此福音宣伝の為に使用せられん事を」と斯(かく)て「一の値(あたひ)高き真珠を見出さばその所有(もちもの)を尽〔ことごと〕く売りて之を買ふなり」とある聖書の言に合(かな)へり。