内村鑑三 マタイ伝 63講 イエスの終末観-2

 
63 マタイ伝-2
 
エスの終末観
馬太伝第二十四章の研究
大正8410 『聖書之研究』225   署名内村鑑三述藤井武筆記
 
 
第二回(二月二十三日)
馬太〔マタイ〕伝二十四章又は馬可〔マルコ〕伝十三章、路加〔ルカ〕伝二十一章等に現はれたるイエスの終末観を解せんが為には先〔ま〕づ読者の心中大なる疑問を抱く事を要する、イエスは其弟子等より提出したるヱルサレム滅亡の時と彼の再臨の兆(しるし)及び世の終(おわり)の兆(しるし)如何〔いかん〕との質問に答へて「大なる患難臨み来るべし、地には戦争饑饉疫病地震あらん、天には日晦(くら)く月は光を失ひ星は空より落ちん、されど其時望みを失ふなかれ、我れ電(いなずま)の閃〔ひらめ〕く如く天より降り来らん、而〔しか〕して神の国を地上に実現すべし」と宣言し給うたのである、此宣言は果して真実である乎〔か〕、若〔も〕し然らんには我等の人生観及び基督教観は全然一変しなければならない、多くの信者の基督教観は聖書に基かずして却〔かえつ〕て教師又は先輩の説に基く、故に彼等は神の愛なる事又は我心に宿る事又は此世を導きて神の国たらしめ給ふ事を信ずるも終末観の如きは殆〔ほとん〕ど之を解しない、甚だしきに至ては基督教は社会主義なり或はデモクラシーなりと称する者がある、かくて教会に於て国際問題社会問題家庭問題は盛に研究せらるゝも聖書の中心的真理たる再臨問題は棄てゝ顧(かへりみ)られない、然しながら再臨の信仰は果して時代思想に過ぎざる乎、イエスの終末観は基督教の重要なる一部を形成せざる乎、之を伝ふる聖書は謬〔あやまり〕なき神の言〔ことば〕として受くべきものに非ざる乎、こは深刻なる懐疑と熱烈なる祈祷とを以て研究すべき大問題である、而して此問題の解決如何によりて我等の基督教観及び人生観は全く左右に相分るゝのである、故に昨年余輩の基督再臨を提唱してより以来我国の基督教界に思想上の大動乱を生じ教会は截然(さいぜん)として二分せらるゝに至つた、独り我国のみならず米国等に於ても亦同様である、同じ教会が二つに分裂するのである、プロテスタント教会中最も優勢なるバプチスト教会中にもシカゴ大学を以て代表せらるゝ再臨反対信者と南部地方に於ける再臨信者とがある、長老教会、聖公会、組合教会亦然り、実に馬太伝二十四五章を神の言として読む乎否〔いな〕乎に由て教会の黒白は判明すると言ふも過言ではない。
而して馬太伝二十四五両章に対して凡〔およ〕そ四種の解釈が行はれる。
 
第一之れキリストの言に非ず又使徒マタイの書にも非ず、或るユダヤ教信者が世の終末の近きを感じ自己の感情を叙述せしものにして約翰〔ヨハネ〕伝に見るが如き霊的基督教思想と相反するユダヤ思想なり、たゞ其中に余りに美〔うる〕はしき言あるが故に馬太伝編纂〔へんさん〕者が之を採りて福音陛中に輯録〔しゆうろく〕したるのみと、此説は今より五十余年前仏国の学者コロニー之を唱へ遂に瑞西〔スイス〕の学者にして基督伝の最大権威と称せらるゝカイムの其著「ナザレのイエス」中に之を採用するに及びて多くの学者間に尊重せらるゝに至つた、例へばワイツゼッケル、プフライデレル、ルナン、マンゴルト、ホルツマン、ヒルゲンフェルト等皆此説の賛成者である。
然しながら若し此説の如くならんには世界の終末よりもまづ基督教の破壊である、仮令〔たとえ〕幾多の大学者の之に賛成するありと雖も此説は単純なる基督者の心的経験に訴へて其の最も貴きものを奪ひ去るものである、基督者各自には基督的良心(クリスチヤンコンシエンス)の在るあり、之れ聖霊の光に由りて聖書を研究するに方〔あた〕り第一の権威である、学者何者ぞ、智者何者ぞ、今より五年前に於ては世界中若し智者学者の多き国ありとせばそは独逸であつた、独逸ほど人生の事実につき精通したる国はなかつた、独逸ほど聖書の批評的研究の練達したる国はなかつた、誠に米国のシカゴ、エール、ハーバード諸大学又はユニオン神学校より独逸人の研究の結果を除かば後に何が残る乎、ユニオン神学校長嘗〔かつ〕て曰く我等の神学は独逸より学べりと、誠に然(さ)うである、カイム其他前掲の諸大家は殆ど皆独逸人又は独逸系の学者である、故に若〔も〕し知慧が人生に就て何かを教ふるものならん乎、独逸は今日の惨状を呈すべき筈〔はず〕がない、然るに世界中の智者を集めし国が四年半の間に最も憐むべき国と化せしは如何、独逸神学者の説如何なりとも之に我等の霊を委〔ゆだ〕ぬる能〔あた〕はずとは今回の戦争の与へたる大なる教訓である、聖書を斥〔しりぞ〕けて人の知慧に頼らんとする者に対しては我等は一言「かの独逸を見よ」と曰ひて之に答ふる事が出来る、単純なる基督者の実験は神学者の学説よりも遥〔はるか〕に貴くある。
 
