内村鑑三 マタイ伝 68講 馬太伝第廿六章六十四節に就て

68 マタイ伝 馬太伝第廿六章六十四節に就て
 
馬太伝第廿六章六十四節に就て
(六月七日午後札幌独立教会内に設けられし該地教役者会に於て述べし所)
〔七〕
大正7810  『聖書之研究』217   署名なし
 
エス彼に曰〔い〕ひけるは汝が言へる如し、且〔かつ〕我れ汝等に告げん此後人の子大権の右に坐し天の雲に乗りて来るを汝等見るべし。
○此一節はキリストの再臨を論ずるに於て最も重要なるものである、之を我等再臨を信ずる者の側(かは)より言はん乎〔か〕、此〔この〕語はキリストの己が死を賭(と)して発し給ひし最後の一言であつて其の重き事比(たぐい)なしである、彼は此〔この〕語を発し給ひしが故に遂〔つい〕に死刑の宣告を受くるに至つたのである、何人に取ても其生涯に於ける最後の一言ほど重きを為すものはない、我等の主の場合に於ても亦〔また〕爾(さ)うである、彼れの公然と発し給ひし此の最後の一言は実に彼の全生涯の主義主張を簡約(かんやく)して述べられたるものと言はざるを得ない、而〔しか〕して其一言の中に彼は明白に彼の再臨を唱へ給うたのである、再臨はキリスト御自身の信仰に非ずして彼の弟子等の信仰を彼の口を藉(か)りて述べしものなりとの説は此一節に照して之を維持するに甚〔はなは〕だ困難なる事明白である。
○而して其事は再臨反対論者も亦之を認むるのである、彼等と雖〔いえど〕も此一節の場合に於て之をキリスト自身の言〔ことば〕に非ずして弟子等の思想をキリストに移して述べたるものなりと主張する事は出来ない、茲〔ここ〕に於て彼等は此一節を下の如くに解釈するのである、曰〔いわ〕く「キリストは此処〔ここ〕に再臨信者の述ぶるが如く俄然的来臨を述べたのではない、彼は此後人の子大権の右に坐し雲に乗りて来る云々と言うたのである、即〔すなわ〕ち彼は此語を以て此時以来連続的に来臨する事を述べ給うたのである」と。
○「此後」ap arti (アプアルチ)之れ彼等反対論者の高調して已(や)まざる一語である、此後天の雲に乗りて来る云々である、即ちキリストは此時を始めとして何時迄(いつまで)も来り給ふといふのである、故にペンテコステの日に於ける聖霊の降臨も確かにキリストの再臨であつた、続いてヱルサレムの滅亡も亦キリストの再臨であつた、其他信者各自の心に臨みし聖霊の力、また罪の世に臨みし歴史的審判、是れ皆キリストの再臨である、之を措(お)いて他に彼れの再臨を認むるの必要はない、キリストは明白に此後と言ひて、或る時を定めて特別に来るとは言ひ給はなかつたのである、故に此一節に於てキリストは自己の再臨を述べ給ひしと雖もそは再臨信者の唱ふるが如く号令と天使の長(wおさ)の
声と神のラツパを以て天より降り給ふといふが如き意味に於てに非ずと言ふのである、而して此解釈は一見して誠に明白なる説明なるが如くに見ゆる。
○然し乍〔なが〕ら此点に就き少しく我等の研究を進むる時は反対論者の言ふ処に理由なきを発見するのである、今先〔ま〕づ之を馬可〔マルコ〕伝に就て見るに其第十四章六十二節に左の如き言がある、イエス曰ひけるは然り人の子大権の右に坐し天の雲の中に現はれ来るを汝等見るべし、即ち馬太〔マタイ〕伝に於けるが如き此後(ap arti)なる語は馬可伝の記事中には之を見ないのである、而して普通聖書学者の説く処によれば馬可伝は最も信頼すべきイエス伝であつて路加〔ルカ〕伝又は馬太伝は何〔いず〕れも馬可伝を根拠として書かれしものであるとの事である、故にイエス伝を論ずるに当り最も重きを為すものは馬可伝である、従〔したがつ〕て其立場よりすれば此場合に於ても亦馬可伝の言を以て最も信頼すべきものと為さゞるを得ない而して其の馬可伝に於ては論者の高調する此後(ap arti)なる語が除かれてあるのである、若〔も〕し他の場合ならんには論者は必ずや馬可伝
の優勝権(priority)を維持するであらう、而して他の福音書の記事は馬可伝の記事を以て之を訂正するであらう、然らば何故此場合に於ても特に馬太伝の記事に重きを置きて馬可伝の記事を顧みないのである乎、若し歴史的に最も価値ある馬可伝に此後(ap arti)なる語が除かれてあるならば之を以てキリストの言と認むるが正当ではない乎、即ちキリストは「此後云々」と言ひ給ひしに非ず、単に「人の子大権の右に坐し天の雲の中に現はれて来る
を汝見るべし」と言ひ給うたのである、而して此言に依れば再臨信者の信ずる如くキリストは未来に於ける或る特別の時を期して再び現はれ給ふの謂(いひ)なる事を認めざるを得ない。
 