第二此預言は勿論聖書の一部にしてヱルサレムの滅亡を示すものなりと、此説はヱルサレム滅亡の歴史に徴して甚〔はなは〕だ有力なる解釈である、ヨセファスの記録によればヱルサレムはキリストの此言を発したる後三十六年余にして恰〔あたか〕も茲〔ここ〕に預言せられたるが如き状態に於て滅亡したりといふ、加之〔しかのみならず〕二十四章三十四節にヱルサレム滅亡の意を示すべき言がある、「我れ誠に汝等に告げん、之等の事悉〔ことごと〕く成るまで此民は廃(う)せざるべし」と、茲に「民」と訳せられしは英語のgeneration 希臘〔ギリシア〕語のgenea にして「一代」の意を有する語である、即ち「之等の事の成就を現在生存せる人々の目を以て見るを得べし」との謂〔いい〕である、然らば其預言は近く四十年以内に起るべきヱルサレムの滅亡に関するものと見るは適当なる解釈である。
然しながら此説は聖書の解釈を助くるも其権威を失墜せしむる、何となれば爾後〔じご〕四十年以内にヱルサレムは滅亡したりと雖〔いえど〕もキリストは再臨せざりしが故に彼自身の預言は外(はず)れたりと言はざるを得ないからである、之れ聖書を神の言として受くる者の信ずる能はざる所である。
 
第三にヱルサレムの滅亡に非ず世の終に関する預言なりと、genea を「代」と読まずして邦訳聖書の如く「民」と読まば此説を主張する事が出来る、「此民」とは言ふ迄もなくユダヤ民族である、而してユダヤ民族は未〔いま〕だ亡びざるが故に基督再臨の預言の成就は尚〔なお〕未来にあるを妨げない、ヱルサレムは一度び亡ぶるも世の終に至つて回復し而して再び大審判が之に臨むのである。
ヱルサレムの滅亡か世の滅亡か、此研究の関ケ原と称すべき分岐点はgenea なる一語の解釈如何にある、恰も馬太伝二十六章六十二節のaparti(此後)と均しく再臨信者を躓〔つまず〕かしむる事多き一語である、聖書研究の困難は斯〔かか〕る点に存する、然しながらgenea を「民」と読むは決して理由なき解釈ではない、第一此処〔ここ〕に「廃せざるべし」と記されたる語は次節に於て「天地は廃(う)せん、されど我言は廃(う)せじ」とあると同一の語にして「全然消え去る」の意である、故にこれを「時代」に適用しては其の意義明確を欠くに反し「民族」に適用すれば世の終の滅亡を示すものとして妥当(だとう)である、第二希臘語のgenea 其ものが既〔すで〕にアラミ語の翻訳である使徒等は果して此訳語を「代」の意に用ゐたるや否や、近頃エール大学教授トーレー氏使徒行伝の前半を試にアラミ語に還元したれば難解の語句は多く除去せられたりといふ、genea も亦之をアラミ語に訳し返して見なければならない、而して現に七十人訳聖書中旧約の「民」の字に充つるに希臘語genea を以てしたるもの数ケ所あるに徴すれば此場合に於ても亦「民」の意に解すべきに非ずやと思はる。
此解釈に対しては権威ある学者の後援がある、有名なるゴーデー先生が八十年間の聖書研究の結果を発表せんとして筆執りし其最後の著述(馬太伝の研究)中に於てかの大聖書学者は此説を主張して居る、又彼と同じく篤信(とく)家にして博学の点に於ては彼を凌駕〔りようが〕する均しく瑞西(スイス)の学者ガウセンも亦同じ意見である、余輩は馬太伝二十四章を世の終に関する預言と見て謬〔あやま〕らざるを信ずる。
然しながら之を全然世の終にのみ関するものと見るは余りに局限せられたるの観なきを得ない、「其時ユダヤに居る者は山に遁(のが)れよ、屋上に在るものは其家の物を取らんとて下る勿れ……汝等冬又は安息日に逃る事を免〔なか〕れん為に祈れ」(十六―廿節)と言ふが如きは全くユダヤ的の語調である、是に於て更に第四説ある所以〔ゆえん〕である。
 
第四ヱルサレムの滅亡を預言すると同時に兼ねて世の終を預言するなりと、此説に対しては或は遁辞(とんじ)なりとの非難あらん、然しながら斯の如きは必ずしも稀有の事ではない、殊に所謂〔いわゆる〕預言心理学(Prophetic Psychology)の立場よりすれば最も容易に解し得べき事実である、例へば茲に一青年を訓誡せんとするに方〔あた〕り其当面の問題を論ずると共に熱情溢れて遂に彼が最後の滅亡を訓誡し更に当面の問題に復帰するが如きは蓋〔けだ〕し日常普通の事例である、其の如くイエスも亦ヱルサレムの滅亡に就て語ると共に彼の心に世界終末観湧き来りしが故に話頭自ら之に転じ更に又ヱルサレム問題に復帰したのであらう、人類の救主たる彼の如きにありては時事問題の常に絶対的終局的色彩を帯ぶるは誠に当然の事である、而して我等の実際的経験も亦此事実を説明する、此点に於て我等日本人は西洋人よりも聖書研究上甚だ有利なる立場に於てある、西洋人の頭脳は余りに定義を重んじ事物の判然たる区別を好むが故に斯種〔このしゆ〕の消息を解するに困難である、彼か此か(かれこれ)其一を択〔えら〕ばずんば已〔や〕まない、然し乍ら聖書の預言は或る意味に於て日本画に類する、靉靆(あいたい)たる暈抹(ぼかし)の中に明確なる区別を存するのである、故に各自の信仰の実験と東洋の美術的思想とを以てして最も良く之を解釈する事が出来る、馬太伝二十四章はヱルサレムの滅亡と世の終末との混淆的預言である。
 
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