翻(ひるがへ)つて馬太伝の言に就て見ても必ずしも反対論者の論ずるが如くに之を解するの必要はないのである、ap arti なる希臘〔ギリシア〕語は此の場合に於て果して之を字義通りに「今より後」と訳すべき乎(か)否乎(いなか)、之れ疑問である、日本語に於ても「爾今(じこん)」と言ひて或〔あるい〕は之を未来といふが如き意味に於て用ゐらるゝ事がある、言語は必ずしも其字義を以て解する能〔あた〕はず、其の用法(usage)に拠らなければならない、故に馬太伝註釈者として世界的権威(オーソリチー)たるW・C・アレン氏の如きが其の万国批評的註解書馬太伝に於て此一節を論ずるに当りap arti の意味を定むるは困難(difficult)なりと言うて居るのである(同書二八四頁を見よ)、而して氏は此語を以て単に未来を意味するものと解しキリストは茲に彼が現在のメシアに非ずして未来のメシアなる事を述べ給うたのであるとの説明を下して居る、何れにせよap arti の一語は語学上より見て意味不明である、故に此一語に基づきてキリストの再臨観を決するは甚だ困難である。
○爾(しか)のみならず文法上より解してap arti 即ち此後なる語は「天の雲に乗りて来る」との言に関聯せしめて解すべきか否か大なる問題である聖書註解の王(きんぐ)と称せらるゝマイヤーの如きは其の馬太伝註釈書第六版に於ては反対論者の唱ふるが如くにキリストは茲に其時以来の連続的再臨を語り給へりと述べたるが、其七版即ち彼自身の編纂〔へんさん〕に係る最後の新版に於ては之を訂正したのである、即ち彼は曰ふ「ap arti は厳密に言へば大権の右に坐しなる文字にのみ関す、天の雲に乗りて来るは其の結果なり」と(同書独逸〔ドイツ〕原版四六九頁を見よ)、即ち彼の解釈によれば天の雲に乗りて来る云々はap arti とは直接の関係なき離れたる語である、而して之れキリストの或る時に至り特別に来り給ふ事を示す語である、其他英国に於ける近来の馬太伝学者たるマクニール氏の如きも之れと同様の解釈を下して居るのである、然るに之あるに拘〔かかわ〕らずマイヤーの旧解釈又は万国批評的註解書の馬可伝に於けるE・P・グールド博士の言(二七九頁)を引いてap arti を「来る」なる文字に附して読む者あるも之れ最も権威ある註解者の取らざる処である。
○故に馬太伝第廿六章六十四節の言を以てキリストが最終の日に特別に再顕し給ふ事を教へ給ひしに非ずと解する事は出来ない、馬可伝が其最も良き証明者である、而してマイヤー、マクニール等が其の蘊蓄(うんちく)せる学識の結果として述べたる最後の言が亦〔また〕此事を教ふるのである、依て此一節の反対論者の解釈の如き連続的来臨を説くもの
に非ずして再臨信者の唱ふる俄然的再臨を教ふるものと見て謬(あやまり)なき事を知るのである。
 
○斯〔か〕く言ひて余輩は再臨以前に再臨なしと言ふのではない、聖書に於いてキリストの再臨を示す語として用ゐられしものに二つある、其一はerchomai エルホマイであつて其二はparousia パルーシアである、前者は一般的の語にして英語のcomeと同じく彼れの来り給ふ事を意味する、即ち常に来り給ひつゝある又た終に来り給ふとの意味を通ずる語である、故に若しキリストの再臨に関して常に此のerchomai なる文字のみが用ゐらるゝならば彼の再臨は或は連続的来臨に止まると言ひ得るかも知れない、然れどもparousia の一言に至ては其意味を誤解すべくもないのである、parousia なる語の正当なる意義は近来の発見に係るパピラス(古代埃及〔エジプト〕産の紙の原料にして精製して文書に用ゆ)
によりて明白となつた、即ち此語は国王が其の領土に臨幸する場合に於て用ゐられたる語であつて必ず王の個人的臨在を意味するのである、故に若し英語を以て言ふならばerchomai coming(来りつゝある)と訳すべく之に対してparousia arrival(到着)と訳すべきである(スーター著希臘文新約聖書字典一九四頁を見よ)、故にキリストのparousia と言へば其意義明白である、之れキリストの或は信者の心に臨み或は罪の世を審判(さば)くの意味に於ての来臨ではない、之れ王の臨幸である、其の到着である、キリストの場合に於ては彼の約束し給ひし如く其栄光の体(からだ)を以て再び此地に臨み給ふ事を明白に示す所の語である。
 
○此故に人の哲学的思想の如何〔いかん〕は暫〔しば〕らく措〔お〕き新約聖書の明白に教ふる処に由ればキリストは必ず再び時を定めて其身体(からだ)を以て個人的に世に現はれ而して信者の救拯(すくひ)を完(まっと)うし同時に罪の世の最後の審判を行ひ給ふのである、此一事に就ては何等疑を挟(はさ)むの余地を存しないのである。
 
○之を要するに馬太伝第廿六章六十四節を以てテサロニケ前書第四章又はコリント前書第十五章又はピリピ書第三章最後の二節等の明白に教る所のキリストの具体的個人的再臨を否定せんとするは到底不可能の事たるを免れない、そは文法的に不可能にして又聖書の他の部分に照合して不可能である、馬可伝の権威は此点に於ては正に判決的(decisive)なるものである。
附言「雲に乗り云々」の解釈に付ては本誌第二一五号五頁以下に就て其詳細を見られたし。
 〔本巻一九五頁〕
 
 
